【 歌う壁 】
◆lxU5zXAveU




44 名前:No.11 歌う壁(1/5) ◇lxU5zXAveU [1/5] 投稿日:07/05/13 22:35:27 ID:jEMWqZX3
 ミミは教会を曲がり、お気に入りの小道に入った。そこには派手な絵が壁いっぱいに描かれてい
る。入れ墨をした天使が昼寝をしたり、ジャガイモをぶちまけたりしている。ミミはビールを飲み
干している天使の絵が好きだった。こんな絵を家の壁に描いて楽しくするのが、クリスマスまでの
計画だった。ビール天使は紺青の石をはめ込んだ指輪をはめている。どの色もざらざらした粒で盛
り上がっていた。
 ミミは、この壁に秘密があることを知っている。
 壁はくねりながらお墓へ続いている。今日は急いでいた。工房への路地を曲がりながら、振り返
ってお墓へ続く先にむかって首を伸ばした。
 灰色のスーツをきた老人が立っていた。
 老人はカバンを下げ、壁に向かったまま動かなかった。小さな丸眼鏡をかけていて、ミミは「お
医者さまだ」と思った。きっとカバンには大きい注射が入っている。でもこの絵が好きなら友達
だ。ミミは老人に近寄った。
「その絵、いいでしょ?」
「……お嬢さんも好きですか。私の国にいた天使より、ずっといい。彼らには愛しかなかった」
「愛も大事よ。でも大人になったの。苦いビールが美味しくなっても罪じゃないわ」
 老人が笑って、ミミに振り返った。「この絵を描いた人は、もう死んだかな?」
 絵の作者。ミミは我に返って、教会の塔を見上げた。もうすぐお昼で、ミミには工房に用事があ
ったのだ。慌てて路地にきびすを返しながら、老人に向かって手を振った。
「ゼクスさんでしょ。今日も描いてるわ」
 お昼の鐘に追いかけられるようにして、ミミは工房に入った。工房は、青い石塊でいっぱいだっ
た。ビール天使の指輪の色だ。鐘の余韻がやまぬうちに、甲高い音で石を切断していた機械が止ま
って、働いていた男達が手袋を脱いだ。
 ミミは砂ネズミ色のシャツをきたルッツに駆け寄った。
「ルッツさん、石をもらいにきたの」
「今日は遅かったな。バケツに入れといたよ」
 ルッツがテーブルの下から、バケツを取り出してミミに手渡した。ミミは中身を素早く確認す
る。ミミが見込んだ通り、ルッツの目は確かだった。鮮やかな屑石だ。「さすが宝石職人ね」
「いい色だろ」ルッツが笑って、拳大になった塊を棚に並べた。

45 名前:No.11 歌う壁(2/5) ◇lxU5zXAveU 投稿日:07/05/13 22:36:33 ID:jEMWqZX3
 ミミは、森の端に隠れるように建つ小屋についた。正面にはヤギが繋がれている。扉はゼクスが
打ちつけてしまった。ヤギ小屋がある裏手に入り口がある。
「ご飯は食べたのか?」
 ミミが入ってくるのを知っていたかのように、ゼクスが背中を向けたまま声をかけた。大きなカ
ンバスに、刷毛で赤を塗りつけている。ひょろひょろの白髪には絵の具が散って、頭皮を透かして
いた。
「一緒に食べる」ミミは小さな冷蔵庫から瓶を取り出して、ヤギの乳をカップに入れた。もうひと
つにもミルクを入れてテーブルに置くと、ゼクスが筆をおいて振り返った。椅子を出して、ミミを
座らせる。
「工房にラピスラズリがたくさん入ったんだって。ビール天使の指輪でしょ」
「いい石だ。砕いて白くなるようなのは駄目だ。色の名前は?」
「ウルトラマリン」
「覚えたな。今日は、絵の具を作ってみるか」
 ミミは目を瞬かせた。パンを齧りながら、足をバタバタさせる。ママは怒るが、ゼクスは怒らな
い。一緒になって笑った。
 食べ終わると、ゼクスが絵の具の作り方を教えてくれた。バケツの底から屑石の粉をとって、す
り潰す。粉と油を練り合わせると絵の具ができる。ようやくゼクスがうなずいた時には指と肩がこ
わばっていた。
 ゼクスは残りの粉を全て瓶につめると、ヤギの寝床がある入り口までいって、積み上げてある灰
色の瓦礫をひとつ取った。分厚いマスクをかけて、バケツに入れた石を荒く砕く。砂礫になった粒
を瓶に移した。この粒を全ての絵の具に混ぜる。
「それが、ざらざらするの?」
「肺を痛めるから、全体に混ざるくらいでいいんだ」
「色がないのに、どうして入れるの?」
 ゼクスは指を唇にあてて、瓶を振った。秘密の魔法を教えるように囁く。
「歌わせるためだ」
「話して!」ミミはテーブルを叩いた。ゼクスは迷うような素振りをして「休むか」と刷毛を桶に
放り込んだ。そして子供だったころの話をした。

46 名前:No.11 歌う壁(3 /5) ◇lxU5zXAveU 投稿日:07/05/13 22:37:06 ID:jEMWqZX3
地面に座りこんだゼクスは、喪服の人々が飲み込まれていった扉を睨みつけていた。中ではイエ
ス様が待っていて、魂を天国につれていくのだと神父に教えられた。戦争中だった。
「祖母さんは土の中にいる」
「違うよ、天国だ」と足元から声が返る。地面に落書きをしていたスピッツだった。スピッツはあ
だ名で、耳と歯が尖っている。
「祖母さんに会いたければ教会にこいって言われた。まるでイエス様が誘拐したみたいだ」
 祖母の魂を返せ、と神父に言ったら放り出された。貧乏な町だが教会は立派だった。天使は何を
していたんだ、とゼクスは立ち上がった。墓に続く小道からスピッツを手招きする。
「お前の父ちゃんが教えてくれたやつ、やるぞ」
 スピッツの父親は宝石職人だった。メノウに顔を掘り出したりしながら、絵を描く妻のために岩
絵の具を作っていた。大人の目を盗みながら教会の壁にぐるりと落書きをしてまわる。天使が仕事
をサボっている絵だった。スピッツは上手だったが、ゼクスは下手だった。
 あくる日、しめあげられたスピッツが白状してゼクスは木に吊るされた。スピッツは落書きをや
めたが、ゼクスは何度も描いては神父に叱られた。
 戦争が終わりを迎えた頃に、ゼクスとスピッツは軍に入った。隣国と緊張関係にあった当時、国
内にいる諜報員を監視するのがゼクスの仕事だった。スピッツはある日、旅行カバンを持った軽装
でゼクスを尋ねてきた。
「向こうに行くことになった。たぶん暫く帰らない」
 隣国で流通している絵筆をゼクスに見せながら、「うちより酷い」と笑う。ゼクスはスピッツを
からかった。「凄くいかすな。どこから見ても諜報活動員だ」
「言うなよ。絵描きを目指したんだぜ」
 隣は平気で人を消す。帰ってきた同僚の話を聞かなかった。戦争は終わるのに、まだ殺し合いを
している。
 さんざん二人で飲んだくれて歌った後、スピッツは道具箱をゼクスに押し付けて出て行った。ゼ
クスはスピッツが隣国へ抜けた場所まで行ってみた。そこは灰色の長い壁が国を仕切り、軍人が教
会を見張っていた。壁の向こうに飲み込まれたら、もう帰ってこない。教会と同じだ。そう思う
と、ゼクスは無愛想に続く壁に落書きがしたくなった。仕事をサボる軍人の絵だ。でも、壁向こう
のスピッツは落書きを見れない。

47 名前:No.11 歌う壁(4/5) ◇lxU5zXAveU 投稿日:07/05/13 22:37:46 ID:jEMWqZX3
 スピッツが残した道具箱には、筆や刷毛と絵の具の作り方が入っていた。鉱石をすり潰して基材
と混ぜる方法。独特の色合いを作る原料の配合。手紙は入っていなかった。
 壁が崩れた年まで、ゼクスは軍務を続けた。スピッツの母親が死んだ年には、発見した隣の諜報
員に殺されかけた。だが銃が暴発したお陰で助かった。廃棄された猟銃は記念に保管した。スピッ
ツの母親を見送った後、ゼクスは久しぶりに壁に出かけた。何かのデモがあったらしく、緊張した
軍人が並んでいた。諜報活動での殺人が明るみに出て、壁の向こうで沢山の諜報員が処刑されたと
いうニュースが流れたのだ。
 ニュースをその場で聞いたゼクスは、壁に向かって叫んだ。スピッツ。もう帰ってこい。スピッ
ツの名前を呼ぼうとしたのに、違う叫び声が溢れてきた。矢のような叫び声。周りにいた人が、妙
な顔をして振り返る。ゼクスは叫び続けた。隣の男も大声を出した。女の声が加わって、叫びの矢
は音の波になって辺りを震わせた。波は壁を超えて、下らない調子を帯びた、誰もが聞いたことの
ある飲んだくれの歌に変わっていく。
 もういいじゃないか。帰ってこい。母さんが待っている。
 やがて、壁の向こうからも歌が聞こえてきた。

 ──まるで、壁が歌っているようだった。
「俺はスピッツを返せと歌った。向こうのやつらも、家族を返してくれと歌っていた」
「たくさんの人に頼まれて、壁は困ったと思うわ」
 首を傾けて、真面目な顔をしているミミを見て、ゼクスは笑った。
 壁をはさんだ殺し合いは生きている間に終わりを迎えた。人々が壁に群がった。ゼクスは以前か
らやりたかったことを壁にした。サボる軍人の絵は描けなかったが、スピッツの名前は書けた。そ
の名前も崩されて、今は瓦礫になっている。
 ゼクスは瓦礫を拾って家に持ち帰った。家には絵の具箱と、瓦礫と猟銃が残った。
「石は歌う。誰かが歌って聞かせると、石は長い間、歌い続けるんだ」
 スピッツは壁の歌を聞いただろうか。ゼクスはスピッツのレシピに歌う壁を混ぜて、墓へ続く小
道に落書きを始めた。俺の家族を返せ。神父は何もいわなかった。
 もしかしたら、歌が聞こえたのかもしれない。
「その歌が、私にも聞こえたらいいのに」ミミが口を尖らせる。
「俺には聞こえる。ミミにも聞こえるかもしれないよ」
 ゼクスは、歌のつまった瓶を耳元へ寄せた。枯れ枝を踏む音がした。

48 名前:No.11 歌う壁(5/5) ◇lxU5zXAveU 投稿日:07/05/13 22:55:02 ID:ETlHlj2r

 ゼクスが音もなく立ち上がった。お客様かしら、とミミは汚れた窓に顔を寄せる。外にはヤギが
いるだけで人影がなかった。振り返ると、ゼクスは猟銃を持っていた。
「……それ、撃てるの?」
 手振りでミミを下がらせて、ゼクスが入り口を向く。老人がいた。お墓への小道にいた老人だっ
た。長細い刃物を持っている。お医者さまが使う道具ではない。
「後始末を続ける奴がいるとは聞いたが、こんな所にもくるのか」
「私には友人がいた。教会の壁に落書きをする男に殺された」
「子供がいる。ひどいところは見せないでやってくれ。──伏せろ、ミミ!」
 爆発音に吹き飛ばされるようにして、ミミは地面に倒れた。全身が痺れる。はあはあ、と息が耳
にこだました。指が瓦礫の山を掻いた。ゼクスを助けなくては。ミミは瓦礫を掴んだ。投げた石は
どこかに当たりミミに跳ね返った。もうひとつ。顔を上げると、腕の半分を真っ赤に染めたゼクス
がいた。「ゼクス!」ゼクスは殺していないはずだ。銃は暴発したのだから。
「殺せば気がすむんだな」
 無言の老人が、刃をゼクスの心臓にむける。ミミは瓦礫を投げた。顔を狙った瓦礫は、放物線を
描いて、老人の左手に収まった。老人は掴んだ瓦礫に目を落とす。
「……お前も、あの歌を聞いたのか」
 ゼクスは答えない。ゼクスは髪よりも白い顔になっていた。がくがく震えているのはミミではな
かった。ミミは絶叫した。

 消毒薬を使っていた老人は、赤く汚れたガーゼを捨てて、ゼクスに注射した。包帯を巻かれたゼ
クスは動かない。やっぱりお医者さまだったのだ。ミミはゼクスのそばで床に座りこんでいた。ひ
どく眠い。
「お友達のスピッツも、戻ってこなかったの。でも壁が歌えばきっと聞こえるわ」
 しわがれた声が、小屋の中に響く。もういいじゃないか。老人は膝を抱えて顔を埋めた。酷く小
さく見える老人の腕に、ミミは手をかけた。もう片方でゼクスの手を握る。
「歌が聞こえた人は、友達なのよ」
 細い歌が途切れて、老人が泣きだした。



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