【 リサイクル 】
◆wDZmDiBnbU




26 名前:No.07 リサイクル 1/4 ◇wDZmDiBnbU 投稿日:07/05/13 19:11:47 ID:vAiQ2zJY
 実家から電話が来たので、ぶち切れた。
 母からだった。用件はわからない。よくあることと言えばそうなのだけれど、それでも毎度
毎度ご丁寧に逆上してしまう私自身が大嫌いだ。でももっと嫌いなのは、完全に酔っぱらって
ろれつの回らない母だ。
 出し抜けに「さっき変な電話よこさなかった?」なんて聞くから、そんな憶えのなかった私
は少し緊張した。最初は「もしや振り込め詐欺というやつか」と思ったけれど、話しているう
ちになんだか私の方が詐欺に遭っているような気分になってきた。私は電話なんてしていない、
たったそれだけのことを説明するのに、少なくとも五分はかかったと思う。
 母は完全に出来上がっていた。もう十時を回っていたから、いつものことだ。それでも今日
はまだましな方だ。五月の連休が明けてから最初の土曜日、母の会社は休業ではないらしかっ
た。日中から飲んだくれずに済む分だけ、まだ軽症と言えるだろう。
 私の母はいわゆるキッチンドランカーで、もっと正確にいうならアル中だ。アルコール中毒
の医学的な定義はよく知らないけれど、私にしてみれば他に言いようがない。薄暗い台所で毎
晩毎晩、チューハイの空き缶を量産しながら、灰皿に吸い殻の山を作るのが彼女の日課だった。
「だってさっきの電話、声が紗香と同じだったじゃない」
 そんなの知るか、と怒鳴りそうになるのをどうにか堪えた。「だったじゃない」なんて言わ
れても、そんなこと私にわかるわけがない。だいたいにして、その言葉だけでもう五回も聞い
ている。きっかり五回、ちゃんと数えている自分にも腹が立った。
 こんな細かい性格になってしまったのは、きっと母のせいだと私は思う。そのくせ私が「そ
れさっき聞いた」なんて言うと、母は途端に嫌な顔をする。馬が合わない、というのはこうい
うことだろう、実家にいた頃はささいな喧嘩が絶えなかった。そんなどうでもいい諍いでも、
やっぱり母の話はループする。私が理詰めで説教すると、しまいには母は泣いてしまう。そし
て「誰も私のことを理解してくれない」みたいな顔して台所の奥に引っ込むのだ。その自分勝
手で投げやりな態度が、余計に私の癇に障る。その頃の私は、早く家を出たいと毎日のように
思っていた。
 電話に出てから十分くらいで、母の話はようやく先に進んだ。母のいう「変な電話」は、ど
うやら詐欺の類いではないようだった。でも考えようによっては、詐欺の方がまだましだ。詐
欺に引っかかったくらいなら、まだ母に同情できたかもしれない。
 電話は、なんと言うべきか、とにかく『変態さん』からのものだった。
 内容はあまり言いたくない。かいつまんで言うと、「胸を触って」とか「想像してみて」と

27 名前:No.07 リサイクル 2/4 ◇wDZmDiBnbU 投稿日:07/05/13 19:12:16 ID:vAiQ2zJY
か、あるいはそれよりもきわどいこととか、そんなことを一方的にまくしたてる電話だったら
しい。そんなおかしな電話をもらって、母は随分混乱しているようだった。私だって、できる
ことなら同情してやりたい。他人だったらそうしたと思う。でも、こればっかりは、無理だ。
 私は思いっきり母を怒鳴りつけた。アパートの隣部屋まで聞こえたかもしれないけれど、構
うものかと私は思った。まったく冗談じゃなかった。なんで私が、実家にそんなおかしな電話
をしなきゃいけないのか。仮にその声が私に似ていたにしたって、どうしてそんな変態と自分
の娘を勘違いしたりするのだろうか。たとえどんな親不孝者であったにせよ、私はこの人の唯
一の娘だったはずじゃなかったのだろうか。
 ふざけるな、と思った。実際そう怒鳴った。もう怒りを通り越して、悔しささえ感じる。思
いつく限りの罵声を浴びせて、二度とかけてくるなとまで言った。言い過ぎかもしれないと思っ
ても、それで苛立ちが収まることはない。私にしてみれば、これほどの屈辱はいままでなかっ
た。
 案の定、母は泣いた。親を泣かすなんて、ひどいことだというのは十分わかっている。でも
私は反省する気になんてなれなかった。それどころか、苛立ちは倍増するばかりだ。私は、泣
く母が嫌いだ。酒に逃げてばかりでなにひとつ顧みないところが嫌だ。「ごめんね」と謝る、
そのどこか卑屈な、でもなにかを諦めたみたいな中途半端な態度が、大っ嫌いだ。
「紗香、ごめんね」
 母の謝罪を聞き終える前に、私は電話を切っていた。切っただけでは収まらず、私は携帯を
壁に投げつけた。腹が立って仕方がなかった。相変わらずの母も、そして自分も。カッとなっ
てものを投げるのは、母がヒステリーを起こしたときの癖だった。それとまったく同じことを
している自分が、どうしても許せなかった。
 大学進学をきっかけに、実家を出たのが五年前のことだ。大学はストレートで卒業できたけ
れど、就職はうまくいかなかった。アルバイトの収入なんて微々たるもので、当然のことなが
ら生活は苦しい。それでも親が一方的に振り込んでくる仕送りには、どうにか手をつけずに生
きてきた。まだなんとかなると、この間まではそう思っていた。
 均衡が崩れたのは、三年間付き合った彼と別れたときだった。彼に別れ話を切り出されるま
で、私は自分の幸せを信じて疑わなかった。私はあの人とは違う。毎日自分の夫と喧嘩して、
泣きながら酒に溺れるような、そんな母のようにはならないと心から信じていた。信じていた
ものが消えてなくなって、その代わりに私を支えたのは、あれほどまでに忌み嫌っていたはず
の、アルコールだった。

28 名前:No.07 リサイクル 3/4 ◇wDZmDiBnbU 投稿日:07/05/13 19:12:50 ID:vAiQ2zJY
 実家からの着信があったとき、私はほろ酔いだったと思う。でも携帯を壁に叩き付けたおか
げか、酔いは幾分醒めつつあった。携帯を持っていた右手が空になって、左手には発泡酒の缶
がある。のんきに晩酌なんてできるほどの収入は、私にはない。この飲み代は、親の仕送りか
ら出ている。人の、それも大嫌いな人間の金で買った、最低のアルコール。それに溺れる自分
の姿が、記憶の中の母にぴったりと重なった。
 鈍い音がして、部屋の床に酒臭い泡が飛び散った。壁にぶつけられたアルミ缶は、あっけな
いほど簡単に歪んだ。私はそれを拾って、元に戻そうとしたけれど、できなかった。べこべこ
と音を立てて、あっちが曲がり、こっちが歪んで、しまいには完全にぼこぼこのひどい姿にな
る。一度歪んでしまった跡は、もう絶対に修復できない。
 さざ波が引くかのように、一気に酔いが醒めた。むせ返るようなアルコールの匂いが鼻をつ
いて、酸っぱいものが喉元にこみ上げる。それと同時に視界が滲むのを、私は必死でごまかそ
うとした。一人で喚いて一人で泣くなんて、愚かしいにも程がある。あの人と同じには、なり
たくない。仮に、もう遅いと言われたとしても、そんなことは絶対に認めない。
 私は意識を他の部分に向けようとした。力一杯投げつけたせいか、右肩が少しずきずきと痛
む。過去にも似たようなことがあった。確か高校生の頃だったと思う。私が全力で投げたそれ
は、なんの変哲もない石ころだった。家の廊下のつきあたりに飾ってあったもので、二つあっ
たうちのもう一方だ。その表面に、油性マジックで書かれた模様は、きっと他人が見ても一体
なんなのかわからないだろう。一つは母の顔で、もう一つは父の顔――私が幼稚園の頃に両親
に送った、母の日と父の日のプレゼントだった。
 そのうちの、母の石を、私は窓から投げ捨てた。きっかけは憶えていないけれど、きっとい
つも通りの喧嘩のあとだったと思う。投げられた石は、真っ直ぐに飛んで通りのドブ川に落ち
た。その日から、二つあった石は、一つになる――そのはずだった。
 不思議だった。何度考えても、いくら思い出そうとしても、石が一つだけしかなかったとい
う記憶がない。私の記憶の中では、石はいつも二つ一揃いで並んでいた。ようやく思い出せた
のは、私が石を投げ捨てた翌日のこと。普段滅多に会社を休むことのなかった母が、その日は
珍しく欠勤の電話を入れていた。朝からそわそわして、ゴミ箱をひっくり返したり、様子がお
かしかった。理由はもう、考えるまでもない。私が学校から帰ってきたときには、全てがいつ
も通りだった。廊下のつきあたりには、二つの石が元通りに並んでいた。
 もう、ダメだと思った。生暖かいものが頬を伝う感覚は、いくらどう頑張ってもごまかしよ
うがない。喉の奥からかすれた声がこぼれて、うめき声のような奇妙な声が響いた。一度溢れ

29 名前:No.07 リサイクル 4/4 ◇wDZmDiBnbU 投稿日:07/05/13 19:13:18 ID:vAiQ2zJY
出すと、もう、止めようがない。耳の奥がつんとして、どのくらいの声で泣いているのかもわ
からなかった。胸の内側にこびりついた何かを、全て吐き出し終えるのに、結構な時間がかかっ
たように思う。
 天井がぐらぐらして、壁が滲んだりぼやけたりして――それがどうにか収まったのは、日付
が変わったあたりだった。
 ひとしきり喚き終えると、妙に落ち着いた気分になるのは、不思議だった。落ち着くという
か、嫌なことも良いことも、何もかも全部が遠ざかっていったみたいな、まるで凪のような気
分。それはあまりに平坦すぎて、意識がどこまでも覚醒しているのがわかった。体も心も疲れ
ているはずなのに、目が冴えてとても寝付けそうにない。
 私は濡れてしまった床を奇麗に拭いたあと、ジャケットを羽織って外へと出た。まだ一度も
行ったことはないけれど、少し歩いたところに河原があるはずだ。そこならきっと手頃な石が
見つかるだろう。その途中でコンビニに寄って、油性ペンを買うのも忘れちゃいけない。
 何かが片付いたわけじゃなかった。それどころか、嫌なことは年々増えている気がする。で
も、もうそんなことはどうでもよかった。私はやっぱり、母のことが嫌いだ。きっと一生いが
み合いを続けるのだと思う。でも、だからなんだというのだろうか。母は母で、父は父で、私
は私。そしてその三人は、たとえ嫌だろうとなんだろうと、家族であることには間違いない。
それだけは、どうしたってもう、変えようのないことなのだ。
 こんな簡単なことに気付くまで、随分と時間をかけてしまった。私はもう一度、心に実家の
廊下を思い描いた。そこにはまだ、一つ足りないものがある。
 父の石は大きく、母の石はそれよりも少し小さい。それよりももっと小さな石に顔を描くの
は大変だな――と、私は一人、夜の空を見上げた。

<了>



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