【 石になった、妻 】
◆BLOSSdBcO.




14 名前:No.04 石になった、妻 1/5 ◇BLOSSdBcO. 投稿日:07/05/13 12:10:09 ID:kPImsNza
 妻が余命を告げられた時、私はどんな顔をしていただろうか。
 思い出せるのは、うろたえる私の横で諦めたような微笑を浮かべた彼女の顔だけだった。
「ごめんなさい、あなた」
 家から入院に必要な物を取って来た私に、妻はそう言った。
「心配するな。お前は自分の体を大切にしろ」
 私は涙を堪えるのに精一杯で、ぶっきらぼうに答えることしか出来なかった。
 初めは小さな違和感だったという。何も無い所で躓いたり、指先が上手く動かなかったり。気付けなかった
理由を仕事の忙しさに押し付けられるほど、私は顔の皮が厚くない。
 鈍い私が妻の異変に気付いたのは、とある休日の事だった。リビングで新聞を読んでいると、
「ごめんなさい、ちょっと指を切ってしまったの」
 と彼女がやってきた。料理の上手い妻にしては珍しいな、とその傷を見た私は、慌てて救急車を呼んだ。
傷を押さえる彼女は
「大げさですよ。あまり痛くありませんし」
 などと言っていたが、指が奇妙な形になっていたのだ。あふれ出る血に隠れて骨まで達していたに違いない。
 搬送された病院で彼女が縫合を受ける間、私は医師に妻が痛みを感じていなかった旨を伝えた。過保護だ
心配性だと笑われるかもしれないが、何故か、嫌な予感がしたのだ。
 輸血中の血液検査と問診を経て、全身の精密検査。彼女も自分の不調を分かってはいたのだろう、大人しく
それらをこなしていった。
 結果は、もはや手遅れ。余命半年と言われた。
 誰が悪いのかと問われれば私は自分自身を弾劾するだろう。
 時計の針は神にも触れられない、と言ったのは、どこの誰であったろうか。

15 名前:No.04 石になった、妻 2/5 ◇BLOSSdBcO. 投稿日:07/05/13 12:10:45 ID:kPImsNza
 次の日から、私の生活は大きく変わった。
 幸いにも勤め先は警備保障会社、シフトを夜勤の管理センターに回してもらった。朝方に帰宅して眠り、
夕方前に起きて病院へ行き、妻と話してから仕事へ向かう。進行を妨げる効果がある、と医師に言われた
マッサージは毎日してやった。
「ごめんなさい、こんな事をさせてしまって」
 彼女は腕を擦られながら申し訳なさそうに謝ったが、私は無言で続けた。

 一ヶ月が過ぎた頃、妻の指はもう何も感じなくなっていた。筋肉が萎縮し、骨の硬さだけが残っている。
「最近、やつれたんじゃありませんか? お食事はちゃんと摂ってらっしゃいますか?」
 彼女にそう言われた。自分の病状を放っておいて私の心配ばかりする。
 私は彼女に心配をかけない為にしっかりと自炊して、時間に余裕のある時は掃除や洗濯もしている。
 慣れない家事が辛くもあったが、彼女は言う事を聞かない体で同じ事をしていたのだ。自らへの罰だと思えば
手を抜く事も出来なかった。

 二ヶ月が過ぎた頃、手首と足首にまで麻痺が広がった。
「本が読み辛くなってしまいました」
 と苦笑する読書家の妻に、指サックを渡す事しか出来なかった。
 上司に、最近頑張っているな、と褒められた。そんなつもりはなかったのだが、仕事に集中している間だけは
何もかもを忘れられるような気がしていた。

 三ヶ月が過ぎ、肘から先が無くなったようだ、と謝られた。
 何を謝る必要があるのだと問うと、
「どうせ死ぬのなら、こんな拷問は早く終らせたいでしょう?」
 と自棄になった顔で呟かれた。拷問とは、妻と私、そのどちらにとっての事だろうか。
 とにかく私は彼女の頬を打ち、それから抱きしめた。肩に染みる暖かいものが辛かった。

16 名前:No.04 石になった、妻 3/5 ◇BLOSSdBcO. 投稿日:07/05/13 12:11:09 ID:kPImsNza
 告げられていた余命、半年が過ぎた。
 私の拙いマッサージにも効果があったのか、妻はまだ生きていた。
「ごめんなさい、私、まだ死ねなくて」
 腕はもう上がらず足も何も感じられない。呼吸すらも億劫という体の彼女を、何度楽にしてやろうと思ったか。
 医師に、指先の細胞が壊死して切断しなくてはならない、と告げられた。

 一年が経ち、春が訪れた。
 桜の花びらを頭に乗せた私を、両手足を失った妻が笑った。
「ごめんなさい、少し昔を思い出してしまって」
 私たちが交際を始めたばかりの頃、二人で行った山の風景を思い出したと言う。
 久しぶりに見た彼女の笑顔。その日は仕事中も浮かれていて、同僚に気味悪がられた。

 二年目はあっと言う間だった。
 時たま風邪をこじらせるようになった妻に、彼女の好物を差し入れた。
「ごめんなさい、お仕事で忙しいのに」
 缶詰のシロップを洗面台に流し、白桃を彼女の口に運ぶ。
 甘い香りが白い部屋を染めた。

17 名前:No.04 石になった、妻 4/5 ◇BLOSSdBcO. 投稿日:07/05/13 12:11:39 ID:kPImsNza
 妻が入院してから、三年。
 長くもあり、短くもあり。決して楽しい日々ではなかったが、辛いばかりでもなかったように感じる。
 昨日から危篤になった妻の枕元で、じっと彼女の顔を見つめていた。
 生命維持装置の一定のリズムが眠気を誘うが、目蓋を閉じる事は出来なかった。
 ふと。何の拍子だったのか、彼女は目を開けて私を見た。
 人工呼吸器のマスク越しに、くぐもった声で語りかけてくる。
「ごめんなさい、あなた」
 確かにそう聞き取れた。
「私なんかを妻にして、こんなに迷惑をかけて、本当にごめんなさい」
 苦しそうに言う彼女の頬に手を当てて、私は呟く。
「最後まで謝ってばかりなんだな」
 夏美は、耳も聞こえなくなっていた。今こうして言葉を発しているだけでも奇跡なのだ。
「私はお前といられて良かった」
 だから、何にも憚ることなく、初めて本心を語れた。
「私はこの三年間も幸せだった。お前には悪いが、お前の世話をしてあげられることが嬉しかった。
 いつも仕事ばかりで家庭を顧みなかった私が、お前の大切さに気付いた。いつも傍にいながら何もして
やれなかったお前に、出来る限りの事をしてやろうと思えた。
 私はお前と暮らした日々が、何よりも幸せだった。今こうして、お前を見取ってやれることもだ」
 不思議と涙は出てこなかった。きっと彼女の前では堪えることが癖になっていたのだろう。それとも、もう
枕に全てを吸われ尽くしたか。私の言葉が聞こえないはずの彼女は、何故か微笑んだ。それから泣いた。
「あなた、私、死にたくありません……まだ、死にたくありません……」
 二人で過ごした時間の中で、初めて聞く彼女のわがままだった。
 それすらも叶えてやれない無力さに、ただ強く抱きしめることしか出来なかった。
「あなた……私も、とても幸せでした」
 耳元で、かすれた声で囁く。
「ありがとう、ございました」
 私は顔を上げられなかった。腕の中の温もりが消えてしまうのが怖くて。
 そのままずっと、彼女の堅くなった小さな体を抱きしめていた。

 ――妻は、逝ってしまった。

18 名前:No.04 石になった、妻 5/5 ◇BLOSSdBcO. 投稿日:07/05/13 12:12:18 ID:kPImsNza
 はらはらと、薄桃色の花弁が宙に踊っていた。
 真新しい墓石に花をそえ、線香をさす。
「指先から、石になっていくみたいです」
 と困ったような笑みを浮かべた妻は、手のひらに乗るほど小さな姿になって、この石の下に眠っている。
 自分でも訳の分からない衝動で墓石を蹴り倒したくなるが、そんな力も湧いてこない。
 そっと、彼女に最後にしたように、墓石を撫でた。春の日差しに暖められたそれは、私の手にじんわりと
熱を伝える。
 三年間、決して妻に見せなかった涙。いつだって、彼女に心配をかけないようにしてきた。
 そうして凝り固まった心と表情が、優しい暖かさに溶かされる。
 頬に、むず痒さを覚えた。鼻の奥に、湿り気を感じた。
「……なぁ、お前」
 何を言おうとしたのか。今更、何を。
 続く言葉は嗚咽にかき消され、石畳に黒い斑点を作った。
 風に揺らぐ線香の煙に、たゆたう命の儚さを重ねてみた。
 ぼやけて歪む視界の中、どこまでも青々と広がる空の色が、胸に染みた。
                                                      【完】



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