【 海がきこえる 】
◆IQM320uRe6




68 :No.16 海がきこえる 1/5 ◇IQM320uRe6:07/05/06 23:45:46 ID:vXs62cuE
「今日の海は、3mの増水。津波の心配はありません。
 東京23区は完全に浸水しました。小さな子供を海の近くで遊ばせないようにお願いします」
「ぶっそうになったわね」
明子が呟く。
「そうだね」
僕らは海が広がって行く恐怖に怯えながら、高台のアパートで暮らしている。
この海の広がりは南極の氷が溶けたからではない。
異変が起きたのは、まず動物達からだった。
それまで人間達と共に住んでいた犬や猫が、ある時刻を境に、海へ向かって走り出したのだ。
ネズミやトカゲと言ったハ虫類もそれに続いた。
動物園のゴリラやライオンが暴れ出したと言うニュースも流れた。
大人達は海を恐れたが、両親の制止をふりきって海へ走り出す子供達も現れた。
けれど、生き物達は、海に浸かると姿を消した。
溺れて死んだと言うことではない。水に浸かった部分から消失していったのだ。
科学者達は海の異常を究明しようと努力した。
けれど、海の水をビン詰めにようとするだけで、そのビンが消滅してしまう。
それに、海に近こうとする者は突発的な高波に飲まれて、海に引きづりこまれることが非常に多かった。
人々はそれを、海の意志だ、とか、海の怒りだと言って恐怖した。
海が一つの生命体として地上を侵し始めたような、そんな印象だった。

「あなたはどう思う?」
「何を?」
「海って何でこうなってしまったのかしら」
「わからないよ」
「近頃じゃ、リストラされた会社員も海へ向かって走って行くって言うじゃない。どうしちゃったのかしら?」
「母親のおっぱいが恋しいんだろ」
人間の子供も、母親の胎内にいる時期に、代々引き継がれてきた海の記憶を見るのだと言う。
小さな塊が魚のような形になり、両生類のような形になり、そして哺乳類の形をとる。
その間、約二ヶ月。その頃の強烈な魚の記憶が、人間にも海を恋しくさせるのかもしれない。

69 :No.16 海がきこえる 2/5 ◇IQM320uRe6:07/05/06 23:46:03 ID:vXs62cuE
「魚には、視力があまりないらしいね」
「それで?」
「魚は目に見えるものより、大事な物に従って行動してるんだと思うよ」
「それって何」
「本能とか、触覚とかさ。魚はいま、どうしているのかねぇ」
海の異変以来、漁業は全てストップしていた。もう何ヶ月も魚の肉を食べていない。
そして僕らの暮らしも、これからどうなるのかわからなかった。
今はこの高台のアパートから会社へ通っているが、海は段々とその質量を増やしている。
消失した数に比例して、海は拡大もしている。
いつか、海が世界中の生き物を飲み込んでしまう日がくるかもしれない。

「ねぇ、あなたイデアって話を知ってる?」
「なんの話?」
「目に見える世界は全て本質の影で、永久不変の真実がどこかにある、って話」
「馬鹿馬鹿しいね」
「ロマンがあっていいじゃない。あなた、電気消してみなさいよ」
パチっと電灯を消してみる。暗闇。
「私が見える?」
見えるはずが無い。
「でも、私にはあなたが聞こえるわ」
明子がそっと、僕の胸に顔をうずめる。
明子の存在が、僕の両腕や胸を通して僕に伝わる。
「不安ね」
「そうだね」
唇を重ねる。

でも、言われてみれば、人間はたいして物を見ていないのかもしれない。
人の心が見えないように、本当は見えないけれども大切な物の方が多いのかもしれない。

70 :No.16 海がきこえる 3/5 ◇IQM320uRe6:07/05/06 23:46:20 ID:vXs62cuE
海が拡大しはじめて、1年経った頃、僕の会社も業務を停止した。
「皆さんの知っている通り、海の拡大は止むところを知りません。
 しばらくの間、会社は業務を停止することに致します」
無理もない、よくここまで続けたよ、という声が上がった。
これで、もう二度と働けないかもしれないな、と言う悲観的な声も聞こえた。
海は関東のほとんどを飲み込んで、未だに拡大を続けている。
日本の国会議員は早々にスイスなりなんなりに避難していた。国外へ脱出しようとする考えの者は少なく無い。

「君も脱出したい?」
「あたしは、いいわ。どこに行っても同じよ」
「そうだよなぁ」
自分はグラスに汲んだワインの量を見る。
「もう、仕事をすることは無いかもしれない」
「いいじゃない。あとはのんびり暮らせば」
テレビをつける、今日も入水した人間達のニュースが流れている。
「海かぁ、俺、行ったこと無かったんだよなぁ」
「本当?」
「うん。父さんと二人で山には行ったんだけどね。海はちょっと」
「なんで」
「俺んちの両親、離婚してたんだよ。男二人で海って、なんだか惨めだよ」
「今から行く?」
「おっかないな」
「でも、良いわ。海って良い場所だと思うの。
 夫婦って死ぬ時もどっちかが先に死んで、後に残される一人は子供に面倒をかけるのよ」
「暮らすってそういうことだと思うよ」
結局、自分たちには子供ができなかった。
死ぬときもきっと二人で死ぬのかもしれない。
「君は、俺と会えてよかったかな?」
「まぁまぁね」

71 :No.16 海がきこえる 4/5 ◇IQM320uRe6:07/05/06 23:46:41 ID:vXs62cuE
それから2ヶ月過ぎた、ある日のことだった。
「雨よ!!」
と明子が叫んだ。雨が降るのはいつものことだったが、その日の雨は少し違った。
雨が洗濯物や木々を溶かしていたのだ。僕は急いでテレビをつけた。

「現在、日本列島全域に雨が降り始めました。この雨は通常の雨とは違い、海と同じ効力のある雨のようです。
 道を歩いていた方で、姿を無くされた方の情報も寄せられています。
 危険ですので、外には出ませんようお願いします。繰り返します。危険ですので外には出ませんよう......」

僕は、とうとう来るべき時が来たなと思った。
「明子、こっちへ来い」
「どうしたの?」
「もう終わりみたいだ」
海からは逃げられても、雨からは逃げられないだろう。
徐々にアパートのバルコニーにヒビが入り、崩落して行く。
木々や、ビルや、コンクリートや、電柱や、壁や、地面が姿を無くして行く。
雨は段々と激しさをまし、鉛玉が落ちてくるのような轟音と、激しい洪水の音が聞こえた。
「怖い?」
「怖い」
僕と明子は身を寄せた。
ビルの天井が崩れる音がする。ドッカーン、ドッカーン、と柱が崩れて建物が傾斜して行く。
テレビには砂嵐ししか写っていない。窓が無くなって、外からの激しい風が吹きこんでくる。
自分の手や足に、雨粒がかかる感触がする。
僕は、強く明子を抱き寄せて、彼女の波打つ鼓動を聞いた。
「海の中でも聞こえるかな?」
「どうかしら?」
「海の中でも会えるかな」
「そうね。私に会いにきて」

自分の体が、ぽろぽろと水へ混じっていく。

72 :No.16 海がきこえる 5/5 ◇IQM320uRe6:07/05/06 23:46:58 ID:vXs62cuE
......。

僕は小さな猫だった。
僕は大きな犬だった。
僕は腹を減らしたネズミだった。
僕は蛇に食われそうになったトカゲだった。

僕は母の手を離れた幼な子で、
僕は仕事を無くした会社員だった。
僕は夫と離婚した僕の母親で、
僕は子供を山へ連れて行った僕の父親だった。

僕は生まれなかった僕の子供の気持ち。激しく降り始めた夕方の悲しい雨。空っぽになったワイングラス。
僕はノイズの入った砂嵐。崩れたコンクリート。ガラスを貫く激しい風。身体にかかった小さな水滴。
僕は女の耳が触れた胸。吐息のかかった小さな耳。合わせた唇。電灯の消された大きな不安。身を寄せあった二人のぬくもり。

(わたしはあなた)
(あなたはわたし)

ぼくにはもう耳がないけれど、きみのこどうがきこえている......
ぼくにはもう腕がないけれど、きみのからだをだいている......

(あなたはわたし)
(わたしはあなた)

えいえん が たてにさけている......
あなたと わたしが ないている......

わたしの なみうつからだのそこで......
やさしく あなたがひろがっていく......



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