【 あの海岸で待ち合わせ 】
◆D8MoDpzBRE
63 :No.15 あの海岸で待ち合わせ 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/05/06 23:34:56 ID:vXs62cuE
青空の中心で、真夏の太陽が輝いていた。網膜の奥まで焼かれてしまいそうなくらいに、光があふれる海岸。
そこには毎年のように、大勢の海水浴客が訪れる。
褐色の肌とか、白いビキニとか。見慣れきった風景なんだけど、今のわたしにとってはそれが日常の全てだっ
たりして、否定すると空しくなっちゃうから、無理矢理にでも楽しむようにしていた。
雅也は昨日も来なかった。おとといも、その前も。
終わった恋だから、未練がましくしたってしょうがない。分かり切ったことだ。
だけど、雅也はここに毎年来るって言ってたし、わたしがいなくなったくらいで、その習慣までは変わらないか
も知れない。
だから、待ち続ける。
わたしが以前働いていた海の家は、今は空き家みたいになってる。柱には苔みたいな海草とか、変な形をし
た貝殻とかがびっしり付いていて、いかにも廃墟って感じを演出している。こんなに汚くなっちゃったら、新しい
買い手も付かないだろうな。もう、今のわたしには関係がないけれど。
海水浴客がひしめく浜辺から少し離れて、わたしは岩礁に向かった。沖合に横たわるテトラポッドたちの一番
端くらいの方向に、浜から海に向かって手を伸ばしている岩礁。裸足で歩くと、足の裏が熱く、チクチク痛い。
雅也に、告白された場所。
海の家でバイトをしていたわたしを、雅也が誘ってくれた。ナンパだった。ナンパでも良かった。雅也は、誰よ
りも優しくて、誰よりもわたしを可愛がってくれて、誰よりもわたしのことを考えてくれたから。
海に沈んでいく夕日を背景に、「好きだ」って、たった一言、言ってくれた。出逢ってから、三回目のデート。そ
れまでのわたしが生きてきた人生のどの場面よりも、重い言葉だった。深く、深く、心に刻みつけた。
岩礁の先っぽまでくると、足下に高い波が押し寄せてくる。砕けた波が白い真珠みたいに輝いて、思わずそ
のまま持って帰りたくなる。キラキラ、キラキラ。泣いて、涙でぐちゃぐちゃになったときの景色みたいだ。
そう言えばあの日も、泣いてたな。あの日も、そしてあの日も。
確か、夜だったはず。
わたしが過ごした、最期の時間は。
64 :No.15 あの海岸で待ち合わせ 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/05/06 23:35:14 ID:vXs62cuE
――お別れしよう、香織。
突然告げられた。
ずるい。雅也から好きだって言い出した癖に。
泣けば泣くほど、雅也は困った顔をするだけだった。悲しかった。わたしは雅也を困らせたくないのに、わた
しが雅也と一緒にいたいと思えば思うほど、雅也は困惑で苦り切った顔をするのだ。
要らないんだ。
世界が太い支えを失って、奈落の底に、果てしなくガラガラと落ちていくようだった。
わたしは、走った。真夜中の国道一号線を、バイトで貯めたお金をはたいて買ったばかりの、ピンク色の原
チャで。
真夜中なのに、風を切って猛スピードで飛ばしてるのに、体の芯だけはやたら熱かった。
気がつけば、ここに来ていた。誰もいなかった。夜景の海は、涙のせいで歪んでいた。
さようなら、雅也。
振られたはずなのに、楽しい思い出だけが浮かんできた。初めて告白された場所も、ここだ。初めてキスを
したのも、ここだ。
楽しかった。好きだった。全てが、幻に変わった。
夜の海が、禍々しい大口を開けて、わたしのことを待っていた。
目をつぶって、飛び込んだ。冷たい海に弄ばれて、木の葉のように舞った。鼻孔から、口から、果ては目から
耳から、おびただしい量の海水を吸い込んだ。はき出せばはき出すほど、後から押し寄せる海水でわたしの肺
は満たされていった。
じたばたした。
助けて、雅也。
届かない。何て馬鹿なんだろう、わたし。深い海の底で、そう思った。
海底は波のない、静かな世界だった。
静謐のゆりかごに抱かれて、わたしは永い眠りに落ちた。
わたしがここで死んだことに、誰も気づかなかった。
ピンクの原チャは、誰かに盗まれた。鍵は付けっぱなしだったし、可愛かったし。最後の最後まで見つからな
かったってことは、遠い外国にでも密輸されたのだろう。
だからわたしに関しては、失踪したってだけで、何の手がかりも残らなかった。
65 :No.15 あの海岸で待ち合わせ 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/05/06 23:35:33 ID:vXs62cuE
わたしの人生で、つらい思い出って、たったのこれだけ。こんな形で終わっちゃったけど、雅也との思い出は、
今でもわたしの中では最高の宝物だ。何にも知らないで死んじゃってたら、もっとしあわせだったのかな。
今は、人でごった返した海岸で、ひたすらあの人の面影を探す日々だ。
みんな、しあわせそうな笑顔で通りすがる。かつてのわたしが、そうであったように。
テトラポッドの向こうに、大洋が広がる。あそこまで泳ぎ着く人はなかなかいない。
はるか沖合を、一隻の船が横切っていくのが小さく見えた。水平線の縁に、辛うじて見える白い船。海の向こ
うには、本当のしあわせがあるのだろうか。
待ち続ける日々の果てに、本当のしあわせがあるのだろうか。
気配がして、振り向いた。遠くを眺めていた目は、すぐにはピントを調節できなかった。けれど、間違いない。
何度も、何度も触れた肌のことを、わたしは忘れていなかった。
――雅也。
目の前にいる人は、あの頃と何一つ変わらない。優しい目元、鼻梁の通った鼻、涼しい口元。褐色の肌が、
うっすらと汗を帯びていた。
懐かしくて、すぐにでも飛びついてしまいたくなって走り寄ったけど、わたしのことが見えていない雅也の視線
に気づいて、急に悲しくなって、目の前を通り過ぎる雅也のことをただやり過ごした。
雅也の後ろ姿を、重い足取りで追った。
何も考えていなかった。雅也がわたしの前に現れて、気づいてくれなくて、どうしようと言うのだろう。なんて馬
鹿なんだろう。馬鹿すぎた自分自身のことを、無性に呪った。
やっぱり、わたしには雅也しかいなかった。たまらなく、悔しくなった。
雅也が、海に浸かっていく。浜辺に着くと、何はともあれまずは一泳ぎするというのが雅也の習慣だった。こん
なところまでが変わっていなかった。
沖合へ向かう。わたしも、雅也の後を追いかけた。
雅也の泳ぎは達者なものだった。元ヨット部だって言ってたっけ。海の深みを、まるで苦にしなかった。
周りから人がいなくなった。浜辺からは、かなり離れていた。
わたしは、雅也の耳元に近づいた。何か言葉を口にすれば、聞こえるのだろうか。少し怖くて、ためらわれた。
わたしのような死んでしまった人間からは、話しかけてはいけないんじゃないかと、迷った。
迷って、わたしは、雅也の肩口に触れてみた。
「香織……か?」
体を硬直させながらこちらを振り向いて、雅也が呟いた。
66 :No.15 あの海岸で待ち合わせ 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/05/06 23:35:50 ID:vXs62cuE
わたしの名前を口にした。
嬉しかった。そうだよ香織だよ、逢いたかったよ……。話しかけたい気持ちが熱気球のように膨らんだ。
雅也は、震えていた。鳥肌を立てて、真夏であることが嘘のように青ざめていた。
「助けてくれ、香織。俺が悪かった」
雅也の視線が、うっすらと見えているであろうわたしのことを見据えていた。
何を言ってるの? わたしは雅也のことが好き。だから、そんなに怯えないで。あなたと一緒に、またこうして
いられることが、たまらなく嬉しいんだよ。
伝えよう、ありのままの心で。わたしは雅也に話しかけることを決意した。
「いいんだよ、雅也。気にしないで。また一緒に暮らそう」
「いやだ! 許してくれ、俺はまだ死にたくない」
わたしを絶望の底に突き落とす言葉。そうだった、わたしは死んでるんだ。所詮、雅也とは違う世界にいる。
遠い、遠いところにいるんだ。
悲しい、けど、受け入れるしかない。自らの命を絶つという、最も愚かしい選択をしたわたしに対する、神様
の罰なんだ。受け入れるしかないんだ。
「……わかった。ごめんね、雅也」
わたしはうつむいて、雅也の耳元から離れた。少し、雅也の顔色が安堵の色調を帯びた。
「一つだけ、お願いしてもいい?」
「いいよ、いいよ」
「わたしのこと、ずっと彼女でいさせて欲しいの」
「……もちろんだ。香織は、ずっとずっと俺の彼女だ」
せめてもの願い。わたしが生前、突きつけられた別れの言葉を、雅也が撤回してくれた。
喜んでいいのか、分からない。でも、今のわたしにそれ以上を望むことは、許されないから。
雅也が、いいって言ってくれた。だから、そうする。
気づいちゃった、雅也の左手、薬指。名前まで彫っちゃって。M&A、か。
わたしには、作ってくれなかったな。
いつか、作ってくれるといいな。
だって、わたし、雅也の彼女なんだよ。
67 :No.15 あの海岸で待ち合わせ 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/05/06 23:36:08 ID:vXs62cuE
…………
沖合から、一人の男が猛然と泳いでくる。彼は浜辺に着くと、息も絶え絶えに仲間の待つ一角へと走り込んだ。
「アキはどこ行った?」
「お前ら、一緒じゃなかったのか?」
「確か、トイレに行くってさっき」
男の顔に、ありありと恐怖と焦りの色が浮かんだ。
「ヤバい、アキが危ない。みんな、アキを探してくれないか」
「だから、トイレだって」
「説明してるヒマはないんだ、頼む!」
翌日、岩礁から、二体の遺体が引き揚げられた。
一体は、既に白骨化していた。一年以上前のものだという。
もう一体は、若い女性の、比較的新しい遺体。溺死と発表された。左の薬指には、M&Aと刻まれた八号の
指輪が嵌められていた。