【 迷い無き航路 】
◆tGCLvTU/yA




56 :No.13 迷いなき航路 1/4 ◇tGCLvTU/yA:07/05/06 23:22:43 ID:vXs62cuE
 耳障りなニワトリの鳴き声で、ダリルの朝はいつも始まりを迎える。
 まだ少しだけ眠い目をこすり、窓から外を眺める。太陽の光が少し眩しい。だけど、気持ちが良い。
 そして、何より外を眺めると海が見ることが出来る。ダリルにとって、この海とはもう子供の頃からの
付き合いだ。少しだけ怖いと思うこともあるけれど、眺める分には綺麗だとダリルは思っている。
 青。見渡す限りの青。多分それに終わりなどなく、世界の端っこまで続いているのだろう。
「さて、朝ごはんでも作ろうかな」
 軽く伸びをして、着替えを始める。一人しかいない家に衣擦れの音が響き、お気に入りの服に着替
える。朝から少しだけ気分が良い。今日は良い日になりそうだとダリルは感じた。
 バターロールにイチゴジャム。ベーコンエッグにりんごジュース。気合が入りすぎたな、と思わずダリル
は苦笑する。もっとも、作ったのはベーコンエッグ程度で分けてもらったのがほとんどなのだが。
「持つべきものはご近所さん、かな。いただきます」
 手を合わせてさっそく手をつける。気合を入れた分だけ、ダリルの空腹もいつにまして気合が入っていた。
空腹に気合を入れて臨んだ朝食は、やはりいつもより美味しかった。

 朝食を食べ終わると、ダリルは習慣となっている浜辺の散歩をするために外へ出る。窓を眺めると晴れ晴れ
とした空模様だ。
「うん、今日は気持ちよく散歩できそう……かな」
 はやる気持ちを抑えて、ダリルはゆっくりと玄関のドアを開いた。
 気持ちの良い風が、ダリルの髪を揺らす。まだ水に足をつけることは怖い。だが、素直に居心地の良い場所
だとは思えるようになってきた。
 適当な砂浜に腰を下ろし、よせては返す波の音に耳を傾ける。目を閉じてまどろむのもいいかもしれない、
とも思ったがその前にやることがある、とダリルは海に向かって手を合わせた。
「おとさん、おかさん。いつもありがとう。今日も見守っててください……」
 その声に海が反応したかのように、一際強いな波が返ってくる。ダリルもなんとなく嬉しくなり、満足げに
頷いて「ありがとう」と呟く。
 よし、今度こそ。と、ダリルは砂浜に横になってまどろもうと目を閉じると、
「よっし……今日こそ行くぞ! 待ってろよまだ見ぬ新大陸っ!」
 聞き覚えのある、とても元気な声だった。
 きっと、今日は寝れない日なのだろうとダリルは仮眠を諦めて体を起こす。すると、やはり声の主は――
「セツー! 何してるのーっ?」

57 :No.13 迷いなき航路 2/4 ◇tGCLvTU/yA:07/05/06 23:23:03 ID:vXs62cuE
「ん? おお、リル! なんだ今日は早い散歩の時間だなー」
 セツと呼ばれた男は、その声に気づくと思いっきりダリルに向かって手を振る。そんなに思い切りしなくて
いいのに、とダリルも苦笑気味に手を振り返す。何か作業をしていたようだったが、一旦をそれを中断して、
こちらに全速力で走ってくると、すぐさまダリルの横に腰を下ろした。
「うん、今日は気持ち良さそうな天気だったからさ。ところで、セツは何をしてたの? あと、リルは止めて」
 いくら暖かいとはいえ泳ぐにはまだ少しだけ早い。しかし、セツなら真冬でも普通に泳いでいることだろう
とダリルは内心で苦笑する。
「ああ、よく聞いてくれたなリル。こいつを見てみろ」
 セツはダリルの不満そうな顔を無視して、上着の裏側のポケットから何かを取り出した。紙だ。何かごちゃ
ごちゃと書いてある。
「なに、これ? このところどころの丸っこい印みたいなのはなんなの?」
 ダリルは不思議そうに首を傾げる。六、七つの大きな丸のような形が、この紙には書き込まれている。
「……わからん。だけど予想はつく。リル、この丸は恐らく島だ」
 ダリルにはセツが何を言っているのか全く理解できない。島。改めて周りを見渡す。そんなものはどこにも
ない。海がどこまでも続いていて、どこまでも青が広がっているのだ。
「それが地図だってこと? じゃあ、この一番大きいでこぼこした丸がこの島なのかな。結構大きいもんね」
「さあな。基準がわからないから、ここがどれほどの大きさかもわからない。もしかしたら地図にも載ってな
いかもしれないしな。この島」
 セツは大きなため息をつくが、それとは裏腹にダリルにはとても嬉しそうな顔をしているように見えた。友
人の幸せそうな顔を見るのは好きだが、同時にダリルの不安が段々と大きくなっていく。
 もしかしてセツは海へと出て行くと言うのではないだろうか、と。
「そこで、あいつだ」
 セツは立ち上がって、さっきまで自分がいた方向を指差す。ダリルもそれにつられるようにその方向を見る。
 船だ。恐らくセツが自分で作り上げたのだろう。お世辞にもいい出来栄えとは言えないが、それでもなんと
か小船には見える。
「この地図を見つけた日から、俺はずっとこの海の向こうに何があるかばかりを考えてきた。釣りをしてても、
美味い飯を食ってても、ずっとだ」
 五年前。これに似た言葉を聞いた記憶がダリルにはあった。父の言葉だ。地図こそ持っていなかったが、ダ
リルの父もセツと同じように海の向こうに何かあると信じて止まない人間だった。
 まだ見ぬ大地を夢見た結果、父はどうなったか。それを思うとセツの言葉はもう、聞きたくなかった。

58 :No.13 迷いなき航路 3/4 ◇tGCLvTU/yA:07/05/06 23:23:36 ID:vXs62cuE
「俺はな、リル。海に出てみようと思うんだ」
 やっぱり、とただ単純に思う。しかしダリルにとってそれは、最も聞きたくない言葉だった。耳を塞ぐ衝動
を抑えて、倒れそうになる体を支えて立ち上がってセツの目をじっと見る。
「ダメ」
 それだけを、力強く言い放った。その強張った表情にセツは少しだけ息を飲んだ。普段の穏やかで笑顔でい
ることが多いダリルしか知らない彼にとって、今のダリルは誰か別人なのではないかと思えるほどだ。
 しかし、セツも覚悟はしていた。ダリルはきっと海に出るということがどれだけ怖いかを、この島の中で一
番知っている。ここまで怒るとは予想外だったが、それでも引くわけにはいかない。
「リル、俺も海に出るのが怖いことはわかってるつもりだ、お前のおじさんとおばさんも……いや、これはい
いな。すまん。だけど、引き下がるわけにはいかないんだ。食料も用意した。村長にももう挨拶はしてきた。
秘密にして出て行こうとしたのは謝る。だけど、やっぱり会えて良かったよ。隠し事は俺には向かないみたいだな」
 整っているとは言えないセツの顔が、くしゃくしゃの笑顔になる。だけど、ダリルはどうしても笑うことがで
きない。思い浮かぶのは五年前のあの日。ダリルとその父と母を乗せた船。穏やかだった海が突如として荒れ狂
い、あっさりと乗っていた船を難破させる光景。ダリルは今でも、なぜ自分だけ助かったのかわからない。
「嫌だよ。セツがおとさんとおかさんみたいになっちゃうのは嫌。なんで? 海に出なくても楽しいことはい
っぱいある。セツにはおとさんやおかさんだっているし、友達だっている。釣りだって上手だしそれに食いしん坊。
みんな寂しがるよ。それでも行っちゃうの?」
 セツはしっかりと覚悟はしていたつもりだった。だけど、これだけ感情をあらわにしたダリルを見ると少し驚く。
 しかし何より驚いたのは、このダリルの今にも泣きそうな顔を見ても揺るぎそうにない自分自身の意思の強さ。
「――ああ。それでも、行かなきゃ。海が呼んでるから」
 そして何より、セツは知りたかった。外の世界が存在するのかどうか。この海の向こうに一体何があるのか。
きっと多分、この海出ればここに残っていればよかったと何度も後悔することだろう。もしこの選択が間違い
だったとしても、このはやる気持ちを止める術をセツは持たなかった。持とうとも思わなかった。
 ダリルは諦めたように息をつく。きっと、止められない。似ているのだ。あの時の父に。キラキラした笑顔も
海に出て行く理由も。ダリルが止めなくても、セツはきっと色々な人に止められたに違いない。恋人がいるかどう
かわからないが、多分その人が止めても無駄なのだろう。自分の父もそうだったのだから。
「……そっか。そうだね、止められないよね。みんなもきっと止めたんだ。ボクの言葉で思いとどまるはずがない」
 気まずい沈黙が二人を包む。セツもダリルも互いにかける言葉を失くしてしまった。
「……真っ直ぐ行くよ」
 沈黙を破り、セツは船の方へと歩く。

59 :No.13 迷いなき航路 4/4 ◇tGCLvTU/yA:07/05/06 23:23:53 ID:vXs62cuE
「え?」
「真っ直ぐ進むから。何があっても、どんな障害があっても真っ直ぐ進む。だから、帰ってくるのはきっと簡単だ、
そのまま引き返せばいいんだから」
 そう言ってセツは笑った。そんなこと無理に決まっていた。この広い大海原を真っ直ぐ進んで真っ直ぐ帰ってく
ることなんか不可能だ。だけど、ダリルにはもう彼を止めるつもりもない。
 セツが船を海へと押していく。出発が近い。
「あー、あとさ……これ、もらってくれ」
 船を押すのを一旦止めて、彼は上着の裏側からあの地図を出した。
「……いいの?」
「いい。どうせ使えないからな。だけど、そんなんでもそれは俺の宝物だ。取り返しに来るから、失くすなよ」
 振り返って船を押しながらセツはそう言った。ダリルは困ったように笑って、そして思う。それは要するに、待っ
てろということなのだろうか。
「じゃあ、三年だけ。三年だけ待ってる。それ以上経ったらこれはもらうからね」
「三年も待ってくれるのか? 太っ腹なやつだな、相変わらず」
 船はもう海に完全に浮かんでいる。あとはもう、セツが乗り込むだけ。
「じゃあ、行ってくる……ってお前」
 ダリルの方へと振り返ると、セツは信じられないようなものを見ている顔をして、ダリルを見た。
「お前……いつ海に入れるようになったんだ?」
 言われて初めて、ダリルはハッとしたように足元を見た。怖くないのだ。水に足をつけることが怖くない。
 何がそうさせたのか、ダリルは自分でもわからない。
 けど。けれど、一生できないと思っていたことが、自分にはできた。自分に出来たのだ。セツにもきっとできる
気がしてきた。
「えっと、今かな」
 セツは「なんだそりゃ」と苦笑すると、船はついに進みだした。船が少しずつ、少しずつ遠くなっていく。
 その背中にダリルは別れを告げるつもりはない。ただ一言、大きく息を吸い込んで――
「セツーっ!」
 海の向こう、あるいはあるかもしれないまだ見ぬ大陸にまで届きそうな声でダリルは叫ぶ。
「いってらっしゃーいっ!」
 その声に、セツは振り向くことはなかった。けれど、小さく、ダリルの目でもなんとか視認できる程度に小さく
手を振った。そしてダリルも、セツの背中とどこまでも続く青い海へと手を大きく振った。



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