【 罪悪感と爽快感 】
◆HQOLSGQXi2




40 :No.09 罪悪感と爽快感 1/4 ◇HQOLSGQXi2:07/05/06 21:53:04 ID:vXs62cuE

 胎児は排泄物を胎内に垂れ流している。もちろんこの時の排泄物は
無菌で胎児にも母体にも無害である。また胎児はこの排泄物が混ざっ
た羊水を飲んでいる。

 深さ百十センチ、胸辺りまで浸かった少年は波間に揺られながら、
砂浜に刺さったパラソルを中心とした自分たちのスペースを望んでい
る。パラソルの影では椅子にもたれかかって父親が惰眠をむさぼって
おり、母親は日焼け止めのクリームをせっせと腕に塗りこんでいる。
少年の周りでは老若男女様々な人が波の上に浮かんだり、潜ったり、
また掻き分けている。大半の人は海水浴を楽しんでいるようだが、中
には初めての海に戸惑う幼児が泣き喚く様も時折見られる。
 現在時刻は午後二時。天候は快晴で気温は三十六度。一度海に入ろ
うものなら陸の暑さでなかなか浜に戻りたくない時間帯である。
「暑いー」
 少年の隣で浮き輪から両腕をたらし、波に全身をまかせている女は
濡れたショートの茶髪を光らせ、肌に刺さるような日差しとうなだれ
るような暑さにまいっている。
「当たり前だべ。夏なんだから」
 少年はそう言うと一度潜って頭を冷やしてから女の目の前に浮上し
た。浮き輪から下に伸びる女の肢体は水が濁っていてよく見えなかっ
た。決して海が汚いというわけではないが、それでも水中は急須の底
に溜まった緑茶のような色をしていて、あまり気分がいいものではな
い。
「それでもこんなに暑いわけないしょや。今年は異常だわ」
 女は右手で自分の顔を扇いだ。涼しくなるわけではないが、それで
も気休め程度には気分もおさまる。水面から小さく飛沫を上げて現れ
た手は残った水玉で光り、その水玉は重力に負けて次々と水面へ還っ
ていく。

41 :No.09 罪悪感と爽快感 2/4 ◇HQOLSGQXi2:07/05/06 21:53:21 ID:vXs62cuE
「去年だって暑かったよ」
 そう少年が言い終わった途端、不意に少年の下半身を電撃のような寒
気が襲い軽く身震いした。寒気は一秒ごとに大きくなり、既に何度か寒
気と戦っていた少年はこの一戦で自分は駄目になると悟った。トイレを
探してみても最近の場所は百五十メートルほど離れており、しかも女子
トイレはもちろん男子トイレまでも長い行列を作っている。移動時間と
待ち時間を考慮すると今からトイレに行っても間に合わない。かくなる
上は目の前の広大な大海原にお世話になるしかない。それに、きっと自
分のようなかわいそうな子供たちがこの海岸だけでも何人いようか。ま
してや日本全体で考えたらかわいそうな子供たちが一万人はいるだろ
う。世界規模で考えたら数百万人はきっと下らないに違いない。赤信号
みんなで渡れば怖くないという往年のギャグではないが、そのような無
理やりな結論をもって、少年は覚悟を決めた。
 遠方から少し大きな波が押し寄せてくるのを見た少年は、女の浮き輪
につかまり秒速十メートルで浜に来る塊を待つ。ゆったりと、猛スピー
ドで襲いかかる波は少年の心にちょっとしたスリルを生み、同時にこの
波が自分をお世話してくれると感じた。二人の周りでは波の真正面に立
ち敢えて波を被らんとする者や、逆に潜って波を回避しようとする者、
波打ち際に佇む幼児を浜に座らせ下半身を波に襲わせようとする親など、
波が来ることにより若干騒がしくなっている。そして浮き輪の女は波が
来ることに気づかず無様にも後頭部を波に見せている。少年は女に波の
接近を教えてあげようかと思ったが、そのような余裕は今の少年にはな
い。黙っていれば絶対にばれないのだ。たかが数百ミリリットルの液体
が追加されようと、途方もない体積を持つ大海原には全く影響を与えな
い。そしてこれから来る波のおかげで、女にも液体がかかるような心配
もない。全ては文字通り水面下で起こる出来事であり、知らなければそ
れでいい出来事なのだ。

42 :No.09 罪悪感と爽快感 3/4 ◇HQOLSGQXi2:07/05/06 21:53:36 ID:vXs62cuE
「それでもせいぜい三十度とかそのぐらいだっ──」
 女が話し終わる前に波は少年の顔面と女の頭を捉えた。大きくて優し
い力が少年の上半身を揺さぶり、少年は絶好の機会を得た。腰に力を入
れて一気に液体を放出する。力むので目を瞑っており、当然少年には液
体が黄色なのか無色なのかはわからない。とにかく波には腰の下辺りに
溜まっている液体の全てを攫ってもらおうと必死だった。小さな先っぽ
から出る液体は微かに温かいことが感じられ、腰を何者かに優しく抱か
れそのままもっていかれそうな快感を少年に教えた。普通に用を足して
もこのような快感は感じられない。幼い少年はやってはいけないことを
やってしまった後の妙な爽快感を覚えてしまった。
 波は少年の唇に塩辛さを残して浜に着いた。少年が水面から顔を出し
たとき、数メートル離れた場所では女が両目を押さえて慌てふためいて
いた。塩水が目に入り込んで痛がっているが、塩水に濡れた手で押さえ
ても状況は変わらない。
「あー、波来るなら早く教えてやー。目に海水入っちゃったしょや」
 悲鳴混じりの大声で女は少年を謗る。少年は何も言えなかった。ただ
無言でこの場をやり過ごそうと考えていた。
 波が二人を襲ってから数分の間、二人はただ波に揺られていた。女は
波が過ぎた後に頭を振り髪に残った海水を落としてから再び浮き輪と波
に身を任せ、少年はこの間ずっと棒立ちで波に揺られていた。絶対にば
れることはない。そう確信しているはずなのに心のどこかで不安になっ
てしまう。不安は徐々に増大し、とうとう少年は不安に耐え切れず言葉
を発してしまった。

43 :No.09 罪悪感と爽快感 4/4 ◇HQOLSGQXi2:07/05/06 21:53:50 ID:vXs62cuE
「姉ちゃーん、暑いー」
 先ほどの女の言葉を言ってしまった。自分がなだめていた者の不満を
一緒になって口に出してしまった。少年は失態でも犯したかのように大
きく目を開き、焦りからか鼓動が急速に高まる。後で冷静になって考え
れば別段大した行動でもないのに、このときは何も考えられなかったの
だろう。はたから見ればとてつもなく浅い墓穴を少年は掘ってしまった。
 少年の言葉で何かを思いついたのか、女は雲ひとつ無く真っ青な空を
仰いで「んー」と唸ってから、
「……よし」
水中にあった少年の腕を掴まえて浜へ動き始めてこう言った。
「アイス買いに行こうか」
 少年はほっと胸をなでおろした。



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