【 陽炎の向こう側に 】
◆bvsM5fWeV.




31 :NO.7 陽炎の向こう側に1/5 ◇bvsM5fWeV.:07/05/06 18:28:46 ID:ZLm0zFHA
 陽炎の向こう側に彼岸が見えそうなほど暑い日だった。
 油蝉の羽を擦り合わせる音が焼けた防波堤のコンクリートに響く。
 双眼鏡を覗き込む目の周りは汗で滲み、直射日光と海からの照り返しが野島の肌をじりじりと焦がす。
 野島は今年の春に四十数年のサラリーマン生活を辞して、この浜に移り住んだ。
 全国各地に数え切れないほどに選択肢はあったが、野島はあえて東北のリアス式海岸の浜を選択した。
 そして野島は今、海水浴場の監視員をしている。町内会の持ち回りの仕事だ。
 会社の次は町内会。野島はどこへ行っても組織に所属する自分に因果を感じているが、それでも東京の不健康な夏と比べれば
数倍も健全なのは間違いないとも思っている。
 町内会の人間は野島に浜から離れた防波堤で船を待機させ、沖の一箇所のみを監視するように言った。
 普通の海岸を見張る監視員とは別に野島はこの防波堤に配置され、浜ではこれを「マチコシフト」と呼んでいる。
 浜の人間はマチコという女の幽霊がこの浜の沖合二百メートルに若い男を送り出して海に沈めるという。
 浜から助けを出すよりも防波堤から船を出したほうが早いし、あまりに沖合い二百メートルで溺れる者が多いことからこのシ
フトが生まれたという。なんとも珍妙な名前であると野島は思っていた。

 またあの場所で溺れている。
 野島がエンジンをかけて沖合へ船を進めて視認するまでも無く、水面でもんどりうっているのはやはり若い男で、且つ陽炎が
生んだ虚像の大岩を目指して泳いできた愚か者だ。
 これで何度目かと野島は半ば呆れた心持で浮き輪を投げる。
 男を救助し、防波堤で待機している救護班へ受け渡す。今日だけで野島はこれを自動的に行えるようになった。
 浜の人間はこう言う。
 ――五年前にこの浜で若い男女が何者かに惨殺されて以来、若い男の水死事故が激増した。
 女はレイプされた後、撲殺されて首から下を砂で埋められた状態で発見され、男はバラバラ死体で海上に投棄されていた。
 その首から下を埋められた女こそがマチコなのだ。
 運良く救出された男たちは、
 「色白のえらい美人に話しかけたら『あの岩まで泳いで戻って来れたら遊んでもいい』と言われて、泳ぎにいくと誰かに足を
掴れて溺れた」と口を揃える。
 実際に浜の沖合いに陽炎は発生するのだが、男たちの目にそれは限りなく本物の岩に映るらしい。男たちは疑うことなく沖へ
泳ぎ、監視員が見えない距離に来たところでマチコに沈められる。
 また、マチコの首が向いていた方角に陽炎が出来るとも、男たちが女に話しかけた場所にマチコが埋められていたとも実しや
かに噂されている。

32 :NO.7 陽炎の向こう側に2/5 ◇bvsM5fWeV.:07/05/06 18:29:38 ID:ZLm0zFHA
 同じところで溺れるなら最初からそこだけを監視すればいい。そうして生まれたのがこのマチコシフトである。
 浜の人間はこの溺死事故をマチコの仕業とする者と科学的に分析する者の二通りいて、酒の席でしばしば話題に上るのだが、
もちろん野島は後者で、このような非科学的な与太話は浜の住民にとって数少ない娯楽なのだ、程度の解釈をしていた。
 だが実際にあの場所に向かって若い男が一直線に泳ぎ、同じようなところで溺れ出す光景を見た野島の考えは揺らぎ始めてい
た。溺れた者に話を聞こうとしても、死んでこそいないが救護班に回す方が先決で話もままならない。
 野島が確認できたのは浜の沖に揺らめく陽炎くらいである。
 陽炎は日差しが強く、気温の高い日によく発生する。その陽炎も浜から随分離れたところにあって、とてもじゃないが泳いで
行こうという気にはなれない。
 若者は本当に沖合のあの虚像の岩に向かって泳いでいったのか。
 それは本当にマチコの仕業なのか。
 野島は浜の人間が集まる居酒屋で改めて話を詳しく聞くことにした。
 例の殺人事件とマチコの話もこの居酒屋で小耳に挟んだもので、もしかしたら何か手がかりがあるかも知れないと思ったのだ。
 「いよ、待ってました! 今日は来ると思ったよ野島さん。マチコの話をしに来たんだろう?」
 店に入るなり漁師の宮下が野島を囃し立てた。面食らって棒立ちになった野島に他の客の視線が注がれる。
 宮下は先週まで監視員をやっていた。この男もまた若者が陽炎へ向かって泳ぎ、失速する場面を何度も見ている。
 宮下が野島にビールを注ぐ。
 「野島さんは先週までは否定派だったけど、その様子だと意見が変わったみたいですなあ」
 「話には聞いていましたが、あそこまであからさまに見せつけられると……本当に信じられません。ですが、それでもマチコ
とか言う幽霊の仕業だとは思えないのです。例えば潮の流れとかそういうのが関係していると思うのですが……」
 「いやあ、俺はやはりマチコが足を引っ張っているんだと思うけどねえ。船を出したとき溺れている若い奴らの顔を見たので
すがあの怯えようは単に溺れているだけとは考えられませんね。それにあの距離を泳ぎ通すような若いもんが揃って同じ場所で
溺れるってのもおかしな話だと俺は思いますがね」
 宮下はマチコ説賛成論者で、下世話なタイプの人間だ。
 だが言っている事は理に適っている。潮の流れだけで同じ場所で溺れる説明をつけるのは難しい。
 「ですがそれをマチコのせいにするというのは、思考の停止ではないでしょうか」
 会社員時代からの癖が抜けない。野島は分からない事には徹底的に理詰めで考えて解決策をひねり出す。
 「お前ら死んだモンを酒の肴にして何が楽しい。潮のせいでいいじゃねえか。死んだ人間の話はやめろ」
 突然入道のような男が調子外れに声を張り上げた。だいぶ酔っているようだ。
 「本当に縁起でもねえ。酒が不味くならあ、バカヤロー」
 宮下が気まずそうに首を引っ込めて耳打ちする。

33 :NO.7 陽炎の向こう側に3/5 ◇bvsM5fWeV.:07/05/06 18:30:18 ID:ZLm0zFHA
 「あれぁ、マチコの親戚の畑村さんです。タイミングが悪かった」
 居酒屋でめぼしい情報は得られなかった。
 ただ一つ。幽霊のマチコにも親戚がいて生きていた時代があって、この浜で殺されたというのは事実のようだ。
 だがそんなのものは野島の疑問の解決にはならない。


 翌日も防波堤のコンクリートが焦げるような真夏日で、野島は双眼鏡片手に釣りをしていた。
 早速、若い男が沖合の例の場所へ一直線に向っているのを見つけた。
 こう何度も同じ光景を見せつけられると、実はあの浜は三途の川に繋がっていて、若い男たちは陽炎の向こう側の彼岸へ死に
に行っているようにも思えてくる。
 いちいち見届けるのも煩わしい。先回りして男を釣り上げようと思った。溺れる前に助けてしまえば救護班に回す必要も無く
なるし、何か情報を得られるかもしれない。本当にマチコと接触したのか、はたまた別に動機があったのか。野島はそれが知り
たかった。
 漁場で使用する小さな船にエンジンをかけて、沖合に出て男を待ち構える。案の定いつもの場所で溺れだした。間髪を入れず
に野島は船を寄せ、浮き輪を投げる。
 「おい、大丈夫か?」
 若い男は咳き込みながらも確かな口ぶりで
 「大丈夫っす」
 と言った。さらに船を寄せて迷彩柄の海水パンツをはいた青年を引き上げる。
 「泳いでいる途中からもう、あ、見られてるなって思ってたんで、俺マジで溺れるつもり無かったんすけど……」
 感謝の気持ちよりも悔しさを滲ませて青年は若者特有の口調でぼそぼそと喋った。
 野島は厳しいことを言いたい気持ちを抑えて青年に質問する。
 「それでなんでこんな沖まで泳ごうと思ったんだ」
 「あ、女の子をナンパしたら、あの岩まで泳いで来てって言われたんで、ちょっと格好良いとこ見せようと思ったんすよ」
 青年のちゃらけた口調とは裏腹に野島は酷い目眩を感じた。
 それでも野島は怯まない。
 「ところで、ここまで泳げたのになんでいきなり溺れたんだ?」
 「あ、はい、ちょっと話すと長いんですけど、まずここまで泳いできたのは何か流れに乗って来たって言うか、自分の力じゃ
無い感じなんですよ。そんで地面が急に深くなったんでびびって振り返ったら、思ったよりも遠くに来てるし、しかも何か絡ん
できてパニクったんですよ」

34 :NO.7 陽炎の向こう側に4/5 ◇bvsM5fWeV.:07/05/06 18:31:04 ID:ZLm0zFHA
 「絡んできた?」
 野島は海面を見下ろした。
 よく見ると海藻が驚くほど生えていて、青年が溺れた地点で水深が急激に下がっている。
 数メートル程浜のほうに移動してみるとその違いはさらにはっきりと見て取れた。
 青年が溺れたところで海は暗く、沈んだら戻って来れないと思わせる程に深く口を広げていた。水中をたゆとう海藻はさなが
ら獲物を絡めとる触手である。
 野島はなるほど、と一人頷いた。
 青年を乗せたまま船を浜へむかって走らせてエンジンを切る。陽炎が見える距離まで浜側に船を寄せた。
 「君はあの岩に向かって泳いだ訳だ。だがあれは陽炎であそこに岩は無い。つまり騙されたというわけだ」
 マジっすか。と青年は言った。
 「やはり『自分の力じゃない感じで』泳いだというのは潮の流れのせいだな。
 インターネットで調べたのだが、離岸流と言うらしい」
 動力を失った小船は木の葉のようにすいすいと陽炎の方向へ流れ出す。
 「よしよし、大体カラクリは見えてきた。ちょっと君が話しかけた女の子を教えて欲しいのだが、良いかい?」
 「あ、なんか分かったんすか? 女の子ならあそこにいますよ、ほら」
 青年は人だかりを指差してそう言うが、野島は誰を指しているのか分からなかった。

 油蝉とひぐらしの羽音が響く防波堤に船を寄せる。
 この青年を騙した女を問い詰めれば解決だ、野島はそう確信した。
 「あれー、さっきあそこにいたのにおかしいなー」
 下手をしたら死んでいたかもしれないのに、青年はえらく気楽な口調だ。野島は何となく青年を羨ましく思った。
 「本当にかわいい娘だったんですよ。騙すなんてひでえなー」
 「君はしょっちゅうここに来ているのか?」
 「ああ、今日初めて来たっす」
 青年はこの浜で起きた事件については知らないようだ。という事はマチコシフトについても知らないはずだろう。
 浜は人探しどころでは無いほどにごった返していた。東北の片田舎にあるこの浜は今最も人口が膨れている。
 野島の前を歩く青年が言った。

 「んー、いないなー。マチコはどこに行ったんだ?」
 野島の肌を厭な予感が伝って、

35 :NO.7 陽炎の向こう側に5/5 ◇bvsM5fWeV.:07/05/06 18:31:38 ID:ZLm0zFHA
 振り返った青年は全くの別人だった。血の気の失せた青白い月のような顔色で、眼の色はぎらぎらと血走っている。
 この世のものではない。野島の直感がそう告げる。
 遠くで聞こえていた蝉の鳴き声が近づいてきた。鳴き声は徐々にボリュームを上げて野島の頭の中で鳴り響く。それも野島の
思考を停止させる程の音量で、がんがんと。
 野島は逃げ出そうとしたが、身体が全く動かない。対峙する男の青白かった顔が灰色に色調を下げ、さらに暗褐色になる。腐
臭が辺りに漂いだす。野島の目には男が倍速で腐っていくように見えた。
 低く唸るように、念仏でも唱えるように男が声を発する。
 「お前は俺の邪魔をした。何度も俺の邪魔をした。お前を沈める。沈める。沈める」
 そうしている間もどんどん男は腐り、崩れ落ち、眼窩の漆黒が野島を覗き込む。
 これはもしやマチコの片割れではないか? 野島がそう思った刹那、男が野島の首を掴んだ。腐って骨が剥き出しになった腕
には信じられないほどの力がある。
 金縛りにかかりながらも男の腕を振り払おうとした。
 瞬間、野島は海底に引き摺り込まれていた。真っ暗な海が口を開け、手を広げて野島を迎える。男の声はなおも頭の中で響く。
 「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
 野島の視界は真っ暗になった。


 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
 野島は砂浜で立ったまま意識を失っていた。
 サイレンの音が近づき浜は騒然としているが、野島の意識はまだはっきりとしない。
 「野島さん! あんた何やってたんだ! 監視はどうした!?」
 宮下の目には野島は突っ立っているようにしか見えないが野島の意識は見事に混濁していた。
 サイレンの音が浜に最も近づいたところで野島は目を覚ます。
 「また被害者が出たんだよ!!」
 救急隊員が浜に乗り込んで、被害者らしき若い男を担架で担ぎ上げる。
 意識は戻ったがそれでも野島は混乱している。自分はどこにいるのか。海中へ引き摺り込まれたはずなのに何故ここにいるの
か。呆然としている野島の横を慌しく担架が運ばれてゆく。
 担架の上には、迷彩柄の海水パンツをはいた、さっきまで野島と話をしていた青年が横たわっていた。

 そして、青年が陽炎の向こう側から戻って来る事は無かった。         ――了



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