【 母なるかな 】
◆BLOSSdBcO.




22 :No.05 母なるかな 1/5 ◇BLOSSdBcO.:07/05/06 17:40:38 ID:vXs62cuE
 びょう、と強い風が吹き抜けた。
 ざぁっ、と高い波が打ち寄せた。
 空は、黒く厚い雷雲が覆い。海は、激しく白い飛沫があがり。
 そんな中、小さな陸地に立ち、遥か彼方を見つめる男がいた。
 彼の目には強い意志と悲しい涙が満ちている。
 西暦二〇六四年。
 地球は、海に没していた。


 透き通る青の世界の中、優雅に、我が物顔で、官能的なまでに美しく身をくねらせて進む巨大な影。その
巨体をじっと見つめる二つの瞳があった。
 ほんの一瞬。巨影が海面に背を出し一筋の噴水を吐き出した、絶好の機会を狙い澄まして。
「ごぼっ!」
 瞳がギラリと光り、気泡の掛け声と共に閃光が奔る。住まうべき場所の違いによって生み出された、絶対の
性能差を物ともせず。猛烈な勢いで放たれた銛が見事に巨影の白い腹を刺し貫いた。
 しかし一撃で絶命させるにはあまりにか弱く細い矢は、繋がれた縄ごと、縄を掴んだ者ごと振り回される。
痛みに悶える巨影は日の光りの届かぬ海底に身を隠さんとし、突き刺さった楔はそれを戒める事も出来ず、
逆に打ち込んだ者を暗闇に引きずり込む。
 縄を腕から腰に巻いた狩人は成す術もなく猛烈な水流に全身を震わせる。このままでは窒息死、あるいは
水圧で鼓膜や血管や内臓が破裂し、暗い世界を人知れず赤く染めるだろう。
「ぼががっ、ごべぼぼぉ!」
 今一度。意味の通じない気泡を吐き出しながら、縄の先端に付いたボタンを握りこんだ。どずん、という鈍い
打撃音。巨影の腹の中から響いたそれは、小さな爆発。無我夢中で脱兎のごとく逃げ出していた巨体を、一瞬に
して黙らせる絶大な暴力。
 潜行する力を失ってゆっくりと浮かび上がる獲物、肺の酸素を失って慌てて泳ぎ登る狩人。
「ぶはっ! ぜぇっ、ぜぇぃ……」
 次第に白くなっていく視界で必死に光を求め、ようやく得た新鮮な空気をあえぐように吸う。
「へへへ。爺ちゃん、褒めてくれるかなぁ?」
 水面に浮かぶ大きな大きな食料。これだけあれば一月以上困らない。満面の笑顔で水面を掻き船に縄を結ぶ。
獲物は外れないように幾重にも縛り、さらに網をかける。そうしてようやく船に乗り込み帆を張った。

23 :No.05 母なるかな 2/5 ◇BLOSSdBcO.:07/05/06 17:41:00 ID:vXs62cuE
 照り付ける太陽に濡れた浅黒い肌を輝かせ、塩水にベタつく髪を手櫛で整える。彫りの深い顔立ちの、大きな
青い瞳で船の行く先を見つめ。吹き抜ける爽やかな風に晒された裸体は、開きかけの蕾を思わせる、膨らみ
始めたばかりの少女のものであった。

「ただいまぁー!」
 桟橋に船を泊めると、少女は飛び上がるように駆け出した。向かう先は平らな半球状の建物。透明で頑丈な
屋根に覆われた、少女ともう一人が住む家である。
「おう、お帰り。またデカいのを獲ってきたなぁ」
 音も無く扉が開き、中から顔を出したのは皺枯れた老人。日に焼けた少女とは対照的な白髪と白衣に青白い
肌、その眼鏡の奥の細い目が優しく少女を出迎えた。
「爺ちゃん、イヴ頑張ったよ。偉い?」
「偉いぞぉ。……無茶してなきゃ、もっと偉かったぞぉ」
 がしがしと少女、イヴの頭を撫でた枯れ枝のような手に力が篭もる。
「痛い痛いっ、ごめんなさい!」
 体に残った縄の跡を隠す事すら知らないイヴは、何故バレたのか分からぬままに謝った。
「まったく。お前にもしもの事があったら、ワシは寂しくて死んでしまうじゃないか」
「えへへっ、爺ちゃん寂しがり屋だもんね」
 柔らかく抱きしめられた腕の中で、イヴは屈託の無い笑顔を見せる。そんな彼女に呆れたように、それでも
嬉しさを隠しきれずに老人も笑う。二人は手を繋ぎ、獲物をどう料理するかで揉めながらも桟橋に向かった。
「うん? ……爺ちゃん、何か来た」
 ふと空を見上げてイヴが言う。視線の先を追った老人の顔が、固く引きつった事に少女は気付かない。
「――イヴ、少し隠れてろ。あの客が帰るまでは遊んでて良いぞ」
 理由を問う事も、あれが何なのか尋ねる事も許さない。老人の重苦しい言葉からそう感じ取ったイヴは、
分かったと一言だけ答えてその場を離れた。
 建物の裏、背の低い木が生えた丘に登り桟橋の方を見ると、丁度空を飛んでいた物が水のカーテンを作り
ながら降り立った所だった。飛沫を避けもせず見守る老人の背中には、少女が初めて見る感情が漂っている。
「爺ちゃん、怒ってるのに、泣いてるみたい」

 轟音と共に着水し、旋回して勢いを殺した船がゆっくりと桟橋に近づいてきた。広げた羽の先が老人の目の
前でピタリと止まる。流線型のボディには見覚えのあるマークが大きく描かれていた。


24 :No.05 母なるかな 3/5 ◇BLOSSdBcO.:07/05/06 17:41:19 ID:vXs62cuE
「お久しぶりです、博士」
 羽の上を伝い桟橋に降り立った青年が、老人に声をかける。
「……エトか。何をしに来た」
 老人はエトという名の青年に吐き捨てた。その短い言葉の中から、憎しみという感情が溢れ出している。
エトは老人の様子など気にもせず、頭を覆うヘルメット越しに笑い出した。
「くふふふ、分かっているでしょう? ――彼女を引き取りに来たんですよ。新世代の母、『イヴ』をね」
 辺りを見渡し少女の姿を探すエト。当然それが分かっていたから、老人はイヴを離れさせたのだ。
「お前達は、この星の過ちを繰り返す気か?」
「くふっ。僕らは旧人類のように愚かではありません。この星で培った技術と経験で、楽園を作るのです」
「その為にならどんな犠牲も厭わないのか? 母なる大地を滅ぼしても良いと言うのか?」
 軽薄に言い放つエトに老人は声を荒げる。しかしどこが面白かったのか、エトはしばらく咽喉を鳴らすような
笑い声を上げ続けた。発作のような笑いが収まった後、彼は冷たく言う。
「僕の母は博士、貴方の作った人工保育機ですよ。僕らは皆そうだ。だからこそ、本物の母親を必要として
いるのです。唯一の女性適合者、『イヴ』を」
 老人は彼に返す言葉が無い。元々は、全て自分の責任なのだから。
 エトは老人の返事を待たず、再び羽に飛び乗った。そして桟橋の反対側を見やり、
「数日、調査の為に滞在します。出来れば実力行使はしたくないので、返事はお早めに。それと――アレは
何です? 博士は潜水艦も作れたのですか?」
 イヴの獲ってきた食料を指差し尋ねるも、うな垂れた老人に答えを期待できないと悟って船の中に戻った。
 後には、夕日に照らされた小さな人影だけが残されていた。

 ドームの裏手に広がる小高い丘を登りながら、老人は過去を思い返していた。かつての自分。野心に燃え
新たなる世界を築こうと躍起になっていた、若かりし日の己を。天才と呼ばれ、宇宙開発の権威となり、人類を
導いた。そんな愚かな幻想。月に火星にラボを建て、来るべき新世紀へ適合する人類を生み出した功績。
それは哀れな絵空事。
 やがて始まった星間戦争によって滅茶苦茶に荒らされた故郷を思い、ようやく気付いた時には遅すぎた。
全ては海に沈み、かといって水に流せない後悔を彼の心に残した。
 女性適合者開発の研究と称し、再び降り立った大地はあまりにも無残な姿を晒していた。
 荒れ狂う海に一滴、涙をこぼしたのは何年前だろうか。
「爺ちゃん!」

25 :No.05 母なるかな 4/5 ◇BLOSSdBcO.:07/05/06 17:41:41 ID:vXs62cuE
 小さな木陰からイヴが飛び出してくる。少しづつ、本当に少しづつ元の姿を取り戻していったこの星。その
為の苦労が全く辛くなかったのは、彼女の見せる太陽のような笑顔のお陰だった。
「まだ帰っちゃ駄目だよね? あ、でもイヴは全然大丈夫だよ」
 この少女の笑顔を壊させはしない。老人は決意と共に一つ息を吐くと彼女の頭を撫でた。
「イヴ、帰ろう。なぁに、ワシがお前を守ってやる」
 老人の寂しそうな笑顔に気付かず、イヴは大きく頷く。二人は手を取り合い、ゆっくりと丘を下った。

「今、何とおっしゃいました?」
 翌日。桟橋でエトと老人が、険しい顔で向き合っていた。
「何度でも言おう。イヴはワシがここで育てる。『エデン計画』は中止だ」
 低く唸るような声で言い放った老人に、エトは殺意を覚える。
「――博士、貴方は無責任すぎます。貴方が始めた計画を、貴方が生み出した僕らをっ! ……貴方の私情で
見捨てると言うのですか?」
 ヒステリックに叫んだ彼の手には、いつの間にか拳銃が握られていた。一世紀以上前のそれとは威力と殺傷
能力に格段の差がある。彼が本当に撃とうと思えば、次の瞬間には老人は跡形も無く消え去るだろう。
「見捨てるつもりは無い。お前達も、イヴもだ」
 しかし老人は臆する様子も無く、淡々と続ける。
「皆で地球に戻れ。ワシと、イヴと、この星を昔の姿に戻そう」
 その言葉は、決して老人と少女の事だけを考えたものではない。真剣にエト達の事も考えて、最善の方法を
提案しているつもりなのだ。それがエトにも伝わった。だからこそ、彼は激昂する。
「今更そんな事が出来ると思うのか! 僕らはこの星から出る為に生まれた存在なんだぞっ?」
 緑がかった球状のヘルメットの中で荒い息をついたエトは、背を向けて船内に向かう。
「僕らは僕らの為に手段を選ばない。次に会う時までに気が変わっている事を期待しますよ」
 背中越しに言い残すと、彼の姿は分厚い気密扉の向こうへ消えた。老人はうな垂れる。彼らを説得出来るとは
思っていない。揺るぎなき信念を植えつけたのは、他ならぬ老人自身なのだから。例え彼らと共に己の身を引き
裂く事になろうとも、イヴが子供を生む機械のように扱われる事だけは許せない。
 握り締めた拳に血を、閉じた目蓋に涙を滲ませた老人は、エトの船の起動音と、それに掻き消されそうな足音を
耳にした。
「――爺ちゃんをぉ……」 
 微かな声に慌てて顔を上げる。健康的な細身の裸体で風を切る少女。振りかざした手には一本の銛。

26 :No.05 母なるかな 5/5 ◇BLOSSdBcO.:07/05/06 17:41:56 ID:vXs62cuE
「泣かせるなぁっ!」
 二本の足で大地を蹴り、体を弓のように大きく反らし、腕を鞭のごとく撓らせて。全身のバネを使って放たれた
閃光は、その軌跡に線を残してエトの船に突き刺さった。少女と船を結ぶ線、一本の配線とそれを覆う強靭な
繊維で出来た太い縄。中心のコードは銛の先端に取り付けられた爆薬と、彼女の手に握られたスイッチを繋ぐ。
「爺ちゃんはイヴが守る!」
 高らかに、誰に恥じる事も無くそう言い放った少女は、赤いボタンをカチリと押した。
 巻き起こる爆炎と爆音。爆風に少女と老人は吹き飛ばされた。『あいつ堅そうだから』という理由で付けた
普段の三倍の爆薬の、想像以上の破壊力にイヴは呆然とする。
「――そんな、馬鹿な」
 銛が機体に刺さった瞬間、搭乗員を保護する為に密閉・隔離された操縦席。猛烈な爆発を辛うじて防ぎきった
狭いシートの上で、エトは呆気に取られていた。大きく損壊した船の残骸を波が撫で、その拍子にグラリと傾く。
脱出ポッドにもなる球体の操縦席はゴロリと転がって海に落ち、柔らかな衝撃にエトは我に返った。
「こんな馬鹿な事が、あり得ない……くふっ、くふふふふ……」
 場にそぐわぬ笑い声をあげながら這い出し、桟橋によじ登るエト。彼の視界を小さな影が覆う。
「でっかいのから小さいのが出てきた」
 彼の目の前に、しゃがみこんだ裸体の少女。小麦色の瑞々しい肌と、海の青に似た透き通る瞳。
 ――エトは、生まれて初めて見る女性に、自らの本能を知る。
「エト、帰れなくなったなぁ」
 少女の向こうから、爆風に吹き飛ばされて海に落ちたのだろう、老人が水を滴らせつつ顔を覗かせた。その
顔に浮かんだのは、意地の悪い微笑。
「エト、お前もここで暮らさないか? ……イヴと一緒に」
 見抜かれている。たった今エトが抱いた感情は、この老人にバレている。恥ずかしさに頬を赤らめながら
彼が何か言おうとするよりも早く、
「ええっ! こんな変なツルツル顔と一緒なの?」
 イヴがヘルメットを指差して叫んだ。訴えるような視線で見つめる少女に、老人は笑いがこみ上げてきた。
何が可笑しいのか分からなかった少女だが、老人のとても嬉しそうな笑い声を聞くうちに、つられて笑い出す。
桟橋にぶらさがったままのエトも、老人達の幸せそうな姿に、何故か笑顔がこぼれた。
 ざぁっ、と。どこまでも広がる海が静かに微笑んだ。
 子供達を見守る、母親のような優しさで。
                                                          【結】



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