【 カーニバル 】
◆tsGpSwX8mo




17 :No.04 カーニバル(1/5) ◇tsGpSwX8mo:07/05/06 02:43:19 ID:ZLm0zFHA
 このバスタブは海に繋がっている。初めてここから海へ行ったのはもう何年も前のこと。金メッキの栓
を抜くと、踝から吸い込まれる。股のところですこし突っかかるのだけれど、もう片方の足をI字バラン
スのように上半身にくっつけると、どぅるっと音をたてて、全身が水流に巻き込まれていく。長く暗いウ
ォータースライダーを抜けると。
 だだっ青い。
「太平洋の底よ」と女の子が教えてくれた。
 地面にマンホール大の穴が空いていて、何かが飛び出てくる。それらは色にも形にも一貫性がまったく
感じられないにも関わらず、一様に不気味なものだった。
「家に帰りたいのだけど、どうすればいい?」女の子に聞いた。
「泳いで帰ればいいわ。異世界に飛ばされたわけじゃないのだもの」
「でも、遠いでしょう?」
「遠いでしょうね」
 穴から飛び出した不気味なものが穴の周囲に積み重なって山を作っていた。火山口のように開いた穴か
らつぎつぎと飛び出すモノは、水の中をゆっくりと降りてくる。やがてその山の上に落ちるのだけれども、
音はしない。ただそこから海流が生まれて、頬を風のようになぞる。
 女の子が言った。
「泣いているの?」
「いいえ」
「そう」
「なぜ?」
「水がしょっぱくなったもの」
「では、泣いているのかもしれない」
「わからないの?」
「わからない」

 海面が遠い。シロナガスクジラに追い越された。目があった。大きい。ただ大きい。やがて彼は遠ざか
り、はるか頭上で鳴いた。鳴き声は聞えない。が、微かな震動が皮膚に伝わって身震いする。オーガズム。
地球最大の動物は優雅だった。天井を仰ぐと、彼の皮膚に日光が反射して、ミラーボールのように光が即
興曲を奏でる。やはり音楽は聞えない。


18 :No.04 カーニバル(2/5) ◇tsGpSwX8mo:07/05/06 02:45:24 ID:ZLm0zFHA
 東京湾の海岸線が見えた。海水が濁っていく。くさい。お台場に上がると、ゴーイングメリー号が出港
するところだった。汽笛が鳴った。ぼっぼー。入浴中だったので裸なのだが、幸いなことにりんかい線は
空いていた。大井町で乗り換える。がたんごとんと夜が明ける。
 家に帰り、冷えた体を温めようと、バスタブにお湯をはる。ざーっ、でゅてゅんでゅてゅん、ざーっ、
かぽっ、じゅるるるるっ、どぅるっ、「太平洋の底よ」。二回目の航海。

不気味なものの山が大きくなっていく。おとといよりもきのうよりもきょうよりもあしたよりもあさっ
てよりも。女の子はいつも山のふもとにいた。
「意味なんてないわ」
「意味って何の意味?」
「総てのよ」
「総てって何の総て?」
「総ての総てよ」
「そう」
「そうなの」
「なぜ?」
「自分で考えて」
 何を?

 泳ぐのに疲れて南鳥島で休憩していると、ゴーイングメリー号がそばを通った。その後ろをフジテレビ
の球体展望室が、どこかの国の結婚式で新郎新婦が乗る車の後ろについている缶のようについていく。祝
福が海面を走る。しかし何を祝福しているのだ。球体の上では、玉乗りをするピエロのように、丹下健三
が足を動かしている。
東京湾の水嵩が増している。温暖化? 違う。埋立地が広がっている。動かないクレーンが朝日を浴び
ている。

「疲れてるの?」心配そうな女の子に、頷く。
「毎日が繰り返しだから」
「それで泣いているの?」


19 :No.04 カーニバル(3/5) ◇tsGpSwX8mo:07/05/06 02:46:06 ID:ZLm0zFHA
「いいえ」
「そう」
「なぜ?」
「水がしょっぱくなったもの」
「では、泣いているのかもしれない」
「わからないの?」
「わからない」
たぶん毎日が繰り返しだから。
山の頂きが水面を越えたころに、穴からは何も飛び出してこなくなった。ただ、食べたものをすべて吐
き終えたあとも沸きあがる胃液のように、だらだらと、なにかが流れ出していた。絶え間なく。
女の子には久しく会っていない。今もまだこの山のふもとに居るのだろうか。

アクアラインが見えたころ、シロナガスクジラの鳴き声が聞えた。海ほたるの周りを回っている。こち
らに気づいたのか、彼がゆっくりと向かってくる。彼の躯の先端と数メートルの距離を置いてすれ違う。
視界のすべてを覆う巨体が動いていく。そしてふと止まる。正面に目があった。凝視。

 バスタブからお湯が溢れている。金メッキの栓を抜けばここは海に通じる。だから、栓は抜かない。水
面にゴミが浮いている。髪の毛も、陰毛も、ゴミとしか名づけようのないこまごまとした何かも。
 バスローブを羽織ってベランダに出る。風が痛い。見上げると夜空が落ちてきて星に片目を潰される。
溢れた血を止めようと包帯をさがすけれど、包帯はもちろん、オルタナティブなものは何もない。その間
にも星は落ちてきて、プラズマテレビとパソコンとバスタブが壊れた。星が降ってきた天井の穴を見上げ
ると、北極星が月のように大きい。覚悟を決めて壊れたバスタブの栓を抜く。すでにお湯はフローリング
の床に染みてブラジルに達していた。新聞がそう報じるだろう。ブラジルはサンバどころではない。
 間欠泉のように風呂の湯が穴から飛び出した。躯が空に当たって落ち、山の尾根を転がる。ここの空も
潰れていた。結局のところ、世界は一つしかないのだ。たとえば空間やら次元やらを超えて、異世界と呼
ばれるようなところへ行くことが出来たとしても、その筋道がある限り世界は一つなのだ。
かつて目だった穴から流れ出ていた血がとまった。

 雨が降ってきた。雲が空に押し潰されまいと戦っているのだ。海面の無数の波紋は、広がろうとするけ

20 :No.04 カーニバル(4/5) ◇tsGpSwX8mo:07/05/06 02:46:48 ID:ZLm0zFHA
れど隣の雨粒の波紋に砕けて、水面は無数の儚い円の織り成す一瞬の水玉模様の繰り返しだった。たとえ
ばこれが映画だとしたらの話であるが。現実は1/24秒ごとに切り替わるのでなく、運動は連続しており、
きっとこの小さな波紋はいつの日か日本にまでその運動を伝えるのだろう。あるいはそれが巨大な津波と
なって、海岸の集落を飲み込むとしても。テトラポット、万歳。
 
 遠く、インド洋で、大西洋で、南極海で、シロナガスクジラが沈んでいく。彼の躯は動かない。命が尽
きたのだ。魚たちが彼の死体を喰っている。魚たちは神に感謝し、その巨大な肉を喰いちぎる。
「痛い」
と女の子が叫んだ。しかし太平洋はあまりにも深かったので、誰にも気づかれることはなかった。

不気味なものの山の中にテレビを見つけた。チャンネルを変えるのに、円形のスイッチを回さなければ
ならないような旧型のテレビだ。電源を入れると、数秒の砂嵐のあとに画像が写った。コンセントへと繋
がるコードは穴の中へ続いている。ブロンドの髪をしたニュースキャスターが「世界の終わり」を告げた。

ゴーイングメリー号はこの世界を脱出しようとしていた。そもそもゴーイングメリー号は、この世界の
船ではなかったのだ。船は自らの意思で本来あるべき場所へ戻ろうとしていた。そこがどこなのかは誰に
もわからない。祝福の行列にシロナガスクジラが加わっていた。彼の背には大勢の人間が乗っていて、宴
に呆けている。

バスタブの栓の金メッキが剥げてきていた。剥げた金が水面に浮いていた。蛍光灯を反射して静かに光
っていた。換気扇が回っているはずなのに、何の音も聞えなかった。とっくにバスルームは沈んでいたの
だから。たぶん始めから。
空がついに海面まで落ちてきて、押された躯が沈んでいく。光が消えていく。一億四九五九万七八七〇
キロメートルを時速一八〇〇万キロメートルで飛んできた光が。暗い。闇の底で女の子が待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「ただいま、と言うのね」
「あなたがおかえりと言ったから」
「そう」

21 :No.04 カーニバル(5/5) ◇tsGpSwX8mo:07/05/06 02:47:22 ID:ZLm0zFHA
「それにしても、ここは暗い」
「底だもの」
「前は明るかった」
「昔はね」
 
穴がない。だから山もない。たぶん最初から何もなかったのだろう、この世界さえも? そこまで考え
て気がつく。穴はあるじゃないか。かつて世界を見ていた穴が。
「これを」
 女の子が彼女の身の丈よりも大きい球体を差し出す。球体は鈍く光っている。
「流れてきたの。シロナガスクジラからあなたへのプレゼントよ」
「これは?」
「彼の目よ」
 シロナガスクジラの目が穴を塞ぐ。けれど彼の目はあまりにも巨大なので、逆にこちらが彼の目に吸い
込まれる。比喩的な意味でなく、彼の黒い瞳の中に閉じ込められる。
どれだけの時間が経っただろう。自分の躯が見えない。女の子も見えない。暗い。そういえば冷たい。
ここは世界の底なのだ。日常が脳の中にだけ残っている。つまりどこにも残っていないのだ。


震動を感じた。

シロナガスクジラがないている。

東京が遠い。



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