【 あしあと 】
◆lxU5zXAveU




12 :No.03 あしあと 1/5 ◇lxU5zXAveU:07/05/06 01:38:20 ID:vXs62cuE
 俺は浴槽で生まれた。母親は湯に浸りながら俺を産んで、浴槽の栓を抜いた。俺は抜け
殻のように色を失った母親の横で、泣いているところを保護されたらしい。最初から片親
で、ほかに身寄りがなかった。ぜんぶ後から聞いた話だ。俺を預かってくれた家の子供
が、「秘密だよ」といいながら演出入りで教えてくれた。想像にしては変わった状況だか
ら、根も葉もない話ではないと思う。

 自活してすぐ、汚いアパートに住んだ。駅からは、ソープランドとピンク映画館を
通る。トタンで塞がれたゴミ捨て場をまわると玄関だ。チラシでいっぱいのポストを見る
と、俺の他には二人住んでいるようだった。大家は近郊の高級住宅地に住んでいて、他の
住人同様、めったに顔を見ない。窓を開けるとラブホテルの看板が迫ってくる。
 このアパートに決めたのは、仕事場が近くて、ゴミ捨て場が窓から見えて、浴槽が気に
いったからだ。

 ひびの入った浴槽に、たっぷりの湯を満たして入るのが好きだ。温まりそうになると、
いつも手が勝手に栓を抜いてしまう。すっかり抜けきるまで座っているのが常で、立ち上
がるころには肩は冷えて乾いている。
 友達にその話をすると、「母親が恋しいのか」と言われた。素直に答えれば、覚えてい
ない人を恋しく思いようがない。俺を産んで死んだのか。それとも捨てられたのか。いま
さら知りたくもない。申し訳ないと、自分で思いたくも、母親に思ってほしくもなかっ
た。もう関係のない人だ。

 ある日、浴槽で座っていると、外廊下に面した窓から音がした。このアパートは、周辺
の風俗街の人間が忍び込んでいることがある。放っておこうとすると、隣のドアを開けよ
うとしているのが聞こえた。一年以上住んでいるが、隣で物音がしたのは初めてだった。
 窓から隣を覗くと、女が立っていた。濡れたような黒い髪の女で、裾の広がる長細いス
カートをはいている。下腹部が膨れていた。手に提げたビニール袋に、黒く濡れたものが
入っている。
 女が顔を上げてこちらを見た。血色の良い頬をした、幼さの残る綺麗な顔だった。この
界隈には似合わない。

13 :No.03 あしあと 2/5 ◇lxU5zXAveU:07/05/06 01:38:50 ID:vXs62cuE
 罰が悪くなって、声をかけた。
「こんにちは」
 女は、まんまるの瞳で俺を見た後、ついと頭を下げた。その仕草を見て、古びた動作
だ、と思った。
 窓越しの会話も変なので、着替えて外に出た。女は律儀に待っていてくれた。
「隣の高山です。ここに引っ越してきたんですか?」
「……はい」
 女の持ち物は生臭いビニール袋ひとつで、他に持っていなかった。
「お茶とか、足りないものがあったら言ってください。……荷物が届くまで」
「ありがとう」
 はじめて笑った女の顔を見て、知っている顔だと思った。
 とりあえず、お茶や貰いもののポテトサラダを持っていくと、女は戸惑ったように受け
取った。流しに置いてあったビニール袋の中には、鰯のような魚が入っていた。
 女は水穂という名前だった。妊娠していたが、父親となる男は、いつまでたってもアパ
ートにこなかった。廊下ですれ違ったりするときは、大抵ビニール袋を提げていて、そこ
には魚が入っていた。仕事をしている時に引越しはすんだらしく、いつも隣は静かだっ
た。

 水穂の腹が大きくなってきた。
 歩くのにも息をふうふうさせているときがあって、買い物を代行した。自分が食べるぶ
んを合わせて、食事を共にとることが増えていった。苦労したのは魚だ。水穂は毎日、青
魚を五匹食べていた。栄養バランスを考えて、サラダを混ぜたり肉料理を入れたりしてみ
たが、水穂の顔色は悪くなる一方だった。仕事仲間に相談すると、妊娠中は人によって代
わったものを大量に食べたくなるらしい。水穂の場合は、それが魚だった。
 部屋に来た水穂が、マグロの切り身を覗きこんで硬直していた。
「……赤い」
「それマグロ。でっかい魚。スーパーにそれしか売ってなかった」
 自分では調理が面倒くさいので生魚など買ったことがない。マグロの絵を書きながら、
鰯の大きくなったようなものだと説明すると、水穂は喜んだ。

14 :No.03 あしあと 3/5 ◇lxU5zXAveU:07/05/06 01:39:14 ID:vXs62cuE
 分厚い刺身に切っていると、背後で何かが落ちるような音がした。
「どうした?」
 膨れた腹を抱えて、水穂が倒れていた。苦しげに片で息をしている。慌てて掛けよ
り、水穂の体を仰向かせた。汗で髪が濡れていた。呼吸を落ち着かせながら、電話に向か
って手を伸ばした。
「……呼ばないで」
 小さな声。束になって顔に張り付いた髪の向こうから、必死な目が覗いていた。
「せめて父親を」
 俺は何ヶ月も、言わないようにしてきた言葉を口に出してしまった。父親。水穂を母親
にした男がいるなら、そいつはいま何をしているのか。今、誰よりも必要じゃないのか。
 水穂の食いしばった歯の間から、きしむような音がこぼれた。きつく閉じた目から、大
きな涙が落ちる。痙攣するように水穂が泣きだした。
 泣く水穂の小さな体と大きな腹を見ながら、俺は最低な気分になった。ひとりで大きく
なっていく腹を抱えて、痛みを抱えて、心細くないわけがない。呼べるものなら、きっと
呼ぶ。こんなところに一人では住まない。
 気がつくと、俺は水穂の肩を抱えて、窓際に座っていた。往来から呼び込みの声が聞こ
える。新鮮な空気をいれるために開けた窓から、ラブホテルの看板が見えた。好んで、
こんなところに来る母親はいない。それでも、水穂はネオンピンクの光に見入っていた。

 翌朝は仕事が休みだった。浴槽に入っていると、大家がやってきた。久しぶりに見た大
家は、丸い額にハンカチを押し付けながら、やたらと早口に謝ってきた。
「いやね、急に申し訳ありません。昨日ね。高山さんが出かけている時に、一階で鍵破ら
れてたんですよ。未成年のコがいたって通報で、まあこの界隈ですからね、入ったんで
す。そしたら出てきましてね。ビデオとか。いやー、まずいよ未成年は。そっちは警察が
来てひと段落したんですけど、いったん全ての部屋を見て回ろうと。やっぱり安全は大切
ですからねぇ」
 俺は大家を部屋に通して、下らない世間話に付き合った。
 今日は水穂を見ていない。俺が玄関先に尋ねるまでは、めったに物音もしない女だっ
た。俺よりも隣を心配した方がいいだろう。

15 :No.03 あしあと 4/5 ◇lxU5zXAveU:07/05/06 01:39:40 ID:vXs62cuE
 そう言うと、大家は奇妙な顔で俺を見た。
「……変ですねえ。高山さん、他には一階に二人です。この二人は前から住んでます」
 そんなはずはない。水穂の話をすると、大家は色めき立った。
「そりゃ不法侵入です。契約なんて結んでいません。そうでなくても危ないから、女のコ
には貸しませんよ。高山さん、ちょっと付き合っていただけませんか」
 俺は濡れた髪のまま、首にタオルを掛けて隣のドアを叩いた。返事がない。大家が鍵を
じゃらつかせながら、合い鍵を探しはじめる。ノブをひねると、ドアが開いた。
「ありゃあ、こっちもか。鍵を取り替えないとだめだな」
「……水穂、さん」
 返事がない。鍵を確かめている大家を置いて、俺は部屋に踏み込んだ。生臭い。腐った
魚の匂いがした。他にも腐臭がする。
 魚を入れていた袋が流しに溜まり、生魚の食べ残しが腐っていた。初めて水穂にあった
日、俺が差し入れたポテトサラダも、そのまま腐っていた。
 和室には布団すらなかった。どす黒く汚れた布の塊が落ちている。窓際にはひときわ黒
く、生臭い染みが広がっていた。血が変色したような色だった。
「あんな体で、どこに行ったんだ……」
「高山さん、それ足跡じゃないですか」
 大家が後ろから声をかける。俺の靴下のすぐ横に、汚れがあった。生臭い足跡を辿る
と、風呂場へ続いていた。
 風呂場の引き戸に手を掛けて、一瞬、めまいを感じた。産んだのか。母親のそばで、赤
ん坊が助けを求めていたら。
 赤ん坊がいるなら、どうしてこんなに静かなんだ。
 高山さん、と大家に呼ばれて我に返り、戸を引いた。風呂場に踏み込む。流し場には何
もない。浴槽に手をかける。いた、と感じて手を伸ばす。鉄錆をとかしたような水をかき
わけて、誰かの名前を呼んでいた。肩をつかまれたが、振りほどいてまた手をつっこん
だ。
 後から聞いたところによると、浴槽に溜まっていたのは、血と羊水混じりの水道水だっ
た。水穂はいなかった。赤ん坊もいなかった。

 風を通すために開け放した窓のそばで、俺は脱力していた。

16 :No.03 あしあと 5/5 ◇lxU5zXAveU:07/05/06 01:39:57 ID:vXs62cuE
 汚い布の塊は、水穂のはいていたスカートだった。大家は部屋を一通り調べた後、
台所の腐ったものをビニール袋に突っ込んで、俺のところにやってきた。
「参りましたね。こんなもの以外は、ビデオとかはありませんでした。警察は呼びませ
ん。なんせ、母親も子供もいないんだから。片付けるだけにして、鍵は変えときます」
 水穂は無事なのか。こんなに破水して、ひとりで歩いていけたのか。風呂場に続く足跡
はあったが、出ていく足跡は見つからなかった。赤錆の水で体を洗ったのだろうか。
 ごぼ、と音がした。風呂場で大家が呟くのを聞いて、俺はまた立ち上がっていた。
「……なにやってるんだ。流してどうする!」
「え? いませんよ、なにも」
 俺は大家を押しのけて、水を吸い込む排水溝に手のひらをあてた。指の間から命のス
ープが流れていく。水穂が数ヶ月かけて育てたものが失われていく。それが惜しかった。
 浴槽には、ゼリーのような肉色の欠片が残った。
 アパートは改装されることになり、俺は部屋を出た。

 最近になって、母親の命は、浴槽に溜まっていたスープに溶けて流れていったのではな
いかと想像するようになった。それならば、その中で生き続ける命もまた、あるかもしれ
ない。
 水穂は、赤ん坊を救ったのだろうか。もしかすると、二人でスープとなって、排水溝か
ら自由になる旅へ出かけたのだろうか。
 こんな夢じみたことを考えているのも、引っ越しの影響だろう。俺は生まれて初めて、
母親の顔を知りたくなっていた。水穂が残した命のスープを、俺の母親は最後に浴槽から
流し出した。生まれたばかりの赤ん坊の呼吸を助けるためだったのだろう。人は水の中で
は生きていけない。母親の写真は何もなかったが、水穂の部屋に残されていた、腐った魚
の匂いが俺にある閃きを与えてくれた。新しい部屋は風呂はせまいが、窓を開けると見晴
らしがいい。
 命のスープは繋がっている。それは俺の母親を飲み込んで、水穂や赤ん坊を自由にし
た。母親の命は川をくだり、大地の七割をおおい尽くす。そこは羊水によく似た成分で、
たくさんの命をはらみながら、俺のいる陸に打ち寄せている。
 海だ。



BACK−約束◆Yqs3.7q3Zg  |  INDEXへ  |  NEXT−カーニバル◆tsGpSwX8mo