7 :No.02 約束 1/5 ◇Yqs3.7q3Zg:07/05/05 02:22:44 ID:pnl7hlZ+
「ねぇ、海ってどんなところ?」
「え?」
彼女がそう聞いてきたのは夏の日差しが顔を出してきた6月だった。
病室の白いベットの上で窓の外に青々と広がる空を見ながら彼女はそう僕に尋ねていた。
「だから、海。海ってどんなところなの?」
「そうだなぁ……」
正直、このときの僕はどう答えればいいか悩んでいた。
僕だって海に行った事ぐらいにはある。だからどんなものかは人並みには分かっている。
それでも僕がどう答えればいいかを悩んでいたのは、彼女が海どころかこの病室以外の世界をまともに知らないからだった。
だから僕は彼女にも分かるような説明をしようと考えていた。
彼女と初めて会ったのも夏の気配が見え隠れしてきた6月だった。
季節の変わり目のせいか風邪を引いた僕は母さんに連れられこの病院にやってきた。
あの頃は病院が嫌いだった。だからその時もいつものように具合が悪いくせにぐずったし泣いた。
母さんは手馴れたもので僕の名前が呼ばれるとさっさと手を引いて診察室に引っ張っていく。そんな時だった。
僕は待合室の向こう側――――病棟への入り口のところからぼんやりとこちらを見ている少女と目が合った。
年は同じぐらい。でも背格好は少し幼い気がする。遠かったから顔はあんまり分からなかった。
そして、僕は彼女に気を取られている隙に診察室に放り込まれていた。
これが僕と彼女の初めての出会いだった。
診察室を出たときにはもう彼女はそこにいなかった。
僕が診察を受けている間ずっと立っているとは思ってなかったけれども、いないと実感すると少し残念だった。
母さんに手を引かれて僕は待合室まで行くとずらりと並ぶ長椅子に座った。
熱が改めて出たのか僕は何をするでもなくぼんやりと辺りを見ているだけだった。そうしているうちに受付からは僕の名前が呼ばれ、母さんが薬を取りに行っていた。
僕は相変わらずぼんやりと座っているだけだった。すると――
「ねぇ、ぐあいわるいの?」
と不意に声を掛けられた。
「え――?」
声のした方を見る。そこには僕と同じぐらいの年で、それでも背格好は少し幼めの女の子がいた。
「さっきしんさつしつに入っていくの見てたから」
8 :No.02 約束 2/5 ◇Yqs3.7q3Zg:07/05/05 02:23:24 ID:pnl7hlZ+
「あ……うん。でもおいしゃさんはただのかぜだって」
僕のその言葉を聞くと、彼女は、
「そ……っか。せっかくともだちができると思ったのにな……」
と、とても残念そうに呟いた。
僕も彼女も何も言わなかった。なんて言えばいいか分からなかったし、第一彼女のその言葉の意味をよく分かっていなかった。
そうしているうちに母さんは支払いを済ませ僕のところに戻ってきた。
母さんはじゃあ帰りましょう、と言うと僕の手を掴む。彼女はただじっとソレを見ている。
「あ……」
ふと、口を出た。何でそう言ったのかは今でも分からない。でも、確かに僕はこう言った。
「ま、また明日」
「くす」
あごに手を当てつつ考えていた僕の横で彼女が笑った。
「なに? 何か面白いことでもあった?」
「うん。なんだか一生懸命考えてる横顔が面白くて」
「もう、人が真剣に考えてるってのに」
あはは、と彼女が誤魔化すように笑う。彼女のこんな笑い顔はもう見慣れたものだった。
「んー、そうだなぁー……空、みたいなものかなぁ」
「空?」
「うん、空。ほら空って青々としててずっと広がってるでしょ。海もそんな感じなんだ。青々としてずっと、どこまでも続いているような」
ほぁー、と彼女が感心したように息を吐く。
「いいなぁ……」
「うん?」
「いいなぁいいなぁいいなぁ! 私も海に行ってみたいなぁ……」
口を尖らせて彼女はそう言った。そしてその目はしっかりと僕をジト目で見ている。
「あ、はは。じゃ、じゃあ今度一緒に行こうよ、海」
「ええええっ!? ほんと!?」
「うん、嘘じゃないよ。最近調子いいんだろ? だったら少しぐらい外出しても大丈夫だ……」
「や、やったああ〜! 嬉しいっ。うあ〜どうしようっ」
彼女は僕に最後まで言わせずに喜びの言葉を口にする。
9 :No.02 約束 3/5 ◇Yqs3.7q3Zg:07/05/05 02:23:57 ID:pnl7hlZ+
「って、最後まで言わせてよ。喜ぶのはその後。おーけー?」
彼女を無理やり落ち着かせる。彼女は見た目にも喜びを抑えきれないようだった。
「うんうんうん。おーけーおーけー」
首をぶんぶんと振って頷く。もうどこが大丈夫なんだか。
「だからね、調子がよかったらの話だよ」
「うんうん。分かってるって。最近調子がいいんだから大丈夫っ」
「うん。でもキミがどう言おうがお医者さんがダメだって言ったら行けないんだからね」
「大丈夫大丈夫! もう最近は調子がいいねって先生も言ってるんだからっ」
むふー、と鼻息荒く彼女は言う。
確かに見た目にも話した感じにも彼女は元気だったし、病人かといわれると悩むぐらいには回復していた。それでも彼女が病人であることは間違いない事実だった。
「ま、分かったから。そろそろ休もう、ね」
「うー、まだ大丈夫だって」
「だーめ、ちゃんと休まないと遊びにも行けないじゃないか」
「むぅー……」
彼女は明らかに不満そうに言うが、その意味はちゃんと分かってるらしく大人しくベッドに横になった。
「じゃあ! 約束しよっ。指きり」
彼女は横になった状態で僕の方へ手を伸ばす。軽く握られた拳の中で小指だけが突き出されている。
「はいはい。わかったって」
僕も小指を出し、彼女の指と絡める。小さくて、少し冷たい指だった。
「「ゆーびーきーりげーんまーん、うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます」」
声を合わせて誓いの言葉を唱えた。
ゆっくりと指を離した後の彼女の顔はとてもうれしそうで、幸せそうだった。
7月も半ばを過ぎた頃、彼女の体調が急変した。
その知らせを受け、時間も忘れ僕は病院へと急いだ。
病院は既に面会時間を過ぎていた。それでも長年通っていた僕はどうにか入れてもらうことが出来た。
僕が通されたところはいつもの病室ではなく、入ったことも無いような個室。その入り口にはICUと書かれたプレートが下がっていた。
白いベッドの上で、彼女は呼吸器を付け静かに眠っていた。ピ、ピ、ピと規則正しく電子音が鳴っているのは彼女が生きている証だった。
「ご両親には既に説明いたしましたが、彼女は今夜が峠です……」
いつの間にか僕の横に立っていた先生が静かにそう言った。先生がどんな顔をしていたかは分からなかった。僕は彼女から目が離せなかったから。
10 :No.02 約束 4/5 ◇Yqs3.7q3Zg:07/05/05 02:24:23 ID:pnl7hlZ+
「後は彼女の頑張り次第です。今夜を超えれるかどうかは、彼女がどれだけ頑張れるかでしょう」
「きっと」
僕は彼女の手を握りながらそう呟く。彼女の手は少しだけ暖かかった。
「……きっと大丈夫です。だって……約束しましたから」
ぎゅっと彼女の手を握る。先生はもう何も言わない。
「一緒に、海に行くんだろ……? 約束しただろ……? なぁ……俺約束、守るからさ……」
がんばれ、と搾り出すように小さく言葉に続ける。同時にぎゅっと彼女の手を強く握る。
涙が出そうになるのを堪え、彼女を真っ直ぐに見る。
彼女は静かに眠っていた。白いベッドの上、まるで眠り姫のように静かに。
「がんばれ……! 一緒に、海行こう、な……。ずっと行きたかったんだろ……!」
何も語らない彼女に言い聞かせるように言う。約束を忘れていない、と彼女に伝える。
「こんなところで負けるなよ……! 約束破るつもりかよ……!」
祈るように彼女の手を握る。彼女の手は僕の手を握り返してはこない。
それでも、しっかりと、離さないように握る。
今感じる、この彼女の温もりが何処かへ行ってしまわないように。
そうして、ずっと、ずっと僕は彼女の手を握り続けた。ずっと、彼女が目を覚ますまで――――
11 :No.02 約束 5/5 ◇Yqs3.7q3Zg:07/05/05 02:24:55 ID:pnl7hlZ+
じりじりと暑い日ざしが肌を焦がす。その為か異常なほどに汗は流れ、すでにTシャツはびしょ濡れだった。
これでもか、と自転車のペダルを踏み込む。ソレにあわせるかのように、ぎ、ぎ、と音を立てて自転車は坂を上っていく。
「ほーら、がんばれー」
後部座席から応援が飛ぶ。これで少しは耐力が戻ればいいのだが……。
「くぅー、ぁ、ぅ……!ぁー……もう、ダメ」
「え、きゃっ……」
力尽きて倒れるかのように自転車を止める。それと同時に彼女がバランスを崩し自転車から落ちそうになる。
「っと、危ない」
そこをすんでのところで支える。支えられた彼女が少し頬を赤らめる。
ふと、何かに気付いたかのように彼女が僕の後ろに目線をやった。それにつられて僕も後ろを振り返った。
僕はここで坂をほぼ上りきっていたことに気付いた。
そして坂の向こうに広がる青々とした海があることにも。
始めて見た海に彼女はなんて言うのだろうか。
そんな思いをしつつ、僕は彼女の手を握った。
彼女の暖かな手が僕の手を握り返す。
そうして約束を果たすため、これからの為に、僕たちは歩いていった。
ゆっくりと坂を越えて、その向こうに広がる海に向かって。
<了>