【 光学キャノンと白うさぎ 】
◆wDZmDiBnbU




2 :No.01 光学キャノンと白うさぎ 1/5 ◇wDZmDiBnbU:07/05/05 00:19:10 ID:bCCNuSxh
 ネットオークションというのは本当によくない。
 便利なのだ。前々からちょっと気になっていたけどでも高いから買えないな、と思っていた
ようなものが超格安でごろごろ転がっている。そんなにごろごろ転がられたらそりゃ拾います
よねってくらいのもので、和彦はいつもつい気軽に「これくらいの値段なら」と入札してしま
う。
 しかしそういう人間は和彦以外にもいっぱいいるわけで、当然ながら値はどんどん上がる。
「あと五千円くらいまでならまだまだお値打ち価格」なんて一度競り合いを始めたらもう止ま
らない。完全に火がついてしまって気がついたときにはもう後の祭りだ。
 ヤマト便のお兄さんが持ってきたのは一眼レフ用の交換レンズで、それも馬鹿でかい超望遠
のやつだった。光学三倍ズームで最大焦点距離四〇〇ミリという大学生には少し贅沢な品だが、
まあ簡単に言えばほとんどキャノン砲みたいな、『カメラにつけるとどっちがカメラ本体なの
かわからなくなる』というような大業物だ。ダンボール箱が届いたときはさすがに和彦も、
「何やってんだろ、俺」
 と、冷静というかかなり陰鬱な気持ちになったが、ダンボールを開けて現物を目にしたとた
ん、そんな気持ちはどこかへと吹き飛んだ。交換レンズ、それも望遠レンズというやつはとに
かくメカメカしくてやたらと格好いいので、たとえ写真に詳しくない人間でも男なら自然とわ
くわくしてしまうような無駄な魅力に満ち満ちていた。一応カメラを趣味にしている和彦にとっ
ては尚更のこと、その日の晩は遠足前日の小学生みたいな状態にまで陥ってもう大興奮だった。
 次の日は土曜日で大学の講義もなく、そして初レンズの試し撮りにはうってつけの晴れ空だっ
た。和彦は早起きしてアパートを飛び出した。バイクに跨がったまではいいものの、どこへ行
くかが問題だった。和彦は下町や海といった風景の写真ばかり撮っていたので、今日もそうし
ようかと考えた。
 和彦がカメラを始めたのは去年の夏で、そのときは地元にはない海を思う存分撮って田舎の
両親に送ってやるぞと意気込んでいた。夏の海はきらきらと眩しくて水着姿の女の子があっち
こっちにいてそしてライフセーバーの視線が突き刺さるように痛かった。親孝行のために首か
らカメラを提げて砂浜をうろうろしてるなんて話は誰にも信じてもらえなかった。
 仕方がないので秋には町の風景を撮るようになった。和彦のアパートのあるあたりは昔なが
らの横町といった感じのいいロケーションで、僕はこんなところに住んでますよと両親に写真
を送るつもりだった。しかしその横町の狭い路地ではいつもランドセルの群れが下校していて、
和彦のカメラにはもっと嫌な説得力がついてしまった。女の子なのに道路でサッカーとかすん

3 :No.01 光学キャノンと白うさぎ 2/5 ◇wDZmDiBnbU:07/05/05 00:19:59 ID:bCCNuSxh
なよしかもスカートひらひらさせてこん畜生、とか、通報を受けて取り調べにきた警官に向かっ
て言うような度胸は和彦にはない。
 というわけで、和彦は海に行くことに決めた。無論去年のような過ちは繰り返さない。海開
きもしていないこの時期ならまだ海水浴客もいないだろうし、もしいたとしても鉢合わせない
ようにわざわざ早起きしたのだ。六月の午前六時に夏を先取りしてしまうような水着ガールな
んていないだろう。奴らが浜辺に沸き返る前にウミネコの群れをバシャバシャ激写するのだ。
 実際、和彦はバシャバシャ激写した。沖合のテトラポットで羽を休める仲良しウミネコとか、
灯台の上にとまって遠い目をするダンディなウミネコとか、もう大満足の絵がいっぱい撮れた。
四万円もした望遠レンズの威力は伊達じゃなくて、浜辺に降りずに海沿いの道路の上からでも
ガンガン撮ることができた。いままでは広角で海全体の風景を撮っていたけれど、望遠ならウ
ミネコみたいな単一の被写体を大迫力で撮ることができる。というか、望遠というのはそのた
めのものだ。つまりこんなものを提げて夏の浜辺をうろついた日には完全に言い訳がきかない。
 でも今日はライフセーバーも警官もいないし最高だ、とフイルムを交換しながら一息ついて
いたとき、和彦は海の上に見慣れないものを見つけた。海面に浮かぶその小さな丸い何かは、
ブイにしては随分と浜辺の近くにある。フイルムカバーを閉めて巻き上げたあと、和彦はファ
インダー越しにその何かを覗いた。こういうときにも望遠は役に立つからエラい。
 目が合った。
 女の子だ。くりっとした瞳に小さな鼻、そしてつんと突き出た唇はとても幼いというかたぶ
ん中学生くらいかなあと和彦は思った。思ったのはいいけれどそれが疑惑と困惑と不審とあと
そういうのを色々込めたような視線でこっちを睨んでいるのが問題だ。頭だけ海の上に見えて
いるわけだけどたぶんその下にはちゃんと体がついているのは明らかで、そうじゃなかったら
もう完全にスプラッタ映画だ。つまりこれは夏を先取りする水着ガールが本当にいたということだろう。
 これはいかん、と和彦は直感した。すぐにバイクに跨がって逃げるべきだと思ったのだけれ
ど、でも目が合ったらすぐ逃げましたなんてますます疑惑を裏付けるみたいで気が引ける。か
といって何事もなかったかのようにまたウミネコを撮るなんていうのもなんか変だ。そんなこ
とを一瞬のうちにあれこれ考えた末に、和彦は近くの階段から浜辺に降りていった。なんか言
い訳しないとダメだ、うまいこと言いくるめて口封じだ、と、なんかすっかり悪いことをした
人のような気分になっていた。
 波打ち際のあたりまで来たはいいものの、和彦はそこでまた悩み始めた。言い訳といっても

4 :No.01 光学キャノンと白うさぎ 3/5 ◇wDZmDiBnbU:07/05/05 00:20:56 ID:bCCNuSxh
一体どう声をかけたものか。「僕別に全然そういうのを撮りにきてる人とかじゃないですから
ね」なんて言ったら明らかに怪しい。かといって「ねえ彼女ー、こんなとこで何してるの? 
一人?」とかそういう昭和のナンパみたいなのも無理だ。結局戸惑ったままじっと少女を見つ
めていると、なにやら気圧されたような様子で少女の方から口を開いた。
「私、別に全然そういうのとかじゃないからね」
 一体なんのことやらさっぱりだったけれど、その答えは少し俯いた彼女の、その恥ずかしそ
うな様子が物語っていた。たぶんこれはアレだ、こんな季節外れの朝っぱらから海水浴をして
いる変な人だと思われたくないんだな、と和彦は納得しかけて――そういえばなんでだろう、
とすぐに疑問に思った。
「皮膚が弱いの。体質で」
 和彦が聞く前に少女は話し始めていた。彼女は家系的に汗疹(あせも)ができやすい体質ら
しくて、夏場になるとそれはもうひどいのだという。で、その汗疹のシーズンが始まる前に何
度か海水に浸かると軽減されるのだと少女は言った。言われてみれば彼女は髪をヘアゴムかな
にかでまとめあげていて、海に潜って泳いでいたような様子はない。だがそれでもまだ和彦は
半信半疑だった。少女に汗疹なんて一つも見当たらなかったからだ。
 海から上がった少女は中学生らしくスクール水着なのかと思っていたら全然そんなことはな
く、なんていうか真っ白なビキニとしか言いようのないくらいシンプルで柄のない水着を着て
いた。あせもの治療というか予防なんだからなるべく皮膚が出ている方がいいのだろうけれど、
しかしその肌はなんだか透き通るみたいに白くて奇麗でとても肌が弱い風には見えなかった。
 つい思ったまま「全然肌奇麗じゃん」と言ってしまうと、少女は半分恥ずかしがるようなで
も残り半分は不審がっているような様子で、
「夏前だし、この時期はまだ平気」
 と呟くみたいに言った。浜に投げてあった荷物から二リットルのペットボトルを取り出して、
たぶん水道水だろうその水で丁寧に体を流す。小さいおへその辺りを伝う水が陽光にキラキラ
と反射して、和彦はもう一度「これはいかん」と思った。中学生(たぶん)を相手にこれはい
かんと思う自分にこれはいかんと感じた。
 いろんな葛藤を抱えたおかげで和彦は黙りこくってしまった。その沈黙を少し居心地悪く感
じたのか、バスタオルで体を拭きながら少女が遠慮がちに言う。
「一眼レフだね」
 和彦の首に下げたカメラのことだ。「知ってるの?」と和彦が聞き返すと、少女は「お父さ

5 :No.01 光学キャノンと白うさぎ 4/5 ◇wDZmDiBnbU:07/05/05 00:21:39 ID:bCCNuSxh
んがカメラオタクで」なんて言う。オタクかあ俺もそう見えるのかなと考えていると、少女は
さらに「でも私は写真嫌い」とまで言った。
「夏に家族で海にくるでしょ。そうすると、お父さんが張り切って写真撮るの。でも私肌がこ
んなだから、小さいころの写真なんてもう私だけ全身真っ赤っか」
 和彦はその少女が真っ赤っかになっているところを想像しようとして、失敗した。いま和彦
の目に映る彼女はもう全身すべすべの真っ白で、きっと遠目に見たらどこから水着でどこから
肌なのかわからないんじゃないかってくらいに奇麗なのだ。それが夏には真っ赤になるなんて、
ちょっとそう簡単には想像できない。
 和彦は「まるで因幡の白うさぎだな」と思った。思ったけれど、たぶん失礼な気がしたので
言わずにおいた。しかしその代わりについ、「いま撮ったら」と言ってしまった。
「え?」という顔で目を丸くする少女。水着の上に着込もうとしたTシャツから、ぴょこんと
頭だけ出したところだ。
「いや、それならいまの季節のうちに撮ったらいいかな、と思って」
「……その、なんか大砲みたいなカメラで?」
 袖からずばっと出て来た細い手が、和彦のカメラを指差す。和彦は「喜んで」と答えようと
して、でもなんかそれって変態っぽいなと思い直した。
「これものすっごい望遠だから、結構離れてないとちゃんと撮れないかも」
 自分から言い出しておきながらそう言ってやんわり断ると、少女は特になんの感慨もなさそ
うに「そっか」とだけ言った。少しくらいは残念そうにするかなーなんて期待していた自分はどうなんだろう、と和彦は苦悩した。
 すっかり着替え終わった少女は「じゃあね」とだけ言って、荷物を手に階段の方へと駆けて
いった。和彦はその背中に無言で手を振る。少女がすっかり離れたあたりで和彦は海へと振り
返り、そして気の抜けた頭で少し考えた。これからどうしようか、またウミネコでも撮ろうか、
それともこの広大な海に向かって大声で叫んで煩悩を発散すべきだろうか。
 ちょうどそんなことを考えたタイミングで、突然大声が聞こえてきたので和彦は驚いた。
「おーい、カメラの人!」
 少女の声。振り返ると、海沿いの道路の上に彼女の白いTシャツが見えた。少女は和彦が振
り向いたのを確認すると、髪を留めていたゴムを手で外した。海からの風に煽られて、つやの
ある黒髪がふわりと広がる。そして少しためらったあと、思い切り右手を前に突き出すのが和
彦には見えた。カメラを構えてファインダーを覗くと、そこにはありがちな光景が見えた。

6 :No.01 光学キャノンと白うさぎ 5/5 ◇wDZmDiBnbU:07/05/05 00:22:20 ID:bCCNuSxh
 ――あ、なるほど。写真撮影といえばピースサインだよな。
 シャッターを切ろうと動き始めた人差し指が、ためらうように止まる。どうしようかな、と
少し考えたあと、和彦は思い切って言ってみることにした。
「おーい! 留めてた髪の毛な、なんかすごいことになってるぞー!」
 少女の「うそっ?」という声と、シャッターのカシャリという音が重なった。やっぱり望遠
の威力はすごいなと、和彦は改めて思った。あんな風に髪が二箇所はねているのもくっきりと
見える。そしてそれは、そのままくっきりとフイルムに焼き付いたはずだ。
「ちゃんと現像しとくからなー!」と叫ぶと、「いつ撮ったのー!」と返ってくる。そういわ
れても「さっき」としか言いようがない。でも、きっと最高の一枚が撮れたはずだ。
 入れ替えたばかりのフイルムの冒頭は、困ったような顔で自分の『耳』を押さえる、小さな
白うさぎの姿で飾られていた。

<了>



 |  INDEXへ  |  NEXT−約束◆Yqs3.7q3Zg