【 屋上の青い青い空に 】
◆2LnoVeLzqY
74 :No.17 屋上の青い青い空に 1/6 ◇2LnoVeLzqY:07/04/29 23:49:52 ID:U7EwskU3
唐突かもしれないが、君にひとつだけ訊いてみようと思う。簡単な質問だ。答えてほしい。
君だって一度くらい、こう思ったことがあるだろう?
――高校生の頃に戻りたい。
イエス? そうかイエスか。君も俺と同じだ。けれど普通に考えたら、無理なことだよな。こんなもん、ただの願いだ。
けれど俺はその願いを、今から、ちょっとだけ実現させようとしている。
ところどころひび割れた壁。晴れているというのに寒々しい校門。この高校を卒業して二年と半年経った。
そして、俺は戻ってきた。この高校の制服を着て。
今となっちゃ大学生だけれど、ほんのちょっとの間だけ、高校生に混ざってみたって、誰も文句は言わないだろう?
ささやかなイタズラ心だ。大学の授業はたまたま全休。バイトもサークルも休みでヒマだっただけなんだけれど。
誰かに見つかったらそのときはそのとき。まあ、見つからないとは思うけどな。制服を着てしまえばみんな同じにしか見えないさ。
時間割が変更になっていなければ、今はちょうど昼休みに入った頃のはずだ。
俺は遅刻してきた生徒のフリをして校門をくぐり、玄関のドアを開けた。すぐ向こうに、玄関ホールを歩いていく女子生徒たちの姿が見えた。時間はばっちりだ。
さりげなくカバンから上靴を取り出す。使命を終えたはずの靴だけど、この日のために洗っておいた。大丈夫。臭わない。
玄関には、昔から熱帯魚の巨大水槽が置いてある。
ふと見れば、巨大水槽は変わらず存在していた。名前も知らない色とりどりの熱帯魚たちが優雅に泳いでいる。
外靴は、開いている靴箱に入れておいた。扉つきだから、外からじゃわからない。上靴を履いて、俺は校内へと足を踏み入れた。
……懐かしい。
まだ校内を百歩も歩いていないはずなのに泣きそうになってきた。どうしてだろう。いやいや、理由なんて知ってるはずだ。
実験にバイトにサークル。思えば大学での生活は、かなり忙しい。人間関係だって面倒くさい。大学に行ってバイトに行って、バイトのない日はサークルのあとに飲んで。
そういうごちゃごちゃした生活でべたべたに汚れた心が、なんていうか、目の前の教室群を見渡しただけで、ちょっとづつだけど洗われているような気がするのだ。
まずは体育館に行ってみようと思った。
昼休みが始まってまだ五分も経っていないはずだけど、気の早い奴らはもうバスケを始めているはずだ。俺のときだってそうだった。そういうのって、時代が変わっても変わるもんじゃない。
きいきいきいきいうるさく鳴る体育館のでかい扉を開けると、やっぱり俺の目に飛び込んできたのはバスケに勤しむ生徒たち。
だむんだむんとボールが床を叩く音が心地いい。
驚いたのは、生徒たちの中に女の子が何人も混じっていることだった。
二手に分かれて試合をしているらしいけれど、両方が男女混合チームだ。男子はそれなりに手加減をしているみたいだけれど楽しそうだし、女子たちも女子たちで、上手くはなかったけれど、バスケを楽しんでいるようだった。
俺の頃にはこんなこと、まずなかった。
時代の流れ? それともこのクラスがとびきり仲が良い?
そんなことを思いながら、俺は壁に沿って体育館を一周してみた。変わったところはない。いや、天井に引っかかっているボールの数が増えているか。
体育館を出た俺は、次は図書室にでも行こうかな、と思った。
75 :No.17 屋上の青い青い空に 2/6 ◇2LnoVeLzqY:07/04/29 23:50:32 ID:U7EwskU3
………
セーラー服着てスカートはいて、私は二年と半年前に卒業した高校の前に立っていた。スカートはひざ上十センチ。もう少し短くしようと思ったけれど、どうでもいいと思ってやめた。
目の前にそびえるひび割れた校舎の壁も、やたら寂しい感じのする校門も、卒業したときとなんにも変わらない。
この場所だけ、時代の流れに取り残されたみたいだ。
時計を見た。昼休みが始まる頃にぴったり来ようと思ったけれど、決心がつかなくて、十分ぐらい遅れてしまった。
少し急ぎ足で、玄関のドアに近づく。
知っている先生に見つかったら、なんて言い訳しようかな。見つかったところで、問題ないといえばないんだけど。
ドアを開けてまず目に飛び込んできたのは、グーくんたちがいる水槽だ。私が入学したときから、この大きな水槽は存在している。
熱帯魚の、グッピーだからグーくん。水槽の中にたくさんいるグッピーの中で、この子だけ大きいから私が勝手に命名した。
こんにちは、グーくん。二年とちょっと経ったけど、まだまだ元気だね。もっともっと長生きしなよ。死んじゃだめだよ。
カバンから上靴を取り出して履いて、脱いだ外靴はカバンに入れた。
なんとなくだけど、体育館に行こうかな、と思った。悪くない。
教室も、聞こえてくる笑い声も、独特の匂いも、何もかもが懐かしかった。高校時代に戻れたらな、と思った。
けれどそれは、叶わない願いだ。
リノリウムの床を上靴が叩く。こんこんこん……どたどたどた。私のすぐ横を、体育館へ行く途中の男子生徒が何人か、走って通り過ぎていった。
走る気はなかったけれど、私もちょっとだけ急ぎ足で体育館に向かった。
体育館の入り口の大きな扉は開きっぱなしになっていた。おおかた、さっきの男子生徒たちが閉め忘れたにちがいない。
中を見渡してびっくりしたのは、男子と女子が一緒になってバスケをしていることだった。男子も女子も、すごく上手だ。
私の頃には、こんなことをするクラスなんてなかった。
彼ら彼女らが仲がいいだけなんだろうか。うーん、まあいいや、私にはもう関係のないことだから。
高い高い体育館の天井をしばらく見上げたあとで、私は体育館をあとにした。
ついでだから、図書室に行ってみるのも悪くない、なんて思った。
………
制服の力はすごい。今まで全く誰にも怪しまれていないのだから。
俺は図書室の前に立っていた。高校時代、俺は一体、何回ほど図書室に行っただろうかと考えながら。
恐らくは、図書局員に「すまん」と言いたくなるような回数に違いない。同じ空気吸っててごめんなさい、と。オマエ、この場所で本を何冊読んだ? と訊かれたら、自信を持ってゼロと答えよう。
76 :No.17 屋上の青い青い空に 3/6 ◇2LnoVeLzqY:07/04/29 23:51:30 ID:U7EwskU3
ドアを横に開いて中に入ると、俺はまた驚いた。今日は驚きっぱなしだ。
ほとんどの席が埋まっていたのだ。
俺の記憶の中にある図書室とは似ても似つかない。日夜スポーツに励む生徒を、いかに図書室に呼び込むかで頭を悩ませるのが図書局員の本来の役目じゃなかったか。
それなのにこの現状は何だろう。大入り満員だ。みんながみんな、思い思いの本に視線を落としている。
ドアのところに立ったままの俺をカウンターにいる図書局員がちらりと見た。もしや、怪しまれている?
俺は空席を探すフリをしながらカウンターに近づき、再び本へと目を落とし始めた図書局員に、思い切って訊いてみた。
「どうしてこんなに混んでるんですか?」
図書局員は視線を上げ、それから壁に張られた一枚のポスターを指差して言った。
「……あれのせい」
――読書月間。今月、十冊以上の本を読んだ生徒には図書カードか音楽ギフトカードを千円ぶん贈呈。
左上隅に、大きく新企画と書かれていた。今年から始まったんだろう。俺が知らないわけだ。ただこれ、いくらでもイカサマできそうな気がするけどな。そう思っていると、図書局員が俺に言った。
「……読んだ本についてのレポートがあるの。だから達成できるのは、たぶん五人ぐらい。まだ期間は始まったばかり。ここにいるほとんどが脱落していくはず」
俺が高校生だったなら、音楽ギフトカードに釣られてまんまとチャレンジして、他の連中と同じように脱落しただろう。
「……あなたもやってみる?」
いや結構。それだけ言い残して、俺は図書室を出た。昼休みの残り時間は、あと半分くらい。屋上でも行って、それから購買でパンでも買って帰ろう。俺はそう決めた。
………
図書室に行くまでに、いろんな教室の横を通り過ぎた。音楽室。家庭科室。それに、生徒たちのいるクラス。
そんな教室ぜんぶが、本当に本当に懐かしかった。ここに来てよかった、と思った。
怪しまれることはなかった。制服を着てしまえば、外から見れば同じ高校生に見えるらしい。
けれどその中身は、高校生なんかじゃない。どっかの三流大学生だ。その肩書きも、もはや怪しい。
結局、見た目が全てなのかな、なんて思った。制服を着てしまえば高校生だし、脱いでしまえば大学生。ちょっと切ない気もする。まあ、もうどうでもいい。
図書室のドアを横に開くと、私はびっくりした。今日はびっくりしっぱなしだ。
ここに来る人って、こんなに多かったっけ。
ドアのところに突っ立っていたら怪しまれそうだから、私はお目当ての本を探すフリをしながら歩き回った。蛍光灯が本の背表紙を照らしている。カウンターにいる図書局員は、手元の本に視線を落としていた。
ふと、一枚のポスターが目に留まった。
読書月間。
十冊以上読んだら読書カードか音楽カードをもらえるらしい。私の頃にはなかった。羨ましいなーと思っていると、右下隅に読めないくらい小さな字でこんなことが書かれていた。
読書レポート提出必須。……うわ、せこいっ!
77 :No.17 屋上の青い青い空に 4/6 ◇2LnoVeLzqY:07/04/29 23:52:07 ID:U7EwskU3
こりゃみんな無理だろーなんて思いながら、私は一冊の本を手にとって、空席を見つけてそこに座った。なんとなく、本が読みたい気分だった。
窓の外を見ながら、屋上に行くのは昼休みが終わる直前にしよう、と思った。
………
階段を上りきればガラス張りのドアがあって、その向こうには白いペンキ塗りの手すりで囲まれた、だだっ広い空間があった。
屋上だ。
頭の上には気持ち良いぐらい真っ青な空があって、俺は思わず手を広げて叫びたくなったけれど注目されそうなのでやめた。
屋上にはまばらに人がいて、みんな手すりから身を乗り出すように、眼下の景色を眺めていた。
グラウンドがあって、住宅街があって、その向こうにはこの都市の中心地区がある。
さらにその向こうには、青い空を支えるように山々が連なっている。
人がいない場所を選んで、俺も手すりから身を乗り出すように景色を眺めた。
この気持ちを言葉にするのは無理だな、と思った。
一瞬自分が、まだ本当に高校生であるように思えた。着ている制服を見て、俺は自嘲気味に笑った。
そのとき、なんとなく。本当になんとなく。
明日から大学もバイトもサークルも、張り切ってやってやる、という気になった。
この景色を見て、締まりすぎていた頭のネジがいっぺんに全部緩んだせいかもしれない。理由は何だっていい。とにかくこの場所に来てよかった、と思った。
大きな雲が流れてきて、それが作る大きな影が、俺がいま立っている屋上を通り過ぎた。一瞬すべてが暗くなって、それからまた眩しい光が射した。はしゃぎ声が聞こえてきた。
しばらくの間、ぼんやりと景色を眺めていた。
ふと我に返って時計を見ると、昼休みは残り五分になっていた。周りからは、一人、また一人と、生徒たちは階段へと続くドアの向こうへと消えていった。
それに続いて降りてもよかった。けれど、ちょっとばかり魔が差した。
イタズラでもしようと思った。たぶんあまりにキレイな景色のせいで、頭のネジが完全に取れたんだろう。
カバンからマジックペンを取り出した。水性じゃ雨で消えるから油性だ。それから手すりに、俺の名前と、日付と、『我ここにあり』という言葉を書き付けた。この言葉は、少し前に見た映画のマネだ。
それから顔を上げて、「我ここにあり」とつぶやいた。やっぱり、この場所に来てよかったと思う。
昼休み終了を告げるベルの音が聞こえた。動く気にはなれなかった。どうせ放課後まで誰も来ないはずだ。
しばらくの間、この景色は独り占めだ。気が済んだら、購買でパンでも買って帰ろうと思った。
………
ぱたん、と本を閉じた。昼休みが終わるまで残り五分。みんな屋上から教室へと戻り始める頃だろう。
78 :No.17 屋上の青い青い空に 5/6 ◇2LnoVeLzqY:07/04/29 23:52:53 ID:U7EwskU3
本を戻してから図書室を出て、私は屋上へと続く階段へと向かう。
階段では、屋上から降りてきた人とたくさんすれ違った。少しだけ不審な目で見られたけれど、これから私がやろうとしていることに気づく人はまずいないだろう。
階段を上りきったところにはガラス張りのドアがあって、その向こうには白いペンキ塗りの手すりに囲まれた、広いだけの空間がある。
屋上だ。
生徒たちは、みんな教室に帰ってしまったらしい。
この場所には、今は私一人だ。
見上げた空は、まるで絵の具を思いっきりこぼしたみたいにどこまでも青かった。死ぬには良い日かな、と思った。
死のう。
そう思ったのは一週間前だった。ちょうど、彼氏に別れを切り出されたときだ。サークルでもバイト先でも不要物だった私を、唯一必要としてくれていた人が彼氏だった。
なのに、その彼にさえ、ついに、必要とされなくなった。
私って、だめだ。それから一週間経って、ようやく決心がついた。
死のう。場所は、高校にしよう。
高校を選んだ理由を、今となっては思い出せない。それはたぶん、私にとって一番楽しかった時代が高校の頃だからだ。
きっと高校でなら、幸せな思い出を胸いっぱいに抱えながら死ぬことができそうだ。そう思ったに違いない。そしてそれは、大正解だった。制服を着て高校の中を歩き回って、本当によかった。
そう思いながらふらふらと、ドアから遠く離れた手すりに近づいた。
………
後ろから声を掛けられた。振り向くと、下り階段へ続くドアのところに知らない人が立っていた。
「君、授業はもう始まっているよ。早く戻りなさい!」
そう声を掛けられて、この景色を独り占めする俺の野望は潰えたことを悟った。俺の知らない先生だ。けれどマズい。どう言い訳しよう。戻るべき授業なんて俺にあるはずがない。俺は高校生じゃないんだから!
曖昧に返事をしながら俺はドアに向かった。あーあ、この景色、もう少し見ていたかったのに。
最後に、振り返って遠くの手すりを見た。あの言葉、誰かに気づいてもらえるだろうか。
………
誰もいなくなったグラウンド、その向こうには住宅街。さらに中心地区、そして、きれいな山並み。最後にみたものがこんな素敵な風景なんて、悪くない。手すりを乗り越えようと、手をかけた。
ふと、そこに書かれた言葉に気がついた。
『我ここにあり』
ずっと昔に見た映画を思い出した。『ショーシャンクの空に』だ。ずるい、と思った。
79 :No.17 屋上の青い青い空に 6/6 ◇2LnoVeLzqY:07/04/29 23:53:30 ID:U7EwskU3
その隣には名前が書かれていて、それは知っている人だった。高校のときに入っていた部活の先輩だった。私の好きだった、先輩だ。
さらにその隣には、日付。……今から、ちょうど一年前の日付だった。
一年前は先輩だってもちろん大学生のはずだ。それなのにここに、名前と日付がある。
油性マジックで書かれていて、ところどころかすれている。先輩は私と同じように高校の制服を着て、ここにやってきて、これを書き付けていったんだろうか。
想像すると、何だか笑えてきた。馬鹿なことをする人もいるもんだ、と思った。それはきっと、私もだ。
『ショーシャンクの空に』では『我ここにあり』って最初に書いた人は自殺してしまうけれど、この高校で一年前に自殺があったなんて聞いてない。だから先輩は、今もどこかで元気にしているはずだった。
それに『ショーシャンク』では、この言葉を見た人は、自殺しない。できないのだ。
『我ここにあり』
強い風が吹いた。死ぬのは少し待ったらどうだい。先輩が、そう言っているようにも思えた。それは私の妄想だ。けれど勇気を出して、先輩に連絡を取ってみようかな、という気だけは起きていた。
私はカバンからマジックを取り出して、同じ言葉と、名前と、日付を書いた。それから少しの間、この素敵すぎる景色を独り占めしてやろう、と思った。
<了>