【 職業探偵 】
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283 名前: 忍者(dion軍) 投稿日:2007/04/23(月) 00:01:42.72 ID:Q3+2Nmky0
荒田は目の前の女性の来訪に困惑していた。
 彼は探偵である。様々な依頼者が来るので、お客の見かけだけで当惑することは余りない。だが、
今回はそうは行かなかった。女性と荒田は以前付き合っていた。と言うより結婚直前まで進行した中だった。
「久しぶりだ……ですね。今は、井川さん、だっけ?」
 依頼者の女性、井川由里は荒田の困惑を見て取ったか、疲れたような表情の中に若干の笑みを見せた。
「そんなに畏まらなくても良いわ。それともビジネスは別かしら?」
「あ、いや、別にそんなことはないんだが」
 荒田が由里と別れてから五年が経過していた。以前の彼女はもっと快活な女性だったが、今はそのときと比べて
随分大人しくなっていた。
「それより、遊びに来たってわけじゃなさそうだな。仕事の依頼……だろ?」
「フフッ間を保たせるのは、相変わらず下手ね」
 居心地の悪い荒田に対して、由里はこの空気を懐かしさ半分、楽しんでいるようだった。それ自体は荒田も
悪い気はしなかった。
 目下、荒田の懸念は由里が探偵である自分に用事があるという自体そのものである。経験上、人妻の依頼の大半は――
「主人が、浮気をしてるみたいなの」
 夫の素行調査である、外れて欲しい予想ほどよく当たる物だ。
 彼女の夫は医者である。某大学病院の助教授でそれなりに将来を渇望されているらしい。
「最近、いえ、もうずっとね。帰りが遅かったり、帰ってこなかったり。しらない女の人からも電話が――」
 滔々と由里が現状を話すのを、荒田は非常に痛ましい気分で聞いていた。彼女と別れたのは、二人の間が
冷めたわけではなかった。だが由里の両親が強引に彼女の見合いを進めていたうえ、当時荒田は探偵としての仕事が殆どなく
大変困窮した生活を送っていた。
 今から考えれば生活の困窮は由里自身も知っているわけで、駆け落ちでもすれば良かったのかもしれない。だが
見合い相手の職業を知ったとき、必要のない劣等感に苛まれた荒田は自ら彼女に別れを切り出したのだった。
 その時彼女は一目見ただけでは泣いている様に見えなかった。だが、去り際ふと見た彼女の瞳は今にも泣き出しそうだった。
「仕事、請けてくれる?」
 由里の言葉に荒田は引き戻される。右手のタバコ目をやると灰が指に迫っていた。
「まあ、断る理由もないから請けるよ。」
 大雑把な井川氏の行動パターンを教えてもらい、荒田は由里を見送った

284 名前: 忍者(dion軍) 投稿日:2007/04/23(月) 00:02:05.76 ID:Q3+2Nmky0
翌日から早速荒田は行動を起こした。井川氏は神経質な人物なのか、常に周囲を見回し警戒するかのような
仕草を取っていた。あるいはただ小心なだけかも知れないが、とにかく一人身の追尾は骨が折れた。
 二日目にはもうアクションがあった。ある女性と二人でレストランで食事、その後ホテルへ。入るときと出てくるときの
両方をカメラに収めた。次の日には別の女性と再びホテルへ行った。調査の結果二人の女性はいづれも看護士だった。
 調査の間中、荒田は何とも言えない懊悩を抱えていた。自分がかつて愛した女性を裏切る男を日がな一日付け回し、
浮気の証拠を押さえるのは非常に神経をすり減らす作業だ。ホテルからヘラヘラしながら出てくる井川氏を呼びとめ、殴り飛ばすと
言う衝動を必死でこらえた。彼はこんな時に仕事と割り切れない自らの不器用さを呪った。
 調査結果は荒田自身覚えの無い最悪の結果だった。浮気相手は全部で五人、その後の調査で全員が人妻であっただった。
 
 荒田は由里に報告するため彼女を呼び出した。
 報告の間中、彼女は押し黙っていた。荒田もまた、出来るだけ淡々と伝えるように努めた。
 一応全ての報告が終わると、由里は深々とため息をついて片手で顔を覆った。深い落胆はあるものの悲しみの色は見て取れない。
ただ、予想された事態より随分状況は酷かったが。
 暫らくの沈黙の後由里が口を開く。
「やっぱり、離婚したほうがいいのかな?」
「さあ……そっからは、弁護士の仕事だな。俺の出る幕じゃないよ」
 この期に及んで離婚を悩む由里に荒田はもどかしさを感じた。『別れてしまえ』と言えない自分には腹が立った。
「その、離婚に強い弁護士なら伝手があるんだが」
 やっと口を付いて出るのはどうでもよい台詞ばかり、由里が目の前に居なければ奇声を発しているところである。
「……連絡先教えてくれる」
 電話番号を伝えると、彼女は礼を言って事務所を後にした。去り際、荒田は彼女に
「旦那にムカついたりしないのか」
 由里は振り返らず
「悲しくは無いけど、悔しい、かな。あの人を愛しようと努力はしたんだけどね。伝わらなかったかな」
 返答自体は比較的明るく聞こえた。だがタクシーに乗り込む直前、一瞬見えた彼女の瞳は明らかに潤んでいた。

 更に数日後、荒田は由里に紹介した弁護士から由里が離婚を前提に相談に来たこと教えられた。守秘義務の事を口にすると
由里が伝えて欲しいと頼んだそうだ。更に弁護士は別の情報を伝えた。
「あの旦那だがね、一度会ったんだが反省の色ゼロ。面会するなり慰謝料の値段を聞いてきやがった。もう家にも帰ってないみたいだぜ」

285 名前: 忍者(dion軍) 投稿日:2007/04/23(月) 00:04:43.26 ID:Q3+2Nmky0
更に数日後、荒田は由里に紹介した弁護士から由里が離婚を前提に相談に来たこと教えられた。守秘義務の事を口にすると
由里が伝えて欲しいと頼んだそうだ。更に弁護士は別の情報を伝えた。
「あの旦那だがね、一度会ったんだが反省の色ゼロ。面会するなり慰謝料の値段を聞いてきやがった。もう家にも帰ってないみたいだぜ」
 荒田は考えた。もう由里は自分の知っている女性ではない。離婚寸前とはいえ貞淑なる人妻である。自分が深入りすべきではない。
第一自分に何が出来る。諦めろ。忘れろ。だが、去り際のあの表情は、アレはまるで――
 荒田は腹を決めた。
 数週間後、荒田は空港に居た。
 あれから荒田は井川氏の浮気相手の女性の旦那、一人一人にあって、詳細を教えた。無論彼の独断である。
 知り合いの弁護士に伝え聞いたところによると、井川氏はいっせいに五人の相手から慰謝料請求の訴えを起こされた他、
このスキャンダルが原因で左遷されたそうである。
 はっきり言って荒田の行為は探偵としては最悪である。守秘義務を守らなかっただけでなく、本来関係の無い
人物も巻き込んだのだ、しかもこれは彼の独断である。
 結果として又しても独善で動いたことになった。しかも由里の心中はうかがうことは出来ない。
 信用の失墜は早い。この国ではもう仕事を諦めた荒田は今まさに海外へ向かおうとしていた。


286 名前: 忍者(dion軍) 投稿日:2007/04/23(月) 00:05:47.29 ID:Q3+2Nmky0
「また、勝手にやって、一人で行っちゃうの?」
 唐突の声に振り返ると、由里が居た。
「弁護士さんに教えてもらったのよ」
「あのお喋りめ」
 立ち去ろうとする荒田を由里が通せんぼする。
「また、放っていくのね」
「オレとは関わらないほうがいい」
「それが独善だって言うのよ」
 由里はまっすぐに荒田を見据える。荒田は視線を合わせようとしない。
「私も、日本には居づらいのよ。誰かのせいで買わなくてもいい不興も買うしね」
 そう言って彼女は荒田の顔を両手で押さえ
「おねがい、今度は離さないで」
 一瞬、荒田があっけに取られているうちに由里は唇を重ねた。
 離れたのを確認して荒田はボソリと
「オレは不器用だぜ」
 とだけ行った。由里は笑顔で答えた。
「知ってる」
 荒田は由里を優しく、しかしながら強く抱きしめた。二度と離さぬように。       
                                                          終



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