275 名前: 牛(北海道) 投稿日:2007/04/22(日) 23:53:45.62 ID:nykIyiEO0
仕事を前にして、人目に付かない路地裏で一息つく。
―― 一雨、来そうだな。
曇り空は、路地裏をさらなる闇へと追いやっていた。
表通りから聞こえてくるのは、近所に住む学生の声だろうか。
耳を傾けているうちに、いつもの回想にふけってしまう。
学生時代、俺はいわゆる“いじめられっ子”だった。――もっとも、その原因は俺のほうにあったのだが。
ともかく俺はある日を境に、毎日のようにカバンを隠され、靴に画鋲を入れられ、帰り道では石を投げつけられる――
そんな学生生活を送ることになった。
仕事柄こういった路地裏を歩くことは多いのだが、その度に思い出してしまう。
あの凄惨たる日々を。そして学校帰りに、「彼女」と過ごした一瞬のやすらぎを――未練がましく。
「……そろそろ行くか」
煙草の火を消し、古タイヤから腰を上げる。そのとき、背後から懐かしい声がした。
「あれ、もしかして……健ちゃん?」
振り返ると、そこに彼女がいた。あの頃とそう変わらぬ姿で、驚いたように立ちすくんでいた。
彼女とは高一の夏から卒業までの付き合いだった。
出会ったきっかけはささいなこと。彼女が路地裏で野良犬に追われているのを助けてあげたことだ。
その日以来、俺は“専属ボディーガード”として彼女と登下校をともにするようになり、いつしか付き合うようになる。
だが卒業式のあと、こちらから別れを切り出してからは今日まで会うこともなかった。
「久しぶりだねー。元気にしてた?」
「ああ、なんとか生きてるよ」
そう返答すると彼女は安心したような表情を見せた。
その後もしばらくの間、付き合っていた頃の思い出話などに花を咲かせていた。だが、やがて雨が降りはじめた。
彼女は空を見上げ、傘を持たぬ俺に声をかける。
「今、買い物から帰る途中だったんだけど……良かったらうちに来ない? 積もる話もあるし」
「……残念だけど、これからちょっと“仕事”があるんだ」
そういって俺はジャケットの内側に手を伸ばし、銃を取り出した。
「そう……やっぱりまだ続けてたんだ、その仕事」
彼女は複雑そうな面持ちで俺の銃を見つめた。
276 名前: 牛(北海道) 投稿日:2007/04/22(日) 23:54:52.08 ID:nykIyiEO0
今の「組織」に入ったのは高二の夏休み――先輩の誘いを受けてのことだった。
「相手は学生だからといって油断する。そこにつけこめばいくらでも殺れるさ」
金になる、弱者が強者を見返せる、ストレス発散といった誘い文句は確かに魅力的だった。
だが俺は断わることにした。そんな勇気は毛頭なかったし、犯罪に手を染めるつもりもなかった。
しかし組織はそう簡単に見逃してはくれなかった。組織は俺にむりやり銃を持たせ、そして路地裏で襲撃させた。
――失敗すれば殺される。逃げようとしても殺される。
そんな想いが、俺に引き金を引かせた。
撃った相手がどんな相手だったかさえも覚えていない。それほどまでに狼狽していた。
だがあの日、引き金を引いた瞬間、俺の中でたしかに何かが変わったのだろう。
そうでなければ、今ごろ俺は――
彼女はそれ以上、俺についてとやかく言うことはなかった。折りたたみ傘を開いて、ゆっくりと歩き出す。
「それじゃ、雨も降ってきたみたいだしそろそろ行くね」
「ああ……。久々に話せて楽しかったよ」
さようなら――
そう言って俺は、立ち去ろうとする彼女の後頭部に銃口を突きつけた。
雨が強さを増していく。
「……依頼人は誰?」
数秒ののちに彼女は尋ねた。進行方向を見据えたままで、表情をうかがい知ることはできない。
「君の旦那だよ。『愛してくれないなら消えてくれ』だそうだ」
俺は淡々と事実だけを告げた。しかし彼女は振り向きざまに一言、
「確かに、彼のことは愛してないわ。そう、はじめから……」
そう言って「ふふっ」と笑う。この場には似つかわしくない表情だった。
「……緊張感のなさは、昔から変わらないな。いったい何がおかしいっていうんだ?」
俺が問うと、彼女は言った。
「だって――」
その先の一言で、俺は悟った。
278 名前: 牛(北海道) 投稿日:2007/04/22(日) 23:56:11.66 ID:nykIyiEO0
「なあ、聞いたか? 健のコト」
「マジだって! あいつが殺ったっていう目撃証言があるらしいぜ」
「怖い……。明日から学校どうしよう」
どこから情報が漏れたのか。真相はわからない。
うわさがうわさを呼び、学校中が恐怖に包まれた。そして俺は忌み嫌われるようになる。
執拗な嫌がらせ、誹謗、中傷――学校内に俺の居場所はなくなった。
人間を一人手にかけたのだから、当然の報いだろう。だが撃ったのは不可抗力だ。
学校を辞めようかと思った。このまま組織の一員として闇へと消えていくか、それとも命を絶つか。
だが彼女だけはそれを許さなかった。
俺が本当のことを告げても、一緒に石をぶつけられようとも、彼女は気にも留めようとせず、
「路地裏を歩いて帰れば、石をぶつけられずにすむわよ」
そう言って卒業までの毎日、登下校をともにしてくれた。
一度、堪えきれなくなって尋ねてみた。
「何で……何でそうまでしてかばってくれるんだ?」
彼女は「ふふっ」と笑って、そして一言。
「当たり前じゃない。だって――」
279 名前: 牛(北海道) 投稿日:2007/04/22(日) 23:59:09.30 ID:nykIyiEO0
――俺は……何をやっているんだろうか。
「あなたのことが今でも好きだから」――かつてと同様の言葉に、俺は無意識のうちに銃を下ろしていた。
「撃たないの?」
彼女が振り返る。俺はうつむいたまま応える。
「……ああ。どうやら撃てないらしい」
――本当、未練がましいよな……。
こんな感情は、とうに捨ててきたと思っていた。だが彼女に銃を向けられない自分が、今確かに存在していた。
「旦那に伝えといてくれ。『お前が依頼した男は、自分の好きな女も撃てないチキン野郎だった』ってな」
そう苦笑いをしながら言って、俺はもと来た方向へと引き返した。
そしてもう、彼女を振り返ることはなかった。
長い路地を抜けたところで、上司が待ち構えていた。
「……見ていたんですか」
上司は無言でうなずき、そして銃を手にする。
「任務失敗だな」
「はい……。分かってます」
そう言って自分の銃を路上へと捨て、両手を挙げる。
上司は確実に、俺の頭部へと銃口を定めた。
「最後に一つ、聞いてもいいですか?」
「……言ってみろ」
「奥さんのことを、今でも愛していますか」
俺は静かに問いかける。上司はしばしの沈黙のあと、口を開いた。
「当然だ。だからこそ自分では撃てず、お前に任せたんだ」
そういって天を仰ぐ上司の表情を、雨が隠す。
「お前の存在を消すことはいつでも出来ただろう。事実、組織にお前を売ったときもそのつもりだった。
だが彼女はお前から離れようとはしなかった。事実、今も彼女は――」
そこで言葉は切られ、沈黙。そしてゆっくりと引き金が引かれる。