【 昔の彼女に憎まれて 】
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235 名前: 週末都民(愛知県) 投稿日:2007/04/22(日) 23:21:31.62 ID:jTPLlWGT0
「ねえあなた、大丈夫? 気分が悪そうだわ」
 朝食の最中、呆けていた自分の意識が妻の声で戻ってくる。大丈夫だと返し、なんでもないように振る舞いつつ味噌汁を煽る。味がよくわからない。きっと、体調が優れないせいだ。
「ここのところ顔色がよくないもの。病院へ行ったほうがいいんじゃないかしら」
「いや……大丈夫だ。気にしないでくれ」
 心配そうにこちらを覗き込んでくる妻。手に持っていた食器を机に置き、席を立つ。食欲がない。昔大きな風邪をこじらせたときも似たような症状にさいなまれたが、これは違う。小さな嘆息を残して、洗面所へ向う。
 鏡。自分の顔が映っている。血色のない、見るからに不健康そうな顔だ。元々健康的とは言いがたい自分だったが、今の状態よりは幾分かましだったはずだ。
 こんな状態になったのは何故だろう。ふと目を瞑り、思い出す。あれは半年ほど前のことだった。
 左目が、自分を睨んでいることに気が付いたのだ。
 
 過労がたたって、幻覚でも見ているのだろうか。そんなことを考えつつ、今日も同じように電車に乗り、通勤する。家と会社を往復するだけの生活を送る自分、ありえない話ではない。
 自分と同じような境遇の人間たちで満員御礼の電車。人口密度の高い場所が好きというわけではないが、どうしたことか家にいる時よりも落ち着きを感じる。幸運にも、今日は座ることが出来た。
 今の妻とは、両親の紹介による見合いで結婚した。元々女性に縁のない自分だったので、特に深く考えず、言われるままに結婚した。愛情などなく、ただ家にいて、料理を作ってくれる。それが自分の妻への認識だ。
 自分は何のために生きているのだろう。中学生の頃よく感じた疑問を、再び持ち始めた。やりたいことも、守りたいものもない、ただ働くだけの人生。一定のリズムを刻む電車に揺られながら、すっと目を閉じる。
 美香、という女性がいた。背が高く、髪の長いきれいな人だった。大人になり、枯れてしまった今の自分を情けなく感じると、決まって彼女を思い出す。青春とよばれる時代が、自分にもあった。
「なんですか?」
 その時、不意に声を掛けられた。はっとして顔を上げると、自分の目の前に立っている女性が、訝しげな表情でこちらを見下ろしていた。またか、と思う。
「いえ、失礼しました」
 女性はこちらを気味悪そうに一瞥した後、次の停車駅でそそくさと降りていった。その後姿を目で追いながら、左目に手を被せる。
 左目が思うように動かない。先程もおそらく、目を瞑ったつもりが開きっぱなしになっていたのだろう。
 はじめの頃は不気味だったが、回数を重ねるうちに、諦観に似たものを感じるようになっていた。

 美香。昔、自分と一緒に事故に遭い、一人死んだ元彼女。美香の角膜が今、自分の左目の中にある。

236 名前: 週末都民(愛知県) 投稿日:2007/04/22(日) 23:22:06.81 ID:jTPLlWGT0
「お帰りなさい、あなた」
 玄関まで出迎えてくれた妻に鞄を渡し、ネクタイを緩めながら洗面所に向った。左目がつりあがり、あらぬ方向を睨んでいる。無理矢理手で押さえつけると、左目は手の中でおとなしくなった。
 彼女に恨まれているのだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎり、洗面台の縁に手をついてうなだれる。左目が、再び暴れ出す。
「なにをしているの? お風呂なら沸いてますよ」
 様子を見にきたらしい妻が、代えの服を胸に洗面所に入ってきた。つりあがる左目を隠し、すぐに戻るよと返す。
 私は死んだのに。そんな彼女の恨みが、聞こえるようだった。

 佐藤美香と出会ったのは、大学受験を備えて入った予備校でのことだった。同じ高校の人ですよね、と彼女に話し掛けられたのが、馴れ初めだ。
 彼女はきれいな女性だった。背が高く、長い黒髪がよく映える白い肌をしていて、立っているだけで際立って見えた。
 きっかけは些細なものだったが、それ以降、彼女と時間を共にすることが多くなった。頭のいい彼女に質問をするという名目で、よく二人して居残って、勉強したことを覚えている。
 彼女のことが好きなのかもしれない。そう思い始めた矢先に、彼女に告白された。卒業式の後のことだった。好きです、と顔を赤らめる美香は、とても可愛らしかった。そして交際が始まり、終った。死別だ。

「あなた?」
 妻に呼びかけられ、リビングへ向う。ダイニングテーブルにむかい、自分を待っていた妻に謝ってから椅子を引く。テーブルの上には、自分のために作ったのだろう、味付けの薄い健康的な料理が並んでいた。
 今の妻には感謝している。気立てもよく、上品で、自分のことをよく見、考えてくれている。仕事しか能のない自分だから、離婚を突きつけられても致し方がないと思っていたが、彼女は何一つ、文句を言わないでくれている。
 しかし。しかしそれでもやはり、彼女を愛する気にはなれないのだ。自分の中には未だ佐藤美香がいる。彼女のことを、今でも気にかけているのだ。
「目、どうかしたんですか?」
 慌てて左目をおさえる。ぎょろぎょろとせわしなく手の中で暴れる目。彼女といる時、そのうごめきは一層激しさを増す。果たして自分への怒りか、それとも。
「どうやらものもらいのようだ。気にするほどのことじゃない」
 そうですか、と彼女は別段気にしたふうもなく、サラダのボールに手を伸ばした。しばらく抑え続けていると左目は一応の落ち着きを取り戻し、自分の制御下に戻ってきた。ふ、と嘆息する。
 自分は佐藤美香を愛していた。にもかかわらず結婚し、彼女とは違う女性と暮らしている。親のためとはいえ、これを裏切りと言わずしてなんと言おう。申し訳ないと思いつつも、謝る手立てが見つからない。
 それにしても。何故今更になって、彼女は――左目は、動き出したのだろう。今の妻と結婚して、結構な時間が経つ。不可解に思いながら、スープに手を伸ばした。
 

237 名前: 週末都民(愛知県) 投稿日:2007/04/22(日) 23:23:07.43 ID:jTPLlWGT0
「実は、一目惚れだったんだ。運命論者ってわけじゃないんだけれどね」
 手をつなぎ、月明かりに照らされた夜の道を歩く。冬の澄んだ空気によく通る青白い光を受けた美香が、照れくさそうにこう言った。彼女の生前、デートの帰り道でのことだった。
「でも、今こうして君が隣にいる。これって凄いことじゃない? 大好きだと思った相手が自分のことを好きでいてくれた。周りにはたくさん、他に人がいるのにだよ」
 見上げることも見下げることもなく、同じ位置にある美香のきれいな顔。物静かな美香が饒舌になるのは、珍しい事だった。
「私と君が、同じ国にいて、県にいて。同じ学校にいて、予備校にいて……出会った。だからきっと、これは運命なんだよ。幸せになりなさいって、神様が相手を用意してくれたんだ。……ちょっと恥ずかしいね」
 はにかむ美香。口下手な自分には表現しようのない幸せを感じて、せめてと握られた手に力を込める。肩を寄り添わせ、寒い道を二人して歩く。一緒なら暖かい。自分には、恥ずかしくて言葉に出来ないが。
「ずっと二人で」
 彼女が死んだのは、その直後のことだった。

「あなた、今日ってたしか、佐藤さんの命日じゃなかったかしら」
 起き抜けに妻に言われ、自分がそのことを忘れていたことに気付いた。あいまいな返答を返し、洗面所に向う。左目が心なしか腫れ、赤く充血していた。
「そういえばあなた、たしか左目にその佐藤さんの角膜、移植したのよね? 最近なんだか調子悪いみたいだけど、それのせいなんじゃないのかしら?」
「……すぐに行くから、朝食の準備をしておいてくれ」
 肩をすくめて、妻が台所に戻っていった。果たしてそうなのではと思ってはいたが、実際に他人に指摘されると不快感を覚えた。ただの病気だとは言いがたい状況が、彼女の影をちらつかせる。
 しかし。彼女のことを好きと言いながら、命日を忘れるとは。もしやそのせいで彼女は怒っていたのではと考え、鏡を振り返ると彼女は息を潜めていた。充血が引かない。気分が悪い。吐きそうだ。
「お墓参りには行かなくてもいいんですか?」
 今日は日曜日だ。少し遅めの朝食を口に運んでいると、妻が洗濯物を干しながらそう言った。味の薄い味噌汁を啜ってから、そうだねと返す。口がまずい。
「一緒に行きましょう。私もお礼を言わなくちゃいけませんし」
 妻を彼女の墓に連れて行くのは如何なものだろう。そう考えるも、妻の善意に気が引け言い出すことが出来なかった。結局そのまま連れ立っていくことになり、昼前にはということですぐに家を出た。
「あなたを庇って亡くなったんでしたよね? ……やっぱり、その人にはかなわないんでしょうかね」
 車を運転しながら妻の独り言を聞き流す。サングラスの下で、左目が再び暴れ始めた。

238 名前: 週末都民(愛知県) 投稿日:2007/04/22(日) 23:23:47.60 ID:jTPLlWGT0
 零案の奥まった場所、桜の下に彼女の墓はひっそりと建てられている。花も葉もない桜はどこか物悲しく、灰色の空が伴って不気味さすら感じさせた。
 既に親族が来たのだろう、墓には豪勢な花が飾られ、きれいに洗い流されていた。持参した花は、片隅に置いておくことにした。
 最後に来たのはいつだっただろうか。確か、ちょうど一年前だったように思う。だんだんとここへ来る頻度も少なくなり、今となっては命日にしかこない。その命日も、忘れていた。申し訳がつかない。
「昔の写真を以前見たんですが、きれいな方でしたね」
 妻が手を合わせながら言う。返答はせず、ぼうっと墓石をただ眺める。佐藤家と彫られた墓石。彼女は、自分を庇って死んだ。
 結露した道路にタイヤを取られ、スリップした車は歩道を歩いていた自分たちに突っ込んできた。一瞬早く気付いた彼女は自分を突き飛ばし、それでも二人揃って跳ねられた。
 その場で気を失った自分が次に目を覚ましたのは、全てが終った後だった。治療が施され、傷ついた左目に美香の角膜が移され、そして彼女は死んでいた。
 彼女は車に跳ねられても、意識を失わなかったらしい。自分の左目の損傷を見て、私の目をと救急隊員に進言し、それからしばらくして事切れた。全ては、聞いた話だ。
「今でも好きなんでしょう」
 一緒になって黙り込んでいた妻が、唐突に言い出した。顔を向けると、心なしか悲しそうな妻の顔があった。
「私では、代わりにはなれませんか?」
 妻の目からふと、雫がこぼれた。泣いているのか、とぼんやり思う。コートのすそを握る妻の手が、とても白く見えた。
 妻は虚しかっただろうなと思う。自分が愛されていないということに、薄々感づいていただろう。でも、と思う。それでも美香が忘れられない。それなのに、美香を忘れる。自分は優柔不断な人間だ。
「すまない」
 いたたまれなくなって妻を抱く。美香と違い、小柄な彼女は自分の胸におさまった。妻は自分の背中に腕を回し、抱きしめ返してくる。
 そのときだった。ぴしりと頭に電流が走ったように思うと、すうっと意識が体から抜けていく感覚を覚えた。視界がホワイトアウトしていく。何事かと、しびれた頭に思う。左目が、痛い。
 体が動かなくなって、自分はその場で崩れ落ちるように倒れ伏した。妻の慌てた声が聞こえる。死ぬんだな、という、妙な確信があった。
「ど……く……」
 左目からの痛みが口元に走り、自分の意思に反して口が言葉を紡いだ。妻の声が遠い。なんのことだと思う前に、もはや自分の制御下にない左目が開いた。
 視界に入ったのは、妻の悪辣な笑顔だった。
「ごめ……ん……ね」
 それだけを言い残すと、痛みは――美香は自分の体から消えていった。毒。ごめんね。美香の言葉。
 ああ。白く染まってゆく思考の中で、理解が及ぶ。彼女は死してなお、自分を助けようとしていたのだ。いや、一度助け、二度までも。わかっていなかったのは自分の方だった。美香は全て、知っていたのだ。
 ずっと一緒に。彼女は自分の左目となって、自分と共にいた。彼女は今でも、自分を愛してくれている。わだかまりが溶けていく。
 不思議と怒りはなかった。妻がどのような思惑で自分を殺したのかは知らないが、妻に殺されるより前――あの事故の日、とっくに自分は死んでいたのだ。彼女と共に。
 ふっ、と笑みがこぼれる。すぐ傍に墓がある。美香のすぐ傍で死ねる。あの日の再現。美香に謝りに行くのだ。信じてやれなかったこと。そして今度こそ、完全な形で約束を果たすのだ。
 そう、今度こそ――ずっと一緒に。これも、運命だ。



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