【 陽炎の向こう 】
◆kjqkxpq.ho




183 名前: 船長(神奈川県) 投稿日:2007/04/22(日) 21:39:57.96 ID:HNI89l390
夏休みのある日。
「私達……しばらく会わない方がいいと思うんだ」
そう綾乃が切り出した時、俺はどんな顔をしていたのだろう。
きっと、ひどく情けなかったに違いない。フラレて格好良い顔ができるほど俺は大人じゃなかった。

「何で?俺のこと嫌いになった?」
冷静に聞こえるよう必死に取り繕って、綾乃に尋ねる。
綾乃は言葉に迷うような表情をし、ちょっと俊巡してから、言った。
「嫌い、というかね?今の真を見るの、辛いんだよ。真、このごろずっとタイム
よくないじゃん。それ見てるとすごく辛くなる。だってそれ、私のせいだから」
予想外のことを言われて、俺はしばらく呆気にとられた。
タイム、って……
それがどう綾乃に関係あるんだろう。
確かに昨日の記録会の800mはひどかった。
入りの400はいつもより大分抑えてしまったし、しかもそのあとのスパートもかけられずにゴールしてしまった。
ベストなんてでるはずもなく、顧問の平野にも呼び出されてこってり絞られた。俺は上の空だったが。
俺は、明日のデートのことばかり考えていたのだ。
そこまで思い出して、俺は思い至った。そしてまた疑問を口にした。
「なんでだよ?いいじゃん、俺がそうしたいんだからさ。別に綾乃のせいじゃない。
俺は走ってる時より綾乃といる方が楽しいんだ。だから」
「だからだよ」
綾乃は少し声を強めた。俺はその芯の強い目を見て、焦りと、そして怒りが込みあげてきた。
「だから、ってさ。俺がいいって言ってんだから気にすんなよ。大体、走りもしないくせにタイム落ちた理由なんか分かるわけないだろ。スランプかもしれないし、
怪我かもしれない。その日その日のモチベーションによっても変わってくるし。あ、それにほら俺オスグッドじゃん?原因はそれかもな。整形外科いかないと」
最初の方は怒りで不満垂れながしで、最後は言い訳染みている。
我ながら格好悪いな、と思う。
さすがに呆れたかと綾乃を見ると、目にはさっきのような強さはなく、すごく悲しい顔をしていた。目になんか光ってるし。


184 名前: 船長(神奈川県) 投稿日:2007/04/22(日) 21:40:46.54 ID:HNI89l390
俺は、これはヤバイな、と思い始めていた。
「ひどい…私だって陸上部だよ?選手がどうすれば速くなるのか、必死に考えてるんだよ?走らなくても、ううん、走らないこそ、必死に。
それに真、このごろオスグッドが治ったみたいって、私に言ったばっかりじゃん」
そして、最後に言い放った。
「嘘つき」
綾乃は俺に背を向けた。そして止める間もなく、走りさっていく。
俺は頭が言い訳でパンパンになっていて、小さくなるその2つに結った髪が揺れるのを見ながら、案外走るの早いな、などと、見当ちがいのことを思っていた。

そんなわけで俺は、江ノ島に架る弁天橋の上に一人取り残された。
今日この場所を選んだのは、綾乃だ。
江ノ島なんて、地元の人間にとって別に特別な場所ではない。むしろ物価は高いし、海があるだけで退屈な所だ。そりゃあ、一回くる分には楽しいかもしれないが。
だが昔、彩乃と最初にここに来た時は、何回も訪れたはずなのに妙にテンションがあがり、はしゃいだ。それは綾乃も同じだった。
そしてその帰り勢いで、人の目も憚らず。
この橋の上でキスをした。
なるほど、皮肉めいている。もし狙ってやっていたらなかなかいい性格だ。

さて、俺も帰るか。
帰りは小田急にしようか、江ノ電にしようか。
もう日が暮れるというのに、橋の上にはまだ人がけっこういた。いや、暮れるからこそか。
橋の上から見る夕日は、何回見ても綺麗だった。

帰りの電車の中でも、俺は周りにきわめて冷静に見られるよう努めた。でも、そう見られてる自信はない。

家について少し冷静になり、綾乃に電話しようかどうか迷ったが、明日部活で直接話した方がいいと思ったし、なんだか無性に疲れたので、風呂に入り、早々に寝た。
しかし次の日、綾乃は部活にこなかった。


185 名前: 船長(神奈川県) 投稿日:2007/04/22(日) 21:42:14.50 ID:HNI89l390
「中長距離は400のインターバルを10本。大会が近いから、レースペースを意識して走れ」
と、平野が今日のメニューを告げた時も、俺は上の空だった。
綾乃……どうしたんだろう。
風邪か。それとも別の理由か。
そんなことを考えながらストレッチをしていると、いきなり背中をつつかれた。
後ろをむくと、2年の桐山先輩が俺の後ろで長座体前屈をしていた。うわ、さすがハードラー。体やわらかい。
「向井、お前のカノジョ、今日どうした?」
「俺もそれ、考えてました」
俺は大殿筋を伸ばしながら答えた。イテテ、最近真面目にストレッチしてなかったから辛いな。
ちなみに俺と綾乃が付き合ってるのは陸上部のやつら全員が知っていた。だから俺や綾乃が休んだら、もう片方に理由を聞くというわけだ。
「そうか、お前が知らないか。今日はマネージャーいないとけっこう困るんだよなー。短距離も長距離もタイム計からなきゃ
ならんし。まあ自計でどうにかならないわけでもないけど」
「……すいません」
「なんでお前が謝るんだよ。風邪かもしれないし。あ、もしかしてなんかあったん?お前ら」
う〜む……やっぱり俺のせいだよな、これは。いきなり風邪を引くこともあるにはあるが、綾乃は高校入ってから風邪を引いたことが
なかったはずだ。元来元気なやつだし。
「そうかも……しれません」
俺が暗い顔で答えると、桐山先輩は俺の背中を叩いた。
「だーいじょうぶだって。何があったか知らないけどさ、たまには喧嘩したほうがいいんだよ。それでまた縒りをもどせば、仲が深まるんじゃねえの?」
「そーゆーもんすか」
「そーゆーもんだって」
桐山先輩、あなた彼女できたことあるんすか?という質問を口に出さぬまま、俺は黙々とストレッチを続けた。
走ってて思う。綾乃は偉大だ。
6本目を終えてジョグしてる時、俺はしみじみ思った。綾乃の声は聞き取りやすいし、張りがあるし、頑張ろう、という気持ちに
なる。自分でウォッチを持って走るのとでは、走りやすさが雲泥の差だ。
うん、そうか。俺は昨日、あいつの気持ちを踏みにじったんだな、と今更ながら確認する。
「9本目いきまーす。よーい、スタート!」後輩が横で手を振り下げるのと同時に、俺はなるべく体勢を低くとりながら地面をけった。
うちの学校は私立で、タータン(あのテレビでよく見る赤いやつ)ではないがなかなか立派な400mトラックを有していた。
だから、毎年良い選手を輩出したりしていて、関東大会にも常連だった。俺はあとちょっとのところで県止まりだったが。
再来週の大会も地区大会を勝ち抜いたやつが出る県大会で、俺も800mで出場する。だが、この前のタイムでは上は望めなかった。

186 名前: 船長(神奈川県) 投稿日:2007/04/22(日) 21:43:17.43 ID:HNI89l390
200m地点を過ぎた。
初心にもどろう。思えば陸上やってなかったら、綾乃にも出会えなかった。関東にもしもいけたら、全部、綾乃のお陰だって言おう。
いや、その前に会って謝らないとな。
俺は最後の100mを、およそレースペースとは思えない速さで疾走した。
ゴールしてから、平野に怒鳴られた。まあ、当たり前だ。あんな速さで走って肉離れでもしたら大会に響く。というか出られない。
しかし俺はそれを無視して、10本目も飛ばしに飛ばした。そういう気分だったんだから仕方が無い。自分を責めるエネルギーを、スピードに変えた。

練習を終えた俺は、いつもは乗らない藤沢行きの江ノ電に乗った。綾乃の家は横浜市内にあるので、藤沢からJRに乗ることになるからだ。

藤沢に着き、手土産の一つでも持っていかなきゃな、と思い、デパートに入った。ケーキを買おうと思ったのだ。
某有名ケーキチェーン店でケーキを買い、なんか他にも買っていこうかな、と思ってショウケースに並べられたお菓子を見てる時、聞きなれた声が聞こえてきた。
俺は声の主に気づかれぬよう、慌てて物陰に隠れた。
「なるほど。それは向井が悪いな。マネージャーあっての選手なのに」
「真は才能あるんだから、もっと陸上に真剣になって欲しいんです……だから、お互い少し離れたほうがいいと思ったんです。そしたら……あんなこと言われて」
「恋は人を怠惰にするってことかな。ま、向井には俺から色々言っとくよ。……向井、今日くらーい顔してたぜ?こんなん」
桐山先輩は誰が見ても沈んでいると分かるくらーい顔をした。それを見て綾乃はくすっと笑う。
「先輩、似てますそれ。真が落ち込んだときにそっくり」
「やっと笑ったな、遠藤。ま、俺でよければこれからも相談に乗るぜ?あ、真とホントに別れたら俺のとこ来いよ?歓迎するから」
「あはは、考えときます」
そして、二人は何やら雑談しながら喫茶店へと消えていった。
なんだか、自分がひどく惨めに思えた。本当は、あそこにいるべきなのは先輩じゃなく俺なのに。俺はコソコソ、隠れたりなんかしている。
今の会話で、大体状況はわかった。先輩も、綾乃も悪くない。悪いのは俺だ。だからこんなところにいる。
ちくしょう、駄目だ。何を考えてもダメだ。悪い方向に行ってしまう。あの二人が付き合い出したらきっとお似合いだろう、なんてことを考えちまう。
今日は、帰ろう。俺は今、さっきの先輩のような顔をしているのだろうか。そう思ったが、全然笑えなかった。

187 名前: 船長(神奈川県) 投稿日:2007/04/22(日) 21:44:49.40 ID:HNI89l390
それから俺は大会までの短い日数、自分を苛め抜いた。インターバルもいつもより速いペース設定をしたし、レペテーション(全力ではしる)のタイムも良かった。
平野にも、「向井、お前最近いいな。この分だとベスト狙えるぞ」と言われた。
休んだ次の日から、綾乃は部活に出るようになった。しかし、俺は一度も話していない。話す資格がないと思ったから、話しかけていない。
対照的に、桐山先輩と綾乃はいつも一緒にいた。というか、先輩が綾乃に話しかけているんだと思う。おれは、そんな二人を直視できるはずがなかった。
このままでは練習に集中できないから、俺は考え方を変えた。綾乃は、まだ誰とも付き合っていない。だから、まだ俺は終わっていない。
終わってないと同時に、始まってすらいない。また彼女にすればいいだけの話だ。馬鹿な考えだが、桐山さんといても別に辛くはなくなった。
対抗心は生まれたが。種目は違うけど。
そんな日々が二週間、続いた。

大会当日。場所は小田原の城山。
俺はサブ・トラックでアップをしていた。800の予選まで、あと1時間を切っていた。夏の暑い日ざしが、ヒリヒリと首筋を刺激する。
他の選手にもちらほらいるが、俺はこの暑いのに上下ともジャージを纏っていた。俺の場合、体が暖まるのが早くなるから、という理由だ。
10分間ジョグをし、ストレッチをし、深呼吸をした。深呼吸したら、精神が落ち着くんだそうだ。これは、桐山先輩が教えてくれた。
深呼吸をしていると、背中をいきなりつつかれた。桐山先輩か?
しかし、そこにあった顔は綾乃だった。うわ、今一番会いたくないのに。
綾乃はしばらくもじもじしていたが、俺が困っているのを察したのか、当たり障りのないことを聞いてきた。
「調子はどう?」
俺はまた前を向き、綾乃の顔を見ないようにした。
「まあまあ。悪くはない」
「決勝、いけそう?」
「わからないけど、絶対いく。この二週間を無駄にしないために」
「そっか。真、このごろすごい頑張ってたもんね。結果オーライ、かな」
俺があの日枕を濡らしたのを知っても結果オーライと言えるか?などとはもちろん言えなかった。今は集中しろ。熱くなるな。
もしかして、桐山先輩が綾乃をここによこしたのではないか。そして戦意喪失をねらうという……いかん、なんだか疑心暗鬼だ。深呼吸しよう。
すー。
「私ね、桐山先輩に色々相談したの。真のこととか、マネージャーの仕事のこととか」
はー。
「そしたらすごく親身になって相談に乗ってくれて、ああ、桐山先輩がいてくれて良かった、って思ったの」


188 名前: 船長(神奈川県) 投稿日:2007/04/22(日) 21:45:43.79 ID:HNI89l390
すー。
「それでね、私、気づいたら……桐山先輩といる時、すっごくほっとする自分に気づいたの。だからね、わたし、わたし……」

ふぅ。
最後はため息になっていた。
「綾乃」
俺は、そこで初めて後ろに振り返った。久しぶりに見る綾乃は半べそをかいていても可愛くて、俺は早くも顔を取り繕うのが苦しくなった。
「タイム、読んでくれるか?」
「……え?」
「ゴールでタイム、読んでくれるか?綾乃に読んでもらうと、すごくレースに集中できるんだ。……それとも、イヤか?」
綾乃の目にはますます涙が溜まっていったが、無理やり笑って、俺に言った。
「……あたりまえじゃん。イヤなんていったら、マネージャー失格だよ」
「そっか。じゃあ、頼むな。俺はもう少し走るわ」
俺はその場にいるのに耐えられなくなり、アップというには速すぎるスピードでトラックを一周した。
一周したら、もうそこに綾乃がいなくなってることを願いながら。

ファンファーレが鳴り響く。もうすぐスタートだ。
それにしても、この無駄に緊張感を煽るような効果音はやめてもらいたい。それでなくても心臓が破裂しそうなんだから。
もう俺の頭の中にはレースのことしかなかった。綾乃も、桐山先輩もいない。俺だけの世界。
「位置について」
俺は一礼し、スタート位置についた。このとき、辺りは静寂に包まれる。俺はこの時間がいつも嫌いだったが、今はなぜか心地よかった。
「よーい」
姿勢を思い切り低くする。800mはスタンディングスタートだから、スタートの構えは選手によってそれぞれ違う。俺は左足を前にするタイプだ。
「パァン!」
雷管がなると同時に、俺は右足に渾身の力を込めた。

短いようで長い、そのスタートが今、切って落とされた。                    完



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