【 花、紅 】
◆PUPPETp/a.




133 名前: 空軍(山形県) 投稿日:2007/04/21(土) 17:16:59.53 ID:TOpxZAhr0
 時は江戸末期。
 太平の世と謳われしも、隠せぬ退廃の空気が流れていた。
 そんな世にも働く者は働く。
 新吉原の遊郭、甲乃屋に一人の太夫がいた。その名は朝霧太夫という。
 その太夫は珍しい客を相対していた。それは巷では名高い人形師であるという。人形師は白月と名乗った。
「……それで、あなたさまはわたしの人形を作りたいとお言いなんすのか?」
 花の顔には厳しい表情は伺えない。長年、男をあしらってきた貫禄とも取れる余裕の表情である。
 お香が立ち込めるその部屋で二人は差し向かいに座す。
 男の顔もまた、当代一と謳われる太夫を前にして呑まれている様子はない。ただ為すべきことを為そうと答えを返す。
「そうです。当代の吉原一と謳われる朝霧太夫の姿をぜひ」
「当代一と謳われるのはあなたさまでありんしょう。人形師、白月の評判は以前から聞いてありんす」
 双方とも相手の顔を見る。しかしそれは駆け引きというもの。表情からは何も伺えなかった。
 男は静かな表情で口を開く。
「それでは承知か?」
「わたしが何をするか、教えてくださってからでありんす」
 自らの体を売る商売とはいえ、意地と張りを持って臨む。それは花魁と言われる女性の誇りである。
「見せてくれればいい、そなたを」
 その言葉に太夫は軽く目を伏せる。
「見せるだけでありんすか? 触れもせずに?」
 男は頷きを持って返す。ただ真摯に。
「では条件がありんす」
 太夫は承知する代わりに一つの条件を課す。それこそが花魁の意地であった。
「七日間。ただ七日間、わたしのところに通っておくんなし。あなたさまのお心のままにお見せしんす」
 男は言葉もなく、それを受ける。
「ただしその七日の間、あなたさまがわたしに指一本触れたり、一日でも来られなかった日がありんしたら人形に
なるのは嫌でありんす」
「……承知した」
 男はその条件を飲み、太夫は依頼を請け負った。
「それでは明日より七日、三本線香の間だけ、わたしとあなたさまは恋仲でありんす」
 太夫はここに来て、初めて口元に笑みを形作る。

134 名前: 空軍(山形県) 投稿日:2007/04/21(土) 17:17:21.28 ID:TOpxZAhr0
「おい、甲乃屋の朝霧太夫の人形を作ろうってのは『あの』白月か?」
「あいつは三津屋が後ろ盾についてる奴じゃねえか」
「三津屋と言やあ、東条候とつながりがあるじゃないか」
「東条候だって? 前にお忍びで登楼した時に朝霧太夫にすげなく振られちまった殿様じゃねえか」
「意趣返しに何か企んでるんじゃないか?」
「そんなこと、太夫ははなっから承知の上よ」
 人の口に戸は立てられぬ。新造、禿、花町の住人の間に噂は広まっていく。


 時代は過ぎ、明治の世。
 文明開化の呼び声高く、西欧文化が流入し、時代が変動していく。
 一人の少年が老人形師の元へと依頼を持ってきた。
 古物商を営む祖父の手伝いとして、言づけを持って依頼に来たのだ。
 二人の間には一つの人形が収まっている。それはを花魁の見事な人形である。
 しかし、その花魁の人形には決定的なものが足りなかった。
 目、である。
 まさに点睛を欠いていた。
「私は人形の修繕を請け負うしがない人形師。こういった依頼ならば、もっと腕のいい人形師をご存知でしょう?」
 男は少年の顔を見る。
 その左の目は刀傷とも思える古い傷跡が残り、閉じられたままであった。
 顔を走る皺に埋もれることもなく、縦に走る傷跡は痛々しくもある。
 人形師の残る右の目で見据えられた少年は引かず「あなたでないと困ります」と告げた。
 なぜ、と問う人形師に「わたしには分かりかねます。祖父からの言いつけですので」と答える。
 ならば持ち帰って店主へ伝えてほしい、と言っても頑として帰ろうとしない。
 人形師は最後折れて、人形を手元に預かることとなった。少年は「ありがとうございます」と一礼すると帰っていく。
 人形を手に持ち、人形師は沈痛な面持ちで「なぜ……」と口から言葉を漏らす。しかし人形が答えることはなかった。
 老いと共に震える指先で筆をつまみ、その目に筆を入れる。
 まさしく命を吹き込む。そんな行為だ。
 慎重に瞳を入れ、筆を置く。老人形師の目の前には件の朝霧太夫が顔を上げ、人形師を見つめている。
 老人形師の記憶に残る姿そのものの太夫は語りかけてきた。「なぜあの夜、七日目の夜来なかったのでありんすか」と。

135 名前: 空軍(山形県) 投稿日:2007/04/21(土) 17:17:42.02 ID:TOpxZAhr0
「なぜ? その答えを知っているはずだ。なぜこの左の目に傷を負ったのか」
 男は手で自身の左目を軽くなぜる。間もなく手で隠された顔が再び現れた。太夫と出合ったその時の、
若かりし頃の顔である。
 太夫は驚きの表情を浮かべた。しかしそれは若返った男へのそれではなく、なぜそれを知っているのかという
驚きの表情であった。
「私はその晩、店に向かった。目を傷つけた数人の男の中に太夫、そなたの店の者がいたではないか」
 そう言うと左の目に大きく傷跡が開いていく。傷つける者などいないはずのこの場所でたった今切りつけられたかのように
生々しく血が垂れた。
 二人の間には重く、のしかかるような時間が流れていた。
 二人が座るその部屋は、汚れた作業場ではなくなっていた。伽羅の匂いが立ち込める、二人だけのあの濃密な部屋へと
変わっている。
「……わたしの新造と禿がやらせたことでありんす」
「そなたがやらせたのではないのか」
 その言葉に太夫は軽く首を振る。
「いいえ、知っていて止めんせんした。同じことでありんす」
 男は口を開かない。うつむく太夫の顔が口を挟むことを許さなかった。
「私が禿に苦しいなどと打ち明けさえしなければ……」
 太夫は目を閉じた。その両の目から玉のような涙がこぼれる。
「私は一日ごとにあなたに見られるのが苦しゅうなりんした。初めは三津屋や東条候への意地がありんした。
いいえ、七日もあれば必ず落ちると思いんした」
 梅の花をあしらった着物の胸に手を置く。まるで張り裂ける鼓動をそれで押さえるかのように。
「――でもあなたさまの目が、花魁の意地と張りなどどこぞへやっておしまいになりんした」
 濡れた視線が人形師の目とぶつかる。
 昔と同じ。何もかも見透かすようなその目は、太夫が隠していた自分自身を知られてしまうのではないかと思ったのだ。
「あの目にはおまえはどう写っているのか。創られた美しさをどう感じているのか。しょせん金で買われる女ではないか」
 その目を通して自分自身がそう問いかけてくるのだ、と。
「急に恐ろしゅうなりんした。出来上がる人形を見るのがとても恐ろしゅうなりんした」
 うなだれ、流れる涙は留まることを知らない。
 人形師はそんな太夫に近づき、暖かく大切なもののようにその顔を見つめる。
「美しいままであったよ」

136 名前: 空軍(山形県) 投稿日:2007/04/21(土) 17:18:11.81 ID:TOpxZAhr0
 左の目は赤い生命の源とも言える血を流す。残す右の目は太夫をただ静かに見つめていた。
「その美しさは本当であると思ったからそなたを作ったのだ」
 流れる血は男が着る着物の袂を赤く染めていく。
 しかし見えない左の目と見える右の目はそらさぬままである。
「……ただ私は七日通うという約束が果たせなかった。いや、心の中ではそなたに触れぬという約束も守れなかった」
「あなたさま……」と太夫は言葉を漏らす。その表情は隠し切れない嬉しさが混ぜられていた。
「うれしゅうありんす」
 人形師は微笑みを浮かべ、その言葉を受ける。しかし太夫の行動は考え付かぬことであった。
 太夫は懐から小刀を取り出すと、自らの小指へとあてがう。
 勢い、男が止める間もなくその小刀は小指を切り裂く。力を込めて。心を込めて。
 太夫は流れる血にかまわず、懐紙を取り出すと、その懐紙に包まれた小指を人形師へと差し出した。
「この身をお作りになったのがあなたさまの心ならば、これが私の心でありんす」
 痛みに顔をしかめながらも、その痛みとはちがう涙を流す。
「手練ではありんせん。生涯かけての真の心でありんす」
 人形師はそう言った太夫の肩に手をかけ、そして包み込む。

 人形師はそこで目を覚ます。
 若かりし頃の姿は消えうせ、皺の一本一本が年輪のように刻まれた老人形師の顔があった。
 自分の作業場におり、太夫の姿は人形である。
 しかし確かにあったはずの、その小指は一本欠けていた。

 後日、人形は古物商の元へと帰ってきた。
 古物商の扉が音を立てて開く。
 品のよい着物姿の老婦人は、修理が終わった旨を聞き受け取りに古物商の元へと来たのである。
 点睛を依頼した老婦人は、しかし欠けた指に気づいた。
 老婦人に修繕をした老人形師の住所を教えると、何か思い詰めたような顔をする。
 それもつかの間、礼金を払い店を後にする。
 自らの足りない小指を隠さぬままに。

 終幕



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