【 悪魔の代償 】
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394 名前: お猿さん(東京都) 投稿日:2007/04/15(日) 21:52:17.30 ID:42Nki0gm0
「こんばんは」
 そう言いながら黒い服を身に纏った少女は僅かに身を屈ませた。
 何処か人間離れした妖艶な空気を漂わせながら、少女はゆっくりと噛み締めるように言葉を発する。
「こんばんは、中尾昌弘」
 本名を言い当てられた少年は、刹那の逡巡を見せる。
 少年が纏っているのが学生服であることから、彼が学徒であることが察せられる。
 下校中、何かに引き寄せられるように、この細く薄暗い路地裏へと少年は引き寄せられた。
 伏せていた顔を前方へと持ち上げる。
 直感的に眼前の少女が人ではないと分かった。それは少年の常識の範疇を超えてはいたが、人としての何かがコレは違うモノだと知らせていた。反射的に目を逸らしてしまう。
 少年は、ここ数年、癖になっている動作を行った。
 緊張で汗ばんだ手の平をじっと見つめる。心臓の鼓動の高鳴りがゆっくりと収まっていく。
 スゥと息を吸うと、意を決し向き直り、言葉を放った。



395 名前: お猿さん(東京都) 投稿日:2007/04/15(日) 21:52:43.35 ID:42Nki0gm0
「おはよう理緒」
「んっ……、なんだ昌弘か」
「なんだ、かよ。挨拶くらいして欲しいもんだ」
「……ごめん」
 朝日が窓から差し込む教室で、いつも通りの兼ね合いをしようとした昌弘は、些か拍子抜けしたかの表情を見せる。
 普段であれば『文句あるのっ!?』なんて言葉で返してくる理尾であったが、今日は調子が悪いようだ。
 何度、昌弘が話しかけても上の空で、考え込むように目線を伏せる。少し顔色が優れないようにも見える。
 昌弘と理緒は所謂幼馴染という間柄だった。中学生にしてはやや幼い顔立ちながら、竹を割ったような性格と積極性で、いつも昌弘をリードしていく理緒にしては珍しく覇気がない。
 退屈な授業風景が流れ、放課後。ざわめきの残滓がここそこに残る教室。
「調子悪いのか?」
「ん? や、そうでもないんだけどね」
 言って、また沈黙。なんとも言えない時間が流れ、やがて、理緒が口が開いた。
「昌弘はさ……過去が変えられるとしたらどうする?」
「どういうこと? そりゃ変えるに決まってるじゃん」
「……そのためになら、何でもできる?」
 反射的に軽口で答えようと口を開きかけた昌弘だったが、理緒の真剣な表情を見て思い直した。
 変えられる過去を思い描いた時、昌弘の頭には一年前の出来事を浮かぶ。理緒も、それは同じはずだった。
 一年前、理緒の母が交通事故にあった。幼馴染の母親としてだけではなく、やんちゃ盛りだった子供の頃の昌弘の肩を持ってくれたりと、とても話の分かる人で、昌弘にとって第二の母のような存在だった。
 命までは奪わなかったものの、その事故は、彼女に重大なダメージを与え、今でも彼女は病院で眠り続けている。
――もし、あれがなかったことに出来るのなら。
「大抵の事はやると思う」
「うん、そだね」
 理緒は力強く頷くと、んっと身を反らした。
 いつの間にか教室がオレンジ色に染まっていた。


396 名前: お猿さん(東京都) 投稿日:2007/04/15(日) 21:53:11.80 ID:42Nki0gm0
 次の日、理緒は学校を休んだ。
 昨日の理緒の様子が気になった昌弘は見舞いついでに理緒の家を訪ねる事にした。
 理緒の家は昌弘の自宅から百メートルもない距離にある。母親が事故に会ってから、理緒はこの時間帯は一人のため、もし風邪でも引いていたとしたら大変だろうと、自然と早足になっていた。
 典型的な呼び出し音と共にドアが開く。
「――え?」
 場の空気が数度下がるのを感じた。
 肌が粟立つような感覚。
 扉を開いたのは理緒の母だった。回復は絶望的だろうと言われていた彼女が佇んでいた。
「あら、昌弘君。理緒かしら?」
「あ……はい」
 言葉が続かない。何かおかしい。本来なら飛んで喜ぶべき事態に何も言えず、昌弘は彼女との挨拶もそこそこに、理緒の部屋へと向かう。
「理緒ッ!」
 叫びながらノブを回そうとした手が動かない事に気付く。
「鍵、掛かってるのか……」
 ストンと腰が落ちた。壁に凭れ掛かりながら手の甲で扉を軽く叩く。
「まさひろ……?」
 一文字一文字を押し出すようにして扉の向こう側から声が響いた。
「理緒、どうなってるんだ? おばさん、治ったのか?」
「私、ね、悪魔と、取引、したの」


397 名前: お猿さん(東京都) 投稿日:2007/04/15(日) 21:53:40.36 ID:42Nki0gm0
「……悪魔?」
 僅かの沈黙を経て返って来た答えに、昌弘は顔を顰めた。
「……悪魔って言ったのか?」
 容易に信じる事の出来ない答えに再度問いかける。
「お母さんを治すためにね、取引したの。俺ならば治してやれるって、ただし代償は頂くって。昌弘言ったよね? 大抵の事はやるって。だから私は、決心したの」
 捲くし立てるように、言い聞かせるように理緒は呟く。
「何を馬鹿な……」
 言葉は最後まで紡がれる事はなく、違和感が扉から染み出した。黒い靄のようなものが扉の隙間から這い出るような感覚。
 この場に居たくない。激しい吐き気が昌弘を襲う。
「これ……は……?」
「今もね。いるの、悪魔が私の隣に。ゆっくりと私の体は作り変えられてるんだ」
「何……だって?」
「これが、代償の一つ。悪魔と取引をした私は、悪魔の眷属に。魔女になってしまう」
 捉えどころのない焦燥感が昌弘に圧し掛かる。理解できない状況と扉の向こう側からの圧力で、昌弘は言葉を放てない。
「もう一つはね、人間としての私の存在。昌弘もクラスのみんなも、一年も経てば私の事を忘れるよ。ゆっくりと、確実に」
「……俺は」
「ごめんね」
 昌弘の言葉を区切るような理緒の声。
「もう行かなきゃいけないみたい。ほんとは会わないでお別れしようと思ったんだけど……。昌弘は悪魔がどうやって女を魔女に変えるか知ってる? ごめんね……」
「俺は、俺は絶対忘れない」
「無理、だよ」
 さっきよりも遠くから声が聞こえた気がした。
「絶対忘れないからッ!」
 言うと同時、不気味な違和感は消し飛び、無理やり抉じ開けた部屋の中には静寂だけが漂っていた。


398 名前: お猿さん(東京都) 投稿日:2007/04/15(日) 21:54:00.24 ID:42Nki0gm0
 スゥっと息を吸うと、眼前の存在に対し、少年は言葉を放った。
「理緒、お前、だよな」
「え……なんで……覚えてるの?」
 驚愕に少女は目を見開く。
 少年は何も言わずに手を少女に翳した。
 そこには二つの文字。少女でさえ、おぼろげになってきた彼女の本名。
「初めは、紙に書いて残そうとしたんだ。それなら忘れないって。でもいつからか文字の意味がおぼろげになってきた。ゲシュタルト崩壊っていうのかな。文字を見ても意味が理解できなくなってきて、やがて文字自体が消えてしまう」
 当然だ。悪魔の代償は甘くはない。
「だから、刻みつけたんだ。自分の体に。深く深く、何度も何度も。傷が消えても上からまた削って。痛みとともに理緒を忘れないようにって」
 吐き出すように、懺悔するように少年は言葉を続ける。
「それでも、最近は時々思い出せなくなるんだ。この傷はなんだろう、この名前はなんだろうって。だから」
――だから、いま会えてよかった。
 少年の足が折れる。全身の力が抜けたように前のめりに倒れこむ。
「昌弘ッ!」
 悪魔の代償は甘くはない。二人の間を切り裂くように、代償に抗い続けた少年に闇が降り注ぐ。
 理緒を知る人間はいてはならない。抗い続けた少年の存在を許さないことによって、悪魔の代償は完遂した。
 ただ一人、泣きじゃくる魔女だけを残して。



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