【 魔女は幸せに暮らせるか? 】
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8 名前: 就職氷河期世代(関東地方) 投稿日:2007/04/14(土) 14:49:33.30 ID:K3T38NWg0
 この町には、明治の時代に出来た教会などがそのまま残っている。異国情緒溢れる町並みは、自治体
の方針で保護され、観光資源としていくらかの利益をもたらしているようだった。
 その名所の一つである修道院の前に、私は居た。手元のパンフレットによれば、明治の頃に修道士た
ちが残していった物品を、一般向けに展示してあるらしい。
 何とも怪しげだが、田舎の半端な観光名所など、どこもこんなものかもしれない。やる気のない係員
から入場券を買って、中へ入る。
 古い修道院を改築して展示館にしたのが売りだそうだが、矢印で示されている順路は、どこか不便だっ
た。進んだかと思えば、元の部屋に戻ったり、只でさえ狭い通路に展示物のガラスケースが置かれて、さ
らに窮屈になっていたり……。建物の構造自体が展示に向いていないのだから、仕方ないと言えばそうな
のだが、役目を終えても不向きな仕事に使われる理不尽さが、我が身のことに思えて空しさすら感じる。
 こうして旅に出ている旅費も、夫の退職金であるのを思うと後ろめたい。
 でも、きっとあの人は許してくれるだろう。とても、優しい人だから。
 退職したら、二人で旅行に行こうと約束していた。地図やガイドブックを見て、年甲斐もなくはしゃい
でいたのを思い出しながら、私はショルダーバッグを肩に掛けなおす。夫の顔を思い出すと、それはズシ
リと重く感じられた。
 冷たくなっていく体。色が抜けていく頬。重力に逆らうことを辞めて垂れ下がる肉……。
 軽く首を振ってそれらのイメージを打ち消し、私はひとまず順路に従って歩くことにする。
 矢印を追いながら歩いていると、やがて廊下に出た。高い天井には明かり取りの窓が嵌っている。
 ふと前方を見ると、団体客がこちらへ向って来ていた。狭い回廊でもみくちゃにされるのはごめんだ。
辺りを見回して、私は近くの部屋に足を踏み入れた。
 廊下を騒々しく過ぎていく足音を聞きながら、部屋の中を見回す。埃っぽい照明の中、数点のガラスケ
ースが目に入った。
 その中の一つに、運良く目的のモノを見つけて、私は真っ直ぐに歩み寄る。
 ケースの中には、重厚な装丁の本が、ページを広げて置かれていた。

9 名前: 就職氷河期世代(関東地方) 投稿日:2007/04/14(土) 14:50:15.83 ID:K3T38NWg0
 素早く周囲に目をやり、人目がないのを確認すると、ケースを指で叩く。それだけで、鍵はいとも簡単
に外れた。ちゃちなものだ。盗まれたらどうするつもりだろう。見る者が見れば、世の中がひっくり返る
ようなことが書いてあるというのに。
 そのまま、目的の本を無造作に小脇に抱えて、再び廊下に出る。堂々と展示品を持ち歩くのも何だが、
別に構うまい。見つかったなら、その時はその時だ。
 傾き始めた日が、天窓から差し込んだ。
 知らず知らずのうちに、足が速まる。それは期待のせいか、それとも焦りか。
 記憶を頼りに、順路を無視して一気に突っ切る。幸い、誰に見咎められることもなかった。
 目的のドアには、『立ち入り禁止』の札が貼ってあった。耳を澄まして、中の様子を伺ってからノブ
を捻る。
 展示室として使いきれず余ったのか、そこはがらんどうの部屋だった。殆ど昔のままだ。蛍光灯と、
いくつかのコンセントが設えられているのは、恐らく改築の影響だろう。だが、変化しているのはそれ
だけと言っていい。
 不幸中の幸いといったところか。下手に倉庫にでもされて、『入口』が塞がれていたら、目も当てら
れないところだった。
 壁のレンガに触れると、ぞり、と石臼を挽くような音がして中央の床が四角く陥没した。どうやら、
私が施した仕掛けは、改修の際にも弄られることはなかったようだ。
 ――全く、面倒なことになったと思う。
 久々に来て見れば、隠れ家が博物館モドキになっていたとは。
 もうあれから百年以上が過ぎていたから、建物が残っていただけでも御の字なのかもしれないが、こ
れでは人目について仕方がないではないか。脇に抱えた魔術書も、元々は私の所有物だ。勝手に展示
されているのを見ると、自分が丸裸にされているような怒りを感じる。まぁ、ドサクサに紛れて置いて
きてしまった私にも、責はあるのだろうけど。
 とはいえ、ふらりと入った部屋で魔術書を見つけたことといい、この部屋のことといい、どうも、今
日は星の巡りが良いらしい。
 現れた階段を下り、入口を閉じると、冷気が足元から這い上がってくる。
 地下室は、百年もの間主が不在のままだったが、静謐な空気をたたえていた。思ったよりも埃も少な
い。僅かに黴の匂いが鼻につくが、許容の範囲だろう。
 大量のフラスコ、ビーカー、ガラス管、ろ過装置、漏斗、乳鉢、ランプ……。
 懐かしい道具に囲まれて、私は僅かな時間、思い出に浸る。

10 名前: 就職氷河期世代(関東地方) 投稿日:2007/04/14(土) 14:51:25.59 ID:K3T38NWg0
 故郷を放逐されたのはいつだったか。
 ひっそりと腰を落ち着けては、見つかって追放され、また隠れる場所を探し……その繰り返しだった。
 この地下室も、そうした隠れ家の一つだ。
 それから、あの人と出会って、私は普通の女として生きる決意を固めた。
 若さを維持することをやめ、あの人と共に老いて、そして死ぬはずだった。
 凡庸を絵に描いたようなあの人が、どうして私にそこまでさせたのだろう。今となっては解らないけ
れど、とにかく、幸せだった。
 
 ――あの人が急逝するまでは。
 
 どうして死んでしまったの?
 私を置いて逝ってしまったの?
 いつか来るとは知っていても、それは、私にとって耐え難いことだった。普通の人間の、数倍は生き
ている私でも、彼と送る『第二の人生』はとても楽しみだったのに。
 目の前の台に置いてあるガラスのタンクを、軽く埃を払ってから開ける。
 その中に、バッグから取り出した水筒の中身を注いだ。予め調合しておいた特製の薬液だ。
 それから、再びショルダーバッグを開き、『それ』を取り出す。
 中身の詰まったスイカほどの質量を持つ『それ』には、薬液を染み込ませたガーゼが幾重にも巻かれて
いた。即席の防腐処理だ。
 ガーゼを解くと、紙のように無機質な白さを放つ肌が露になる。軽く表面を吹き清めて、慎重にタンク
の中へ沈めると、『それ』は白髪の混じった髪の毛を海藻の様に広げ、液の中間辺りに浮かんだ。
 よし。
 防腐処理は上手くいったようだ。第一段階の成功に、まずは胸を撫で下ろす。
 それから、私は展示室から持ってきた本を広げた。
 書いてあるのは、偽りの生命を作る方法。
 試験管で生まれる、外法の命。
 その『器』にあの人の脳から『記憶』を移すことが出来れば――。

11 名前: 就職氷河期世代(関東地方) 投稿日:2007/04/14(土) 14:51:49.66 ID:K3T38NWg0
 まったく後ろめたくないかと言われれば、それは嘘になる。神の存在を信じているわけではないが、や
はり命を玩具にしているような背徳感は否めない。
 ――でも、あなたが悪いのよ?
 あなたが、途轍もなく凡庸な男の癖に、私みたいな文字通りの『人でなし』を妻になんかするから――。
 お陰で、すっかり『魔女』を名乗るのにふさわしい、皺くちゃのお婆ちゃんになっちゃった。
 責任、取ってもらうわよ。少しだけ狭い思いをさせるけど、すぐだから我慢してね。
 あの人の首に、ガラス越しの冷たいキスをして、私は早速、書を読み解く作業に取り掛かった。

 終り



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