【 ガキ 】
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239 名前: 40歳無職(長屋) 投稿日:2007/04/08(日) 23:29:05.88 ID:NCQbRnEH0
夕暮れになるとカラスが鳴いている。
それを題材にした唱歌もあった。
カラスが鳴いているのは自然なことだ、と思うヤツもいる。
カラスが鳴くのは帰巣本能だと考える、ヤツもいる。
だが、カラスの肉はまずいらしい。
カラスは何でも食うからマズいのだと言う話を聞いたことがある。
カラスはこれと言って食べたいものが無いのだろう。
自分は、これと言って食べたいものの無いカラスが、それでも腹が減ったと言って悲しんでいるからカラスが鳴いているんじゃないかと思うことがある。僕は注意深く言葉を選びながら、電話口の向こうに、今から何を伝えようかと考え始めた。
電信柱に立てかけられた看板の話だろうか?
「義兄さん......」
「......」
「義兄さん、史哉です」
「僕は義兄さんなんかじゃないよ」
「義兄さん、困ってるんです」
「俺も困ってる。返せる金がなくて困ってる」
「......じゃあ、せめて会ってください。今、どうしているのか教えて欲しいんです」
そして、僕は古アパートの階段をゆっくり昇り始める。
もしかすると、義兄は逃げる気なのかもしれない、いや少なくとも自分と会いたがってはいない。
「今.......お前は何をしてるんだ?」
「僕は......散歩をしてますよ」
「俺は......いま、風呂に入ってるよ」
「お風呂ですか?僕も一緒に入りたいぐらいですよ」
慎重にそして、静かに、義兄の部屋のドアノブを回してみようと試みる。
「いいさ。入ってくれ......後のことは頼むよ」
僕は思い切って中に入り、部屋の奥にある、義兄が浸かっている浴槽を見に行く。
赤い色をした水が兄の体にこびり付き、両手に鋭い刃物が握られ、胸と首がぱっくりと開いていた。

240 名前: 40歳無職(長屋) 投稿日:2007/04/08(日) 23:29:29.55 ID:NCQbRnEH0
義兄が自分から金を借りて行ったのは、昨年の春のことだった。
義兄は姉の夫にあたる人で、父や姉を差し置いて、何故自分に頼むのか疑問だった。
けれど理由は既にわかった。借りれる親族には全て金を借りていた―
そのため金を貸してくれそうな親類が自分しかいなかったと言うことだ。
姉はそれでも、義兄の失踪に泣いた。
「どうしてあの人がいなくなったか、見当がつかない」
それは周りの者も同じで、何故借金をする必要があったのか、何故姉のもとから姿を消す必要があったのか、そこがわからなかった。
義兄は社会的に地位のある仕事をしていた。義兄は姉に不満を抱いているようにも見えなかった。
「不満が無ければ暮らしていこうと思うか?」
葬式が終わる頃に、ひねくれ者の友人が言う。
「不満は無かったのかもしれない。不自由も無かったのかもしれない。だけど、それが嫌だったんじゃないのかね?」
「どういうこと?」
「お前、いま、何か楽しいことあるか?俺にはないね。別にこれと言って楽しいことも辛いことも無いよ。
わかるか?別に憎んでるものもないし、そんなに好きな物も無い。そういう気持ち」
「さぁ......あんまりピンとこない」
だけど、なんとなくそれもわかるような気もした。
葬式には生前兄と親交の深かった者、そうでない者もいたが結局、兄の失踪の理由は誰も知らなかった。

243 名前: 40歳無職(長屋) 投稿日:2007/04/08(日) 23:32:22.58 ID:NCQbRnEH0
それから2、3日してしばらく、唐突に知らない番号からの着信があった。
「史哉君か?」
「誰ですか」
「僕さ、......さ」
「悪戯は止めて下さい」
「悪戯じゃないよ。あいつは元気にしてるかい?」
「落ち込んでいますよ」
「そうか......」
「......本当に義兄さんなんですか?」
「そうだよ、見にくるといい住所はー」
住所は先日自分が訪れた先の古アパートの兄の部屋だった。
僕はよっぽど事情通の人間が悪戯をしているのだろうと思った。
実家に帰って来た姉は、漬け物を漬けている。
「うちには漬け物石が無いわね。あれがないと味が染みないの......」
「漬物石なんか、そんなにいるものかい?」
「いらないように思うこともあるかもしれない。だけど、無いと抑えがきかないの。どうしよう、どうしようかな......」
姉は少し参っているように見えた。
電話で告げられた住所へ行くと、そこは大分様変わりしていた。
古びたアパートにはシダが巻き付き、建物の北側の木は腐り、階段はところどころ破れていた。
ぎぃぎぃっと音のなる階段は30年近い月日が経ったように感じる。
3日前に訪れた古木の玄関だけがそのままで、ドアには鍵がかけられているようだった。
僕はチャイムを鳴らして出てくる人を待った。
中からドン.......ドン.......と言う足音が響き渡り、僕は唾を飲んだ。
ドアと塀の隙間から、やぁ......と言って見ず知らずの老人が顔をのぞかせる。

247 名前: 40歳無職(長屋) 投稿日:2007/04/08(日) 23:33:25.35 ID:NCQbRnEH0
「僕が誰かわかる?」
わかるわけがない。鼻は曲がり、白目は淀み、ほほは垂れ、口からはひどい口臭がした。
髪はほとんど抜け落ちていて、内蔵だけが押し出されたように垂れた腹が、僕の膝に触れた。
僕はできるだけ冷静さを取り戻して、どなたですか、と聞く。
「嫌だなぁ......君の義兄さんさ」
声はかすれ、ほとんどそれはうめき声のようなものだった。
「義兄はもっと若くに亡くなりました」
「よく見てくれよ。風呂場には、まだ、僕の死体があるよ......」
老人は僕を中へと手招きする。
だが部屋は無惨だった。畳にはコケがむし、水道は錆び付き、電灯の笠には蟲が巣食っていた。
外は晴れているのに部屋から見える窓の向こう側には、真っ黒い空間が広がっている。
「いいから、来い」
どこにそんな力があるんだと言うような圧力で、老人は僕を引っぱり込む。
僕は恐る恐る浴槽を見に行くと、そこにはこの前みた通りの義兄の姿があった。
「僕は......このままなんだ。このままなのに、何故か、こっちの体だけが飛び出して、こうしてここを這い回っていた.......。
だけど、どこにも行けない。天国も地獄にも行けそうにないんだ」
老人は黄ばんだ目で物欲しそうに自分の体を眺めているような気がした。
「君はお姉さんのことが好きだったみたいだね......。だけど、僕はあんまり好きじゃなかった。好きでも嫌いでも無かった......。
好物の無いカラスは一体何を食べているんだろうって、あの体の時はよく考えていたよ。何か食べたいけど、食べる物の無いヤツはどうしたらいいんだろうなって......」
老人は血痰のような物を二三度吐いてじりじりと近づいてくる。
折れ曲がった歯をカチカチこすり合わせて、不気味に笑い始める。
「こんな姿になってしまったけど君になってから、また考えることにするよ......」
義兄は僕の足に飛びかかり、スネに齧りつくとそのまま足から膝、膝から腰、腰から胸、胸から首と僕の体をシュレッダーにかけた紙のように粉々に齧って行く。
頭から上だけになった僕は暗い部屋から外へ出て行こうとする僕の体を見る。
僕の体をした義兄はニコリともせずに、髪を整えると、玄関のドアを閉じてどこかへ歩いて行った。



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