【 二人のコーヒーカップ 】
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210 名前: DQN(静岡県) 投稿日:2007/04/08(日) 23:03:44.64 ID:PJn29eoE0
「少しくらいいびつな方が、味があっていいでしょ?」
 こんな前置きを添えて晴海がくれたカップの裏には、二人のイニシャルが刻まれていた。

 大学での研究が一定の形に仕上がった頃、街はまた一つ冬を乗り越えて、柔らかな陽光に満たされ始めて
いた。都内の桜並木がつぼみをつけ始め、確実な春の息づかいが聞こえてくるようだった。
 生命の神秘は、培養液の中でもアスファルトの上でも、同じだ。過酷な環境を与えても、彼らは与えられた条
件でその命を全うするのが仕事だ。頭が下がります。
 僕は、企業の歯車とか仕事人間になるのが嫌で、ここまで研究を続けてきたような人間だ。薄給だが、暇だ
けはある。
「和政さん、私、もう待てないよ」
 これが晴海の口癖だ。大学の同期だった彼女は、僕同様、すでに妙齢のラインに達していた。
 つきあい始めたのは、大学入学直後のことだ。貧乏学生だった当時、僕は晴海をろくにデートにも連れて行
かなかった。それは今でもあまり変わってはいない。
 甲斐性のない男。僕は、まさにその代表格である。

 待ち合わせの上野公園に、僕は少し遅れて到着した。夕刻、ちょうど日が暮れかけて、不忍池を暗闇が這う
ように包み始めていた。街灯が灯り始める。
「遅い、暇人のくせに」
 背後から、軽く毒づく声が聞こえた。晴海だ。
「タイムテーブルを厳守しなきゃならんのが、研究の面倒なところだ。待ち時間だけは異様にあるんだけど」
「じゃあ、間に合う時間に待ち合わせればいいでしょ」
 もっともだ。反論の余地がない。
 僕たち二人は、本来はちょうど同じくらいの背丈だ。並ぶと、ヒールの分だけ、晴海の方が五センチほど高く
なる。決して僕が低身長な訳ではない。百六十七センチもある癖にヒールを履く方が、どうかしているのだ。
 ゆえに、夕闇の中を歩き始めた二人のシルエットは、男の方が低い凹凸コンビになっていた。
「今日は私の給料日だから、少しいいところのディナーを予約しといたわよ」
 晴海の言葉が、僕の心にチクチクと滲みる。
「いいよ、僕が出すよ」
「あなたは、そんなことより家賃を滞納しないでちょうだい」

211 名前: DQN(静岡県) 投稿日:2007/04/08(日) 23:04:18.92 ID:PJn29eoE0
 晴海が選んだのは、小洒落たイタリアンバーだった。メニューは奮発してフルコース。この辺りに経済的な限
界があるとも言えた。
 照明は辛うじて壁掛けメニューの大文字が読める位に抑えられ、テーブル越しに向かい合った互いの表情の
裏までは見通せない。晴海の様相は、にこやかという訳でもなく、かといって怒っている風でもなかった。一言で
言えば無表情。顔のしわにもうまい具合にマスクがかかり、蝋人形のようだ。
「和政さん」
 晴海が切り出した。僕の背筋が、軽く緊張で反る。
「私の実家が陶芸関係で、今の私の仕事もそうだってこと、知ってるよね」
 話題がとりあえず当たり障りのないところで、軽く安堵のため息が漏れた。途端にいつもの猫背に戻ってしま
う。
「うん。ご実家の家業も順調みたいだし、頭が下がるよ」
「あなたが下げる必要はないの、うちはうちでやってるから。最近は個人経営の飲食店からの受注なんかも増
えてきてて、何とか業績は上向きなんだよね」
 口ぶりから、晴海の機嫌はいいようだ。いつも僕に対しては毒舌だから、その辺の見極めが難しい。
「それで今日、豪勢にイタリアン・フルコースって訳か」
「本当なら、銀座に行ってみたいフレンチのお店があったんだけど」
 晴海が口をとがらせた。やはり、難しいものは難しい。
「まあ、いいわ。それより和政さん、いい話があるの。近々、両親のお墨付きで、この辺で新しい店舗をオープン
するのよ。若い子向けのファッション誌なんかで誌面を貰って、これから売り込んでいくの」
「へぇ、すごいね」
 前菜を平らげ、僕は晴海の演説に半ば圧倒されながら耳を傾けていた。いつの間にかワインも飲み干してい
た。
「今の子たちに、本当の陶芸の価値なんて分からないでしょ? だから逆に、彼らの価値観に対してアンテナを
張って、彼らに訴えかけていくモノを作るの。何枚かサンプルを持ってきたから、和政さんも触ってみてよ」
 そう言うと、晴海がハンドバッグからケースを取り出した。中身をあらためると、西洋の角皿を半分取り込んだ
ような陶製の平皿が、黒褐色の渋い光沢を放っていた。和洋折衷というか近現代風というか、なるほど、これが
新しいコンセプトか。
「中々、ナゥいんじゃないかな」
「ブッ、あんたに聞くんじゃなかった」

212 名前: DQN(静岡県) 投稿日:2007/04/08(日) 23:04:38.02 ID:PJn29eoE0
 失礼なリアクションをする晴海を横目に、僕はメインディッシュに手をつけ始めていた。晴海の料理は、ほと
んど減っていない様子だ。演説に夢中になりすぎているのだろう。
 続いて、晴海が一つ、綺麗にラッピングされた小包みを取り出した。
「これ、今のとは別なんだけど。一応、プレゼントってことで、受け取って貰える?」
 珍しく晴海が下手に出てきた。中身に興味がわいてくる。
「開けてもいい?」
「まだ、駄目。……なんて言うか、お皿にしてもカップにしても、少しくらいいびつな方が、味があっていいでし
ょ?」
「さっきの黒皿は歪んでなかったけれども」
「もう」
 晴海が、わざとらしくふくれてみせた。僕は、あえて深く突っ込むのを止めた。
 演説に疲れたのか、その後は晴海も食事に集中したようで、二人のディナーは滞りなく進んだ。
 僕は、晴海に対してもはや畏敬の念を抱き始めていた。彼女の持つエネルギー、オーラ、生命力、そういった
類のものが、まるで天頂に輝く太陽のような眩しさを以て、僕に降り注いでいるようだった。日陰者で昼行灯な、
やさぐれたヘボ研究者である僕の肌に、強烈な日焼けの痕を残していくのだろう。
「和政さん、一つお願いしてもいい?」
 テーブルにデザートが配られた頃、晴海が口を開いた。
「何?」
「新しいお店を開くって話、実はね、結構大きい事業になるの。信頼できてかつ、優秀な人材が必要なの」
「君なんか、まさにうってつけじゃないか」
「和政さんに手伝って欲しいのよ」
 へ? というような顔になっていたに違いない。フォークを床に落とした音は、間違いなく床に響いた。
 何を言い出すかと思えば、僕に手伝えと。僕は大学から仮にも助手という職を授かり、国家予算の一部から
研究費を頂いて、サイエンスの発展に日々尽力している、そういう男だぞ。
「い、いきなりそんなこと言われても」
「だって、あなたの研究だってずっと行き詰まったままだし、今まで収入らしい収入だってなかったじゃない。一
応、うちにくれば将来的には役員待遇になるし、もちろん給料だって保証するわ」
「僕にマスオさんになれって言うのかい!」
「別に婿養子になれとまで言ってる訳じゃないわよ!」

213 名前: DQN(静岡県) 投稿日:2007/04/08(日) 23:05:02.93 ID:PJn29eoE0
 お互い熱くなり、つい声が荒くなる。僕はショックを受けていた。必死で積み重ねてきた研究業績もろくに知ら
ない彼女に、頭ごなしにそれを否定された挙げ句、新事業のための手駒にされるだなんて。
 確かに、今までほとんど無収入に近かったのは、申し開きのしようもないことだ。これについてはもう少し待っ
て欲しいのだ。必ず一仕事仕上げて、立場も収入も手に入れる、そんな自信があった。
「僕にだって、研究という夢がある。行く行くは留学の話だって……」
「留学? はあ? どこにそんなお金があるの」
「学資ローン……」
「馬鹿! 勝手にすれば? もうあんたにはついて行けないわ。さようなら」
 晴海がテーブルを、まるで蹴飛ばすかのような勢いで立ち上がった。それに圧倒された僕は、その場で腰が
抜け、カエルのような格好を余儀なくされた。床にへばりつきながら、何とか彼女の足首をつかもうとするが、
待っていたのはヒール攻撃だった。
「ぶぎゃっ」
 この瞬間だけ、晴海は申し訳なさそうな一瞥を僕にくれたが、すぐさま目線を背け、呟くように言った。
「私だって、あなたと幸せに暮らしたかった。あなたの貧乏に対して、今までどれだけ私が骨を折ってきたか分
かるかしら? 結局、二人がお互いの夢に価値を見いだせなかったということなのね……」
 待って、の声は出なかった。決定的な溝が、僕と晴海の間に、まるでマリアナ海溝の大穴のように存在してい
るのだ。
 目の前で、店の扉が静かに閉じた。衆目を浴びる、僕の後頭部が痛かった。
 音楽性の違いから解散するバンドって、こんな感じなんだろうか? 僕たち二人を隔てた価値観の相違は、
愛で乗り越えるには大きすぎたのだろうか?
 分からない。
 ただ僕は、残された。未精算の領収書と、食べかけのデザートと、プレゼントの小包みが、所在なさげにテー
ブルの上に佇んでいた。

214 名前: DQN(静岡県) 投稿日:2007/04/08(日) 23:05:19.41 ID:PJn29eoE0
「人間、三十代になったら考えないといけないね。何か僕、取り返しのつかないことをしちゃったみたいで」
「気を落とすなよ、和ちゃん。研究者なんて大なり小なり、みんな似たようなものさ。要は、相手に理解されるか
されないか。所帯を持ちたかったら、ほんの一握りを除いてヒモで食ってくしかないのさ」
「真剣に就職先、探そうかな」
「寂しいこと言うなよ。和ちゃんならこの世界でモノになるって」
「十年前から同じこと言われてるよ。まあ、今から手に職つけるのも辛いし、こんな小講座から口利きできると
ころなんてないだろうし」
「……それはそれで寂しいな」
「結局、この世界で夢を叶えるしかないんだね。何か特許でも取って、どっかの教授みたくベンチャー企業でも
興そうかな。社名は『K&H』なんて、未練がましいって怒られるかな」



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