【 無価値病 】
◆NA574TSAGA




147 名前: 自宅警備員(北海道) 投稿日:2007/04/08(日) 18:29:41.54 ID:kTmkhGJk0
 最初に異変に気が付いたのは、クリスマスの朝。プレゼントした指輪を投げ返されたときだった。
 初めは単に気に入らないだけだと思った。
 だが普段そんな応対をされたことのない私は胸騒ぎを覚え、病院へと車を走らせた。

「ムカチ病、ですか?」
「そう、『無価値病』――周囲の物に価値を見出せなくなり、ついには拒絶するようになる病気だ」
 医者はそういうとポケットから一万円札を取り出し、「好きに使いなさい」と由美子に手渡した。
 由美子はしばし首をかしげたあと、受け取ったお札で紙飛行機を作りはじめ、診察室の角へと飛ばした。
 そして興味を失ったように目を背けた。
「由美子、これはお金だ。わからないのかい」
 私はそういって一万円札を示したが、「ただの紙」と言って聞かなかった。
 しまいには床に破り捨ててしまう始末だ。
「何とかならないんでしょうか?」
「何らかのウィルスが原因とされてはいるが、治療法はわかっていない。
 とにかく二、三日は様子を見よう」
 そういって医者は妻にマスクを付けさせた。
「この病は空気感染をする。あなたもマスクを付け、外出はなるべく控えるように」

 帰宅してすぐ、由美子の病状に変化が見られた。部屋に入るなり、いきなり服を脱ぎ始めたのだ。
「お、おい、何をしているんだ。風邪を引くぞ」
 注意するが、聞く耳を持とうとしなかった。さっき付けたマスクも外してしまう。
「どうして? この部屋暖かいじゃない。こんな布きれいらないわ」
 そういって下着まで脱ごうとする。
 いくら妻とはいえ、裸で歩かれたんじゃ落ち着かない。せめて何か羽織るくらいしろと言い聞かせた。
「……いらないのに」
 説得の末、なんとか私の古びたコートをかぶせることはできた。
 だが私は今後に不安を覚えずにはいられなかった。

148 名前: 自宅警備員(北海道) 投稿日:2007/04/08(日) 18:30:30.41 ID:kTmkhGJk0
 由美子がそんな調子だったので、夕食は私が作ることになった。
 一企業の社長として、家を空けがちになってからは初めてのこと。
 当然まともな料理など、できるはずもなかった。
「いらないわ、こんなもの」
 そう言って完成した黒ずみカレーを拒絶し、席を立ってしまった。
 少々ショックを受けつつも、引きとめようとする。
「何か食べなきゃ身体がもたんぞ」
「大丈夫よ、昼にパンを食べたもの」
「そうだ、風呂がわいてるぞ」
「別にいいわ。昨日入ったもの。おやすみなさい」
 そういってそそくさと寝室へ入ってしまった。
 これじゃあただの面倒くさがりじゃないのかと突っ込みたくなったが、これ以上は埒があかないようだった。
 やれやれ、とマスクをはずしてカレーを口にする。
 到底「価値」など見出せそうにない味だった。

 一晩経てば治るかもしれないという淡い期待は、翌朝すぐに裏切られた。
 ひどい物音に起こされ、周囲を見渡す。ベッドに由美子の姿はない。
 マスクをつけて寝室を出るが、リビングには何も見当たらなかった。
 何も、見当たらないのだ。
 先週買った液晶テレビも、イタリア製の高級ソファーも、テーブルも、戸棚も、飼っているカナリアさえも。
 何もかもが消え失せて、部屋はもぬけの殻だった。
 物音は庭の方から聞こえてくる。私は急いで外へと向かった。
 由美子は芝生に散乱する家具に囲まれて、カナリアの籠に火をつけようとしていた。
「やめるんだ」ととっさにライターを払いのける。由美子は悪びれた様子もなく首をかしげた。
「だってこの子ったらただうるさく鳴きわめくだけで、存在価値ないんですもの」

149 名前: 自宅警備員(北海道) 投稿日:2007/04/08(日) 18:31:08.04 ID:kTmkhGJk0
 私は由美子を乗せて病院へと車を走らせた。医者は二、三日様子を見ろと言ったがそんな余裕はなさそうだった。
 明らかに病状は悪化している。しかも一晩で、急激にだ。
 昨日までの症状はまだかわいい方だったと今更ながら思う。金、衣服、食事など、自分に直接関係するものにしか症状は及んでいなかった。
 だが今は違う。価値判断がより広範囲のもの――ついには他の動物の生命にまで及びはじめている。
 聞けばあの家具類も燃やそうとしていたらしい。「自分には価値のないもの」だという理由で。
「車を止めて」
 後部座席から声がする。路肩に車を止め、背後を見る。
 無理やりに着せた大きめのジャージに、由美子は顔をうずめていた。
「どうした、気分でも悪いのか?」
「ううん、違うの」
 由美子は後ろを指差して「帰りましょう」と言った。
「病院なんて行く必要ないわ。昨日行ったばかりだもの」
「で、でもなあ、お前の病気は明らかに悪く……」
「いいから帰りましょう」
 いいや行くよ、と私はハンドルを握りなおした。すると由美子は車から降りて運転席のドアを開け、私を車から引きずりおろした。
「おい、何をするんだ」
「もういいわ、自分で運転して帰るから」
 あなたなんて必要ないわ――そう言って車は走り去っていった。しばし長い溜息をついたあと、私も家の方角へと歩き出す。
 帰ってみるといったん戻したはずの家具類が、再び庭に放置されていた。
 やはりこのままじゃ駄目だ。引きずってでも病院に連れて行こう。
 私は覚悟を決めて玄関のドアを開いた。

「あれ、社長。奥さんの調子はもういいんですか?」
 二日ぶりに出社した私を秘書が迎える。
 他の社員も笑顔で挨拶をしてきた。私もマスクを外し、疲れた笑顔でそれに応じる。
 町外れのビルのワンフロアを借り切っただけの小さな会社ではあるが、業績は上り調子。
 社員はみな創業時からの戦友だ。
「……何ですか、それは」
 秘書の目線の先には連れてきたカナリアの籠。私は用意していた文言を口にする。
「妻の病気がまだ快方に向かわんくてな、鳥の世話にまで手が回らないんだ。すまんが妻が治るまで預かっててもらえんだろうか」

150 名前: 自宅警備員(北海道) 投稿日:2007/04/08(日) 18:31:39.98 ID:kTmkhGJk0
「はぁ……わかりました。小鳥って寂しいと死んじゃうって言いますもんね」
「それはウサギじゃなかったか?」
 笑いながら溜まった書類に目を通す。そのとき電話のベルが鳴った。
 秘書が応対したのちに、私の元に回る。
「病院からだそうですよ。奥さんに何かあったんでしょうか」
 妻は家にいるはずだが……。私は不審に思いつつも受話器を取った。
「もしもし」と昨日聞いたばかりの医者の声がする。
「仕事中すみませんな。家の方にかけても繋がらないもので……奥さんの具合はどうですか?」
「……どうもこうもありませんよ」
 私はくたびれた声で、これまでの経緯を説明する。
 今朝になって病状が悪化したこと。病院に連れて行こうとしたことと、それを拒絶されたこと。
 そして家に帰って言い争いになり、ついには家を追い出されたことまで、詳細に語った。
「『もうあなたなんかいらない。存在価値ゼロよ』と言われました。ついには実の夫まで否定ですか」
 自分でも意外なほどに軽い口調だったが、医者の反応は冷ややかなものだった。
「今すぐ家に帰りなさい」
「どうしてですか? 妻は私のことを拒絶している。別に戻る必要なんか――」
 分かっていた。由美子の発言が病気によるもので、本心ではないことくらい。
 分かりきっていた。自分が腹を立て、投げやりになっていることくらい。
 分かりきっていたはずだ。真に拒絶しているのは私の方だということも。
「別にあなたのことをとやかく言うつもりはない。奥さんの身を案じてのことだ」
 医者の言葉に焦りを感じ、受話器を投げ出し会社を飛び出した。
 聞き手を失った受話器から、医者の声がもれる。
「奥さんは最も近しい『価値』であるあなたの存在を否定した。
 周囲のすべてを拒絶しつくした今、最後に否定する価値はおそらく――」


151 名前: 自宅警備員(北海道) 投稿日:2007/04/08(日) 18:32:14.92 ID:kTmkhGJk0
 空っぽになったリビングの中央で、由美子は倒れていた。
 周囲には鼻を突くようなガスの臭い。急いでガスを止めて窓を全開にし、由美子を抱きかかえる。
 既に意識はなくなっていた。
「由美子……すまなかった」
『小鳥って寂しいと死んじゃうって言いますもんね』
 ――秘書の言葉が、脳内で反芻する。
 思えば今に始まったことではなかった。
 会社が軌道に乗り始めたころから家を空けがちになり、由美子との関係は薄れていく一方だと感じていた。
 だが由美子の方は違った。それまでと全く変わらぬそぶりで、つい一昨日まで接してくれていたのだ。
 何も言わずに私に食事を作ってくれて、会社に行く私を見送ってくれて、疲れきって帰宅した私を出迎えてくれて、
 夕食を作ってくれて、風呂をわかしてくれて、ソファーで寝てしまった私にふとんをかけてくれて――
 そんな由美子に対して、私は感謝の言葉一つかけずに今日まで過ごしてきた。
 自分のかたわらにいる人間がどれほど価値ある存在かも知らずに、日々のうのうと。
「本当にすまなかった。だから……お願いだから目を開けてくれ」
 この病気はたぶん俺のせいなのだろう。私は由美子の顔を正面に向ける。
 出会った頃よりもいくぶんやせ細った顔。その顔に私は唇を重ねた。
 ――キスさえも、何年ぶりだろうか。頬を涙が伝い、由美子の顔に数滴落ちた。
 そして由美子は、目を開けた。
 号泣する私を抱きかかえ、由美子は一言つぶやいた。
「私やあなたにどんな価値があるかなんてわからない。けど――」
 そう言って私の頬に手を差しのべる。そしてもう一言。
「あなたに愛されているならそれでいい。そこにきっと価値はあるのよ」
 空っぽのリビングの中心で手を取り合い、そしてもう一度キスをした。

 翌日の朝、物音に起こされて周囲を見渡す。ベッドに由美子の姿はない。
 まさかと思いリビングに向かうと、またしても家具類が取り払われていた。だが物音のする方へ向かうと、
「おはよう。ご飯もうすぐで出来るわよ」
 由美子はキッチンで朝食を作っていた。
「別に私はいらないんだけど、あなたが欲しいのなら作らなきゃ」
 そういって笑う由美子だったが、昨日の晩に食べたばかりだったので食べる気は起きなかった。



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