【 マイクロ秒の人生 】
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785 名前: 歌手(東京都) 投稿日:2007/04/01(日) 23:46:55.54 ID:Zigm6mF+0
 彼には名前も顔もなかった。しかし、そのことについて疑問を抱いたことはない。周りのものも皆そうであっ
たからだろう。名前のかわりに番号で呼ばれ、顔は常に無機質な仮面の下にある。それがクローン人間の標準的
スタイルだ。
 彼自身は、自分がクローンだと認識してはいないし、他のクローン達だってそれは同様だ。
 自分はクローンだと知れば、彼らは自分たちの製造目的について疑問を持つ。それは彼らを製造した者にとっ
ては都合が悪い。その疑問の答えが、「君たちは金持ちの因業ジジイが注文した交換用の肉体で、いつかそのジ
ジイが自前の体に見切りをつけた時には、脳ミソをほじくりだされてそのジジイの脳を移植されることになって
いるんだよ」だった時には、特にそうだ。そんなことを言えば、クローンの反乱を扇動するようなものだろう。
 彼らが仮面をつけさせられている理由はいくつかある。一目でクローンだとわかるようにするため。あるいは
クライアントの個人情報を守るため。だが、一番の理由は、クローンに自我が芽生えるのを抑制するためだ。
 自分の顔も名前も持たず、周りを自分とおなじ姿の者に囲まれていれば、アイデンティティは育たず、自我も
芽生えない。自我がなければ、自らのレゾンデートルについて哲学的な疑問を持つこともなく、待遇について不
満を抱くこともない。したがって、彼らを維持管理するコストも削減できるし、何よりクローンが暴動を起こす
ようなリスクを極微小なものにできるというわけだ。
 そんなわけで彼、製造番号で言えば『20991201YT』に話を戻す。
 本来、なんの面白みもない生活を続け、そのうち脳だけ捨てられる運命にあるクローンに、こうして話すに足
るだけの物語など存在しえない。すなわち、どこかに彼の運命を変えるターニングポイントがあるわけだ。そし
て、この話は、まさにそこから始まるのだ。
 彼がその日もまた、いつも通りに運動と作業を終え、栄養学的見地以外からは評価できないであろう夕食をと
るために、食堂へ向かう廊下を歩いていると、丸められたメモ用紙が落ちていた。たまたまそれを見つけて拾っ
たのが、運命の分かれ道だ。
 後の調査によると彼が拾ったメモ用紙は、保守点検と在庫管理のために収容施設内に入った作業員(もちろん
この作業員も仮面をつけて内部に入っていた)が落としたもので、中に書かれていたのはただの作業手順にすぎ
なかった。しかし、それまで文字というものを見たことがなかった彼にとって、それは彼がそれまで考えもし
なかった「外の世界」の存在を示すものだった。
 その瞬間、彼の脳裏で天啓がひらめいた。
 今までまるで濃い霧に包まれたようにぼんやりとしていた彼の思考に、突然指向性が生まれた。それは好奇心
というものだったのかもしれない。彼の心は、この紙に記された理解不能の記号の羅列に支配された。
 そして、彼は生まれて初めての欲求を抱いた。それは、「知りたい」という欲求だった。それが、この施設に
生きる者には許されざる「自我」というものであることを、彼は知る由もない。

786 名前: 歌手(東京都) 投稿日:2007/04/01(日) 23:49:46.90 ID:Zigm6mF+0
 こうして自我に目覚めた彼は、知的好奇心に突き動かされ、そのメモについて他のクローン達に聞いてまわっ
た。もちろんそうしたところで答えを得られる筈もなく、謎は深まるばかりだった。
 しかし、彼のこの行動は思わぬ影響を及ぼした。聞き込みの際に文字を見せられたクローン達が、彼と同じよ
うに字がに目覚めてしまったのだ。このことが、事態をさらに重大なものにした。
 目覚めたクローン達は、最初は彼と同じように好奇心に突き動かされて行動していたが、そのうちそれでは先
に進めないことに気づくことになる。彼らは目覚めた者同士で情報を交換するようになり、いつしか組織化への
道をたどることとなる。その組織の長に、最初に目覚めた彼が就いたのは自然ななりゆきだろう。


787 名前: 歌手(東京都) 投稿日:2007/04/01(日) 23:50:16.67 ID:Zigm6mF+0
 いつしか、知的好奇心は「外の世界」への欲求というものにすり替わっていた。もはや、「外の世界」の存在
を疑う者など、だれもいなかった。そのころには、「彼らとは違う誰か」が時折彼らの近くに来ていることも判
明していた。
 結果として、それは組織的脱走という形で噴出した。
 彼らは作業員が入ってくるのを待ち受けて襲撃し、外部へ繋がる扉の鍵を奪取。扉をあけ、ついに「外の世界
」へ踏み出した。 
 クローン達の先頭を歩んでいた彼が、走りながら叫んだ。
 「見ろ!」
 外に出た全員が見た。
 「外だ!」
 語彙の極端に少ない人工言語しか与えられていなかった彼らクローンには、他に言うべき言葉がなかった。
 「見ろ! 外だ!」
 「見ろ! 外だ!」
 そして彼が初めて見た青い空を指差し、再び、
 「見ろ!」
 と叫んだ、まさにその瞬間、彼の背後で閃光がきらめいた。ライフルだった。
 後頭部から入った銃弾は、彼の頭蓋を貫通し、彼の被っていた仮面を弾き飛ばした。
 その時のことが、彼にはまるでスローモーションのようにゆっくりに感じられた。
 額に穴があいた。穴から、鮮血がほとばしる。一部が滴となって彼の目の前を落ちていく。血の滴に、彼の、
仮面が外れた素顔が、確かに映っていた。彼の停止寸前の脳は、それをかろうじて認識した。
 その瞬間、彼の人生が始まり、そして終わった。
 

 今、彼はどこかの研究施設の標本室にいて、「脳組織標本21110911」と呼ばれている。

《了》



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