【 仮面無き世界 】
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775 名前: 天涯孤独(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 23:37:55.53 ID:fF6lV39C0

「僕を壊すのは誰?」
「君を壊すのは君自身に他ならない。そして君が壊すのは、君の世界に他ならない。
モラトリアムの戦場は殻の内側に広がっている」
 ハッピーフリークス。幸せの畸形。
 我が家の一家団欒。喩えるなら機能としては銃であり、僕らは皆、装填されている暴力性であり。
「昨日は父が姉さんを殺した。一昨日は姉さんが父を殺した。一週間も遡れば、我が家で死んでいない人間は誰一人としていない」
 パーフェクトペアー。誰かを殺すから、誰かに殺される。
 世界を殺すから、世界に殺される。コンクリートみたいに強固な意志だ。
「意志は法則」
「いいや、意志は回答だ。望む答えを弾き出してくれる」
 それこそ、殺意が込められた弾丸のように。
 僕らは――僕ら自身の慣性と、なにがしかに背中を押された衝動に委ねられるがまま、対象を打擲する暴力性。
「……暴力性」
「それも一つの可能性に過ぎない」
 深い溜息を一つ吐き、ベッドから立ち上がる。背伸びをしてから、腰を二三度軽く捻り、肩を回す。仕上げに屈伸を一つ、両拳を組み合わせて関節から空気を抜き――枕元でバットを肩に担ぎ、突っ立っている姉の隣に並んだ。 
「壊すつもり?」
「姉さんこそ、僕を壊すつもりだったろ?」
 ジ、ジ、ジと天井の蛍光灯が静かに鳴き、それからしばらくの静寂。窓の外の夕闇には、桜吹雪が死に物狂いで舞っていた。
 姉が、枕元へと向けていた視線を起こし、僕へと滑らせる。

「望まなければ、何も壊れない」 その瞳は、穴が空いたように空っぽ。
「望まない人間なんて、居ない」 果たして目の前の人間は、本当に目の前に居るのだろうかと
「それは意志?」          そんなトートロジーで誤魔化すつもりはなかったが
「トップとボトムだよ。姉さん」   僕はどうしようもなく僕だった。

 バットを握りしめた姉の手に、僕の掌を添える。そして、軽く握りしめられた指先を一枚ずつ剥がした僕は、抵抗しない姉貴からバットを奪い取った。
 取っ手を固く握りしめると振りかぶって――ワンスイング。準備運動。
 これから何が起こるのか把握していながら全く動じない姉と、無機質なバットと、僕とバットに象徴された暴力性が、六畳一間の狭い自室を、まんべんなく満たしていた。

776 名前: 天涯孤独(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 23:38:26.61 ID:fF6lV39C0

 姉は死んだ。僕が殺した。
 父は姉に殺された。父子家庭だから母は居なかった。不幸中の幸い。唯一の救い。
 幸いも救いも同義で、不幸な人間にしか与えられない悲哀を噛みしめる僕は、残された唯(ただ)一人。
 側頭部を殴打され倒れ伏した姉の死に顔を、身体を、記憶の深くに刻み込もうと胸にかき抱く。人形よりも力無く冷え切った彼女の肉体は、物言わぬ骸と化し
「僕は、僕の世界を、自らの手によって壊してしまったのだろうか」
 という自問に答えてくれる筈もなかった。
 だが、もし僕の世界が壊れていたとしたら、その世界に従って僕自身も壊れている筈で――そして現状、僕はまだ壊れていなかった。壊れていないと、自身を観察できるだけの意志があった。
 意志は回答であり、トップとボトム。僕の世界を僕の中へ固定する。
「僕はまだ正常だ」
 意思確認の言葉を口頭に上らせる。上らせて、自分を落ち着かせ、状況を冷静に判断する。
 
 ひとまず今必要なのは、姉を腐敗させずに保存するための氷だ。

 階下へと降りていく。帳の落ちた廊下を突き当たりで右に曲がれば、食卓。そこには斜陽のど真ん中で、テーブルに向かって俯せに転がる父の死体があった。
 父は、あっけにとられた表情を浮かべたまま、酷くマヌケな格好で死んでいた。後頭部を強打されたので、自分に何が起こったのか理解する暇も無かったのだろう。
 彼の死体の横を通り抜け、冷蔵庫の扉を開く。
「…………」
 何も入っていなかった。それ以前に、冷たくなかった。
 電源が切れていた。姉が、切ったのだろうか。なら、切った理由は?
 兎に角、氷が無ければ姉を冷やすことができない。ならば、浴槽に水を溜め、そこに浸からせておこうと考え、風呂場に赴いて蛇口を捻るが――赤い錆びた水滴が、数滴こぼれ落ちるだけで、水が吐き出される気配は一向に無い。

 これも姉がやったことなのだろうか?

「…………」
 軋む階段を、一歩ずつ踏みしめるように足を運びながら、僕は思う。
 分からない。僕には何もかも分からない。そして、分からないのは、僕の世界が壊れてしまったからなのだろうか――と。
 姉は――『君を壊すのは君自身に他ならない。そして君が壊すのは、君の世界に他ならない』と云った。
「本当に、僕は、僕の世界を、自らの手によって壊してしまったのだろうか」

777 名前: 天涯孤独(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 23:39:10.52 ID:fF6lV39C0

 不安が募り、無性に姉の身体に触れたくなった。
 何か、自分をこの現実に引き留めるものがあれば、多少なりとも安心できるだろう。
 どうせ姉は死んでいるのだから、何をしても構わない。その母性溢れる胸囲に顔を埋めようが、裸にして、きめ細やかそうな素肌に頬をすりつけ、安寧を求めても構わないのだ。
 姉の身体を用いた妄想に満たされていく僕の下腹部に、一瞬痛みを伴った、黒々とした快感が走り抜ける。
 それは罪悪感と恐慌と、哀しみと喜びが入り混じったとても甘い疼痛で――僕の身体を昏(くら)い興奮に打ち震えさせた。
 僕は、そのまま震える掌で自室の扉へ続くドアの取っ手を掴み、勢いよく開け放した。

「姉さん!」

 姉さん。僕の大好きな姉さん。僕の思い通りになる姉さん。その死体を探し、視線が部屋中を巡り――それからようやく、言葉を失った。
 自室に、姉の死体など無かった。
 代わりに、窓の隙間から吹き込む桜の花びらが、春の風を引き連れて部屋中を包み込むばかりで――
仄暗い逢魔が時に満たされた自室は、空虚だけを携えて、僕の神々しい予感に無言の返答を突っ返してきた。
「……姉、さん?」
 僕は未だその光景が信じられずに、力無き足取りで、窓へふらふらと歩み寄る。
 サッシに両手をかけ、そこから外を覗き込むが、勿論そこにも姉の死体などなく――死にかけた光に感染しては地に沈む、花弁の雪がしんしんと降り積もるばかりだった。
 
 茫然自失のまま僕は暫くの間、それを見つめ続け、太陽が没した西の空が、紫色の雲で染まり始める頃になってようやく我に返った。
 僕は、ようやく気が付いた。
「――そうだ」
 姉の部屋だ。
 あれは姉の死体だ。だから姉の死体が、姉の自室へ帰っていたとしても何らおかしくない。僕だって、こうして僕の部屋へ帰ってきた。
 なら、姉さんだって――
 僕はすぐさま踵(きびす)を返し、悦びに高鳴る胸が刻ませる軽やかなステップで廊下を駆け抜け、姉の部屋へ辿り着く。着いてから、一つ深呼吸。
 早鐘を打つ鼓動と、荒くなる息を押さえ付けつつ、軽く握った拳で扉をノックした。
「姉さん、居る?」
 返事は帰ってこない。当然だ。姉さんは死体なのだから。僕が殺したのだから。僕の思い通りになる存在へと昇華したのだから。
 ドアノブを確認する。鍵は閉められていない。

778 名前: 天涯孤独(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 23:40:09.44 ID:fF6lV39C0

 オマケで、もう一つ深呼吸を入れ――僕はそろそろと扉を開ける。
 広がっていく隙間から、中の様子を確認する。夕暮れの焦土と化した姉の部屋に、人の気配は一切感じられない。おそらくそれは、この部屋の中に『無機物』しか存在していないからだろう。
 僕は思い切って、扉を完全に開け放った。
 そして――戦慄をもたらすその光景に総毛立った。 
 
 そこには仮面を被った姉が佇立していた。
 手には、自らを殴殺した血みどろのバットを携えて。

「ね……姉さん」
 生きているわけがない。理屈では理解しながらも、信じられない現状に僕は後退る。
 そんな戦(おのの)く僕がさぞかし滑稽だったのだろうか。姉は、地獄から這いずりだしてきた亡者のように低くおぞましい声でゲタゲタと嗤い始めた。
 直立姿勢のまま、頭(こうべ)だけをガクガクと震わせて。仮面を被っている為、どんな表情を浮かべているのかは分からないが、恐らくそれは僕にとって幸いであったろう。

 彼女は――稲妻のように背筋を駆け抜けていった戦慄に、姿勢を固められたまま動けない僕に向かって、一歩、歩み寄る。
「お前は醜い」
 のそ、のそ、と背後に重たいモノでも引きずっているかのような足取りで、僕に近づいてくる。僕は必死で逃走を試みるが、両脚はその場に縫いつけられたかのように一歩たりとも動いてくれない。
「お前の素顔はとても醜い」
 僕は姉の仮面がようやく、父が出張土産にくれたミャンマーの土産のお面であることに気付いた。
 それに気付くことができるぐらい、彼女は僕の間近へと迫っていた。
「あ……ああ……」
 やがて彼女は傍らを通り過ぎると、空いた方の腕を僕の首へがっしりと絡み付かせてきた。
 彼女のつけた仮面の堅い感触が頬をなぞる。そして、彼女の素顔とその隙間に空いた暗闇からは、冷たく澱んだ空気が漏れ出して首筋へと吹きかかる。

780 名前: 天涯孤独(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 23:40:48.61 ID:fF6lV39C0

「人が仮面を被る理由を、お前は履き違えているんじゃあないか?」
 姉の指先が、僕のうなじを撫で上げる。生理的な嫌悪感が全身を駆けめぐり、鳥肌を立たせたが、僕は彼女の腕を振り払うことさえできない。
「欲望にも、殺意にすら、仮面はある。己の中にわだかまる意志が深刻であればあるほど、人はきっちりとコントロールされた仮面を被る」
 僕は彼女の――首に回されていない、もう片方の手に握られたバットが揺れる様ばかりを、追いかけていた。
 あれが僕の頭に――僕が彼女に振り下ろされた時と同じように叩きつけられた時、僕の命の灯(ひ)は消える。その事実ばかりが頭の中を占め、思考がままならない。
「お前の姉は、実に巧く仮面をコントロールしていた。お前のことを常々気持ち悪いと考えていたが……それでも姉だからと、自分を押さえ付け、『優しい姉』としての仮面を被り続けていた。
 お前の姉は優しかっただろう。お前に殺される段になっても、お前に抵抗しなかっただろう?」
 分からない。僕には、もう、何もかも分からない。
「お前は、仮面を被ることを他人からの強要だと考えた。それを支配だと考えた。
もとより、人間関係――仮面を被らぬ関係など、支配無き関係など有り得ないのに、お前はそれに抗った。抗って、結果がこの様か。なら、他者の存在しない世界で」
 バットが天井高く振り上げられる。僕はそれを呆然と見つめたまま――
「たった一人、仮面を外したまま生きるが良い」
 ――頭部に衝撃が走るのを、ただ待っていた。

 ――ここは寒い。

 灰色の雪が降り、廃墟と化した瓦礫に分厚く積もり、埃の様に層を成していく街。
 そして、人の温もりが消え、誰も居なくなってしまった世界。
 それは、枯れた景色。焼け落ちた現実。
 降り注ぐ灰の隙間から空を眺めるが、依然朝日が顔を覗かせる気配は無い。もう何百時間も同じ暗闇の日常が続いているだけの世界。だからこそ、僕は自分と同じ匂い、人間を探してうろつき回る。

「僕を壊すのは誰?」自身の遠い記憶が蘇る。
「君を壊すのは君自身に他ならない。そして君が壊すのは、君の世界に他ならない」姉の声を伴って。
 ……僕は結局、自らの手で自身を壊してしまったのだろうか。分からない。僕には、もう何もかも分からない。
 ただ、一つ分かるのは『仮面無き世界は壊れない』。
 それだけだ。



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