【 彼の仮面 】
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633 名前: 漢(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 16:21:00.51 ID:1X3NlZw70
「結局のところ、人間は常に『仮面』をつけて生きているのよ」
 ファミレスの格安ドリアと食べ終えた雪姉が、スプーンについたチーズを意地汚く舐め
とりながら、そんなことをぽつりと言った。
「仮面?」
「そう、仮面よ。人っていうのは、社会で生きていく上で、いくつもの『自分』を持って
いるじゃない」
「あぁ、つまり人格のこと?」
「そういうこと。人格……分かりやすく言い換えると仮面よね。例えば、普段私がアンタ
に見せてる『私』と、広美に見せている『私』は同じようで違うところがいくつかあるわ」
 そう言って、雪姉は隣に座る美人を見た。
 年齢は多分雪姉と同じで二十九歳だろう。ぼさぼさで艶のない雪姉の髪とは対照的に、
肩のところで揃えられた広美さんの黒髪は美しく輝いていた。カジュアルな服装でありな
がら、どこか清楚な感じを広美さん漂わせている。
 雪姉は俺の従姉で小さい頃からの付き合いだ。そのためか、俺は、雪姉の交友関係はあ
る程度把握していると思っていた。けれど、こんな綺麗な人が雪姉の友達にいたというこ
とは、俺は今日初めて知った。
 黙って座っている広美さんは、どこかのお嬢様の様な凛とした品の良さを醸し出してい
た。一方の雪姉は、テーブルに備えられていたコーヒーのクリームと砂糖を次々に鞄の中
へ放り込んでいる。何故広美さんが、ずぼらで性格の悪い雪姉と交友を持っているのか、
俺には理解できなかった。
 ほのかに優しい香りの漂ってくる広美さんから、視線を雪姉の方へと戻した。
「二人同時に相手している今は、どっちの『雪姉』なの?」

634 名前: 漢(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 16:22:03.33 ID:1X3NlZw70
「そりゃ、『二人同時の時の私』に決まってるじゃない」
 俺には、いつもの雪姉と同じにしか見えないんだけどな。
「人は、時間・場所・状況によって色んな『仮面』を被るのよ」
「そりゃ、そうしないと社会では生きていけないからね。けど、たまに表裏のない人って
いうのがいるよね」
「本気で表裏のない人なんていないわよ。そんなの、まだオツムの完成してないガキか、
異常者くらいしかいないわよ。誰だって必ず、『誰かに見せるための自分』っていうのを
持っているのよ。アンタだって、今は『仮面』を被ってるでしょ。普段なら私に膝枕をね
だって来るところだけど、今は広美がいるからしないんでしょ?」
「普段からそんなことはしない。広美さん、今のは雪姉の妄想だからスルーしてください
ね」
 広美さんが、くすくすと笑いながら軽く頷いた。ホント、仕草の一つ一つに美しさのあ
る人だな。さっきからぽりぽりと頭を掻いている雪姉とは大違いだ。わさわさと揺れる雪
姉の髪の間から、次々にふけが落ちている。またしばらく風呂に入っていないみたいだ。
いつもなら、雪姉の頭をぶっ叩いて注意するところだけど、今は広美さんがいるからそれ
は止めておく。雪姉の言うとおり、俺もまた、雪姉の言う『仮面』とやらを被っているの
だ。
 雪姉がテーブルの端に置かれていた伝票を手に取った。ちらりと、雪姉の視線が俺に向
けられた気がした。
 それに気付いたから、というわけではないが、俺はおもむろに雪姉から伝票を奪い取っ
た。
 雪姉が、白々しい口調で言ってくる。

635 名前: 漢(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 16:23:01.86 ID:1X3NlZw70
「あれ? もしかして払ってくれるの?」
 広美さんもこちらを見ている。正直俺は、雪姉が、仮面がどうのこうのという話を始め
たときから、こうなることは予想できていた。
 俺は広美さん相手に『仮面』を被っている。広美さんを前にしていい格好をしようとす
る、という『仮面』だ。さっきの雪姉の『仮面』の話は、俺にそのことを自覚させ、そし
て実際に広美さんの前でいい格好――すなわちファミレスの代金を奢らせるためのものだ
ったんだろう。
 実に回りくどい。そんな回りくどい命令が、雪姉の昔からの手口だった。昔はこの手口
で色々と弄ばれたり、振り回されたりしていたが、大学生になった今では、もう雪姉の考
えは大体予想できるようになっていた。
 バイト帰り、夕飯を食うためにたまたま立ち寄ったファミレスで偶然二人に出会い、結
果代金を奢らされる。雪姉の思惑通りになるのは何だか気に食わないが、まあ実際、広美
さんの前でいい格好したいというのは事実だから、俺は素直に雪姉の計画に従うことにし
た。
 金は春休み中にバイトで貯めたし、ファミレスの代金くらいなら、何の問題もなく支払
うことができる金銭的余裕は十分にある。
「すみません。本当によろしいのですか?」
「いえいえ、男として当然のことですから」
 心配そうな表情の広美さん。その向こうで雪姉が意味ありげな笑みを浮かべてこちらを
見ている。後で絶対ぶん殴る。
「すみません。ありがとうございます」

636 名前: 漢(大阪府) 投稿日:2007/04/01(日) 16:24:11.81 ID:1X3NlZw70
 ぺこぺこと頭を下げる広美さん。男は女に奢ってあげて当然という『不利な常識』が蔓
延る現代社会で、ファミレスの代金ごときでここまでお礼を言ってくれる広美さんは、か
なり希少な存在だと思う。俺の広美さん好感度がぐんぐんと上昇しているのが分かる。
「あ、私ちょっとお手洗いに行ってきますね」
 広美さんはそう言って、奥のトイレへと向かっていった。
 俺は伝票を持ってレジへと向かう。雪姉はそのまま当然のように外へと出て行った。
 雪姉がアホみたいに食ったせいで、代金は五千円を超えていた。後で雪姉からだけ、代
金を徴収してやろうかな。
 俺は一万円札をレジ係の人に渡した。レジ係がレジを打っている僅かな間に、俺はふと
奥のトイレの方を見た。と、丁度そのタイミングで広美さんがトイレから出てくるのが見
えた……って、え?
「言い忘れてたけど――」
 いつの間にか再び店内に入ってきていた雪姉が、俺の背後から突然話しかけてきた。
「広美っていうのは源氏名で、『彼』の本名は広樹って言うの」
「え……?」
 男子トイレから出てきた『広美さん』は、俺の横を笑顔で通り過ぎて、外へと出て行っ
た。
 『人間は常に『仮面』をつけて生きている』。
 俺は、雪姉の話の真の意味に気付き、同時に俺は雪姉の計画に乗ってあげていたのでは
なく、見事に嵌っていたことを悟った。
 なんであの人と雪姉が交友を持っているのかが、なんとなく解った気がした。


おわり



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