【 正しい青春のあり方 】
ID:sA7lCBoi0




547 名前: 受付(東日本) 投稿日:2007/03/25(日) 23:18:23.03 ID:sA7lCBoi0
 水野は尾崎豊に心酔していた。徹底的に。それは傍目にも僕の目にも明らかだったし、また水野自身も「俺が尊敬しているのは尾崎豊だけだ」と周囲に対して言っていた。
 イントネーションまで完璧に覚えてしまうくらい、僕はその台詞を水野の口から何度も聞いていた。
「あいつはさ」
 水野は尾崎豊のことを、よく「あいつ」と呼んだ。水野と尾崎豊が親しい間柄であったとは考えづらいし、そもそも水野と尾崎豊の間に接点があったとすら考えづらい。
 何より尾崎豊は、もう十年以上も前に亡くなっているのだ。
 けれど水野は尾崎豊のことを親しげに「あいつ」と呼んだ。あたかも二人が親友同士であるかのように。それはたぶん、水野自身の願望なのだろうけれど。
 ともかく喫茶店で今、僕の目の前に座っている水野は開口一番に「あいつはさ」と切り出した。
 またか、と僕は思った。
「あいつは、自分がいつ死ぬかをわかっていたんだよ……きっと、そうに違いないんだ」
 尾崎豊について話す時の水野の目は決まって輝いてた。怪しい輝きだった。
 その輝きの様子は、得体の知れない何かが発する光を、盲目的にその瞳に映しているかのようでもあった。
 僕は「そうだね」と言った。水野は続けた。
「偉大な人物は得てして自分が死ぬ時をわかっているものなんだ。キリストは言わずもがな。他には……とにかく、偉大な人物は大抵そうだ」
 水野の言葉には根拠がなかった。恋は盲目だと言うけれど、恋じゃなくても人は盲目になれるらしかった。
「さて、行くか」と水野が席を立って、僕もそれに続いた。
 暗がりの中、水野の運転するバイクに僕は乗った。盗品だった。夜の闇の中を、バイクは自分の存在を主張するかのように、それなりにうるさく進んだ。
 僕らが向かった先は、中学校だった。それは僕らが二年前に卒業した中学校だった。この場所に、この目的で来るのは、これが三度目だった。
「待ってなよ」
 そう僕に言い残して水野は校舎の影に消えていった。僕は一人バイクに座って星空を眺めていた。
 周りには明るい建物なんかないはずなのに、星はほとんど見えなかった。
 やがて遠くの方で何かが立て続けに割れる音がして、それから水野が駆け足で戻ってきた。水野がバイクに飛び乗って、僕らは勢いよく中学校から遠ざかった。
 暗がりの中、バイクの後方で徐々に小さくなっていく中学校は、何だか恐ろしく感じられた。
「学校なんか、クソみたいな場所だ。ブタ箱以下だ。そこでのうのうと暮らす俺たちは、囚人以下の存在だ」
 適当なコンビ二の前でバイクを停めると、水野は吐き捨てるように言った。
「そうだね」と僕は答えた。前にも聞いた台詞だった。
「囚人以下の存在だ」と水野は繰り返し言った。水野がコーヒーの空き缶をゴミ箱に捨てると、がちゃん、と音がした。
 僕と水野を乗せて、バイクはまた走り出した。僕も水野も十七歳の、夜のことだった。


548 名前: 受付(東日本) 投稿日:2007/03/25(日) 23:18:59.81 ID:sA7lCBoi0

 水野が尾崎豊の虜になってしまった原因は僕にはわからない。けれど高校の二年になった直後、初めて会ったときから、水野は既にこうだった。
 本人の口から聞く限りでは、尾崎豊を好きになったのは高校一年生のときだったらしい。そのとき水野は十六歳になっていて、十五歳をほんの数日前に終えたばかりだったという。
 そのことを、水野はひどく悔しがっていた。「十五の夜は俺にはもう来ない」と言ってしきりに嘆いていた。
 水野はあまり学校に来なかった。聞く限りでは、高校一年のある時期までは毎日学校に来ていたらしい。
 けれどある時期から、急に学校に来なくなったという。たまに学校に来ては尾崎豊の話ばかりしていたから、原因は誰の目にも明らかだったようだ。
 水野があまり学校に来なくなってからは、たまに学校に来るとほぼ毎回、水野は職員室へと呼び出されていた。そのたびに水野は不機嫌そうな顔をして教室に戻ってきて、それから不機嫌そうな顔のまま帰ってしまった。
「学校はクソだ」と水野はいつも言った。
 クラスメートは誰も水野と関わりを持とうとはしなかった。だから水野の話し相手は専ら僕だけだった。話し相手と言っても、僕はただ聞くだけだったけれど。
「俺はもう少し早く生まれたかった。あと十年ちょっとでいいから早く生まれたかった。あいつの歌を、この耳で聴きたかった」
「曲なら、いつだって聴けるじゃないか」
「違う。それじゃ意味ないんだよ。生の歌声を、俺は聴きたいんだ」
 僕はときどき、水野をここまで熱狂させる尾崎豊という人物を、すごいと思うことがあった。
 それは決して尾崎豊を偉大だと思うわけではなくて、ただ、一人の人物にここまでの影響を与えることに驚いていたのだ。
 だけど何度歌詞を見ても、曲を聴いても、僕は水野のようにはならなかった。なれなかった。
 積極的になろうとは思わなかったけど、もしかしたらという気はあった。けれど徒労だった。
 水野と僕は決定的に根本的に、何から何まで違っていた。

 あの中学校に、僕らはあの目的でまた行った。四度目だった。
 僕は校門のそばでまたバイクに座って、空を見上げて星を探していた。
 いつものように、遠くで何かが割れる音が聞こえた。
「やばい、やばい、逃げるぞ」と言いながら水野が走って戻ってきたのは、それからすぐあとのことだった。
 いつもの水野なら、こんなふうには慌てない。だから僕は直感でも理性でも「これはやばいな」と悟った。
 バイクは急発進した。僕も水野も、その間ずっと無言だった。


549 名前: 受付(東日本) 投稿日:2007/03/25(日) 23:20:01.09 ID:sA7lCBoi0

 その次の日、水野は学校に来た。三日ぶりだった。
 そうして待ってましたとばかりに、放課後に職員室へと呼び出しを受けた。中学校の窓ガラスを割っていたのがバレたようだった。警備員が、二年前に卒業した水野の顔を覚えていたという。
 僕がそこにいたことは、誰にも知られていないらしかった。
 水野が職員室にいる間、僕は教室でずっと考えていた。
 別に水野がどのくらい酷く怒られているかを考えていたわけじゃない。そのとき僕が考えていたのは、水野が変な奴かどうかということだった。
 教室には、僕の他には掃除当番しかいなかった。
 彼ら彼女らは、水野みたいに中学校の窓ガラスを割ったりはしないだろうな、と思った。
 水野みたいにバイクを盗んだりはしないだろうな、と思った。
 もちろん彼ら彼女らだって自転車を盗んだり、万引きぐらいはしているはずだ。けれど水野は尾崎豊の歌詞、つまり他人から影響を受けて、それらを行ったのだ。そんな奴は、クラスメートの中にはいそうになかった。
 けれどそのことと、水野が変な奴かどうかは別問題だった。
 僕には水野のことを、変な奴だと言う権利はないように思えたのだ。
 僕はこれまで、水野みたいに、悪いことをしてしまうほど何かに熱中したことなんかなかった。
 だから僕にとっての水野はある種の「憧れ」だった。水野が尾崎豊の中に、水野自身には足りない何かを見出していたに違いないように、僕も水野の中に、自分には足りない何かを見出していたのだ。
 傍目から見れば水と油のような僕と水野が友だち関係だったのには、客観的に見ればそこに理由があった。
 水野が職員室から戻ってきた。とんでもなく沈んだ様子で。無理もないなと僕は思った。
 これまで水野がバイクを盗んだり窓ガラスを割ったりしていたのは、純粋に尾崎豊の歌詞から影響を受けたからだった。水野を動かしていたのは、純粋な情熱だった。
 けれどその情熱は、今はっきりと罪として水野の前に突きつけられていた。
「ちくしょう……ちくしょう」
 机に突っ伏して水野は呻きだした。掃除はとっくに終わっていて、夕暮れの教室には、僕と水野しかいなかった。
「俺はもうだめだ……俺はもうだめだ……」
 水野の中では、情熱が行き場を失っていた。その純粋な情熱は、もはや許されない罪だった。
 かつて僕は尾崎豊の最期を水野から聞いていた。今の水野が同じことを仕出かすとは思えないけれど、それでも行き場を失った情熱が水野に何をさせるかわかったものではなかった。
 尾崎豊からの卒業。
 水野にはそれが必要なのでは、と僕は思った。
 遠くからバットがボールを打つ、かん、という音が聞こえて、それを合図にしたかのように、水野はのそりと起き上がった。
 それからカバンを引っ掴むと、ふらりふらりと教室から出て行った。
 僕はしばらく悩んで、けれど心に決めて、水野の後を追いかけた。


550 名前: 受付(東日本) 投稿日:2007/03/25(日) 23:21:05.01 ID:sA7lCBoi0
 水野が向かった先は、学校の中庭だった。夕方の日差しは弱弱しくて、けれど校舎をうっすらとオレンジ色に染めていた。
 ぽつりと立つ木の下の一人座っている水野に、僕は後ろから声をかけた。
「ここにいたのか」
「……何だよ」
 不機嫌というよりも、それは投げやりな返事だった。いつもの水野とは違う、からっぽな声だった。
 何か大事なものが、その声からは抜け落ちているようだった。
 僕は木を挟んで、ちょうど水野の反対側に座った。夕日が僕の顔を照らした。
「尾崎豊は……いや、俺は……馬鹿なのか? クソなのは、学校じゃなくて俺の方なのか?」
 後ろから、水野の呟きが聞こえた。
 水野の尾崎豊への情熱は、本物に違いなかった。たとえばアイドルのファンがそのアイドルの服装の真似をするように、水野は尾崎豊の歌詞を真似て、窓ガラスを割って、バイクを盗んだ。
 だけど水野は尾崎豊には、なりきれなかった。
 窓ガラスを割っている間は、盗んだバイクに乗っている間は、水野の頭には尾崎豊のことしかなかったに違いない。
 けれど、罪をはっきり意識させられてもなお平然としていられるほど、水野は悪い奴ではなかったのだ。不良ではなかったのだ。
 水野は、あくまでも純粋だったのだ。
「俺は、これからどうすればいいんだよ……」
 水野の中では、尾崎豊が、その輝きを失いつつあった。このままいけば尾崎豊はずるりずるりと、水野の中から消えうせるはずだった。段々と、時間をかけて。
 そうすれば、水野は尾崎豊から卒業したことになるはずだった。だけどその間、水野は長い時間をかけてじわりじわりと、自分の中の輝きを失うことになるはずだった。
 そんな水野を想像すると、僕の心はきりりと痛むのだった。
 だから僕は、心に決めたのだった。
「なあ、水野」
「だから、何だよ。言いたいことがあるなら早く言ってくれよ」
 夕日が僕の顔の赤らみを隠してくれることを祈りつつ、僕は言った。
「僕と、付き合ってよ」
「なっ」
 後ろで水野が立ち上がる音がして、それから僕の前に水野が姿を見せた。
 水野の長い髪は夕日を浴びて、オレンジ色に染まっていた。
 ふと風が吹いて、その髪と水野のスカートが、ふわふわと揺れた。水野の顔が赤いのは夕日を浴びていてもはっきりとわかって、ああ僕の顔の赤らみもきっと隠せていないだろうな、と僕は思った。
「ふ、ふざけんな。寝言は寝て言え!」
「寝言じゃないさ」
 水野はしばらく絶句して、それから僕の横に、すとんと腰を下ろした。「あーもう」と、水野がぼそりと呟いた。

551 名前: 受付(東日本) 投稿日:2007/03/25(日) 23:21:55.09 ID:sA7lCBoi0
「僕は、水野のこと、好きだよ」
「……何のつもりだ」
「水野は僕のこと嫌い?」
「だから何のつもりだ!」
「水野」
 僕は水野の方を見た。水野を直視できるか不安だったけど、その顔が赤くなっているのを見て、僕は少しだけ安心できた。
「僕のことを、好きになりなよ。尾崎豊よりももっと。尊敬なんかしなくていいから、ただ僕のことをひたすらに想ってよ」
 水野には、新たに情熱を向ける先が必要だと僕は思った。今すぐに。水野がじわりじわりと輝きを失うのを見るのは、僕は嫌だった。
「……あのな」
 長い長い沈黙のあとで、水野は口を開いた。
「自分で自分のことを好きになってくれって言う奴がいるか、馬鹿。恋愛ってのは、もっとこう……なんだ、とにかく、そういうもんなんだ」
「そうだね」とは僕は言わない。その代わり、僕はこう言った。
「それで、水野は僕のこと、どう思ってるのさ」
 すると水野の顔はますます真っ赤になって、僕は思わず笑ってしまう。小さないたずら心までが起こって、僕は続けた。
「あとさ、その言葉づかいも直した方がいいって。もっと女の子らしくしなよ。いくらなんでも、僕の彼女がそんな風にしゃべるなんて僕は嫌だよ」
「誰が彼女だ!」
 ふと僕は、水野がこれまで僕の前で一番多く口にしたであろう台詞を、思い出していた。
「俺は、どうして女なんかに生まれたんだろうなあ……」

 ともあれ水野は僕の彼女になって、尾崎豊からは卒業した。窓ガラスはもう割らなくなったし、盗んだバイクにももう乗らなくなった。
 それと同時に、僕にとっての「憧れ」だった、何かに熱中している水野は、僕の前からいなくなった。僕は、そんな水野から卒業した。水野を「憧れ」と思うことは、もうなくなった。
 代わりに、僕の彼女としての水野が現れた。
 僕は初めて何かに熱中するということを知った。だから今の僕には、こう言う権利があると思う。
「あのときの水野は変な奴だった」
 けれどそう言うたびに、水野は僕にこう言うのだ。
「当時のあたし以上に変な人が、いま目の前にいる」
 水野にはそう言う権利がある。
 それに水野がそう思うなら、それは正しいのかもしれなかった。相変わらず、根拠なんて、そこにはないけれど。

<了>



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