【 卒業の後先 】
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477 名前: 運動員(アラバマ州) 投稿日:2007/03/25(日) 22:10:55.28 ID:WqLEqV0V0
 分厚い遮光カーテンの隙間から、ゆっくりと朝日が差し込んでくる。
 ようやく春めいてきたこの季節、未だ冷たい早朝の空気は青白く。わずかに湿り気を帯びた清涼な風が、
薄暗い室内の澱みを浄化する。
 ――今日から、俺は生まれ変わるんだ。
 そんな決意を一層強固なものにする、清々しい暁。
 部屋の隅には積み上げられた五つのダンボール箱。未練はあるが、振り払わなくてはならない。
「うっしゃあ!」
 気合と共に、一年以上閉ざされたままのカーテンを開け放つ。カーテンレールから埃が舞い、ベランダに
とまった小鳥が慌てて飛び立った。
 薄いパジャマの下で全身の毛穴が引き締まり、鈍った頭も冴えてくる。夏はクーラー、冬はストーブ。運動と
呼べるようなものは、買い物に遠出する時に歩く程度。そんな怠惰な生活を送っていた俺が、自ら寒気に身を
晒すなど何年ぶりだろうか。
「俺は、生まれ変わる」
 堅い意志を口に出して確認する。それは自分自身への宣誓。散々甘やかしてきた己への戒め。
 今日から、俺こと堂島晃は、新たな人生を歩み始めるのだ。

「えぇっ! 良いんスか、こんなレア物貰っちゃって?」
「ああ。俺にはもう必要ない物だ」
 昼過ぎ。俺は大学に通っていた頃の後輩、木村を呼び出して五つのダンボール箱を譲ってやった。
「……どうしたんスか? 先輩、これは命よりも大事な物だって豪語してたのに」
 木村は何の罠だと言わんばかりに、不審そうに問う。当然だろう。今までであれば誰かに触らせるどころか、
見せる事すら拒否してきた俺の宝物だ。それを突然くれてやると言われて、疑問に思わないはずがない。
「俺は生まれ変わったんだ。一度命を捨てたも同然、それは今の俺には必要ない」
「まぁ、そこまで言うんなら。ありがたく頂いてきます」
 本当は俺の事情なんてどうでも良いのだろう、木村は嬉々として箱を漁り始めた。
「おい待て、ここで散らかすな。さっさと持って帰るのだ」
 箱から次々と取り出される、過去の遺産。甘美な香りを漂わせるそれは、俺を前世に引き戻さんとする。
二つ目の箱に手をかけた木村を強引にドアまで押しやり、残りの箱も玄関近くに運ぶ。さらに車に積み込むの
まで手伝ってやり、ようやく落ちついた。
「ところで先輩、一体どうして生まれ変わろうなんて思ったんスか?」

478 名前: 運動員(アラバマ州) 投稿日:2007/03/25(日) 22:11:45.12 ID:WqLEqV0V0
 去り際に、車のエンジンをかけた後で聞いてくる木村。出来ればもっと早く聞いて欲しかったのだが、気の
効かない後輩である。
「俺は、決めたのだ。――脱オタク、そしてニート卒業するとっ!」
 力いっぱい叫び、握り締めた拳を天高く掲げる。俺の意気込みを世界中に示さんばかりに。
 ところが空気の読めなさ世界一の男は、
「へぇ、頑張って下さいね。それじゃあ」
 と言い残すと、そのまま車を発進させたのである。後には馬鹿のようにポーズを決めた大人が一人。
 木村、やはりお前などに俺の遺産を託すべきではなかった。何故、どうして『何でそう決意したんスか』と
聞いてくれないのだ。青春を共にしてきた思い出の品々の行く末を案じていると、春休みに浮かれる小学生に
指差され笑われた。ああ、嫌な気分だ。今日はもう寝よう。一日目にしては頑張ったよ、うん。
 こうして、新生・堂島晃の転生初日は幕を降ろした。

 翌朝。十六時間ほど睡眠をとった俺は、寝すぎて溶けそうな脳みそで本日の予定を立てていた。
「脱オタクは果たした。次は――職に就く」
「時給千円以上で肉体労働じゃなくて食事付きで一日一時間からでも大丈夫なところは、っと」
 四畳半のボロアパートの一室に、陰鬱な声が響く。大学に入ると同時に始めた一人暮らし。二年で中退して
からも親の仕送りだけを頼りに生活してきた。これからは、それじゃあ駄目なんだ。俺は玄関から徒歩一分の
コンビニまでが生活圏の、この腐りきった生き方を改めなくてはならない。
 とは言っても、対人活動の苦手さは否めない。誰もが腹に一物抱えている、そんな穢れた世界が嫌でオタクの
ニートになった俺としては、職に就くのはとても勇気が要る事だ。
「それも今までの俺であれば、だがな」
 そう、俺は生まれ変わった。オタクも辞めた。この勢いで、ニートからも卒業してやるのだ。早速コンビニで
貰って来たフリーペーパーを捲り、アルバイトを探す。流石にいきなり正社員になるのは怖いから。
 ……自分がいかに世間知らずなのかを悟るまで、三十分もかからなかった。
「で、結局良いバイトが見つからないからって僕を呼び出したんスか」
 昨日の恩を無理矢理着せて、再び木村を呼び出した。それには訳がある。親以外に唯一普通に話せる相手
というのもあるが、この男は自分のバイト代だけでオタクライフを成立させている超人なのだ。
 オタクは月に十万以上をグッズに注ぎ込む。それだけの金を捻出できる以上、こいつのバイトはさぞ給料が
良くて楽なものに違いない。
「まぁ、先輩の更生の為になら協力は惜しまないスけどね」

479 名前: 運動員(アラバマ州) 投稿日:2007/03/25(日) 22:12:43.95 ID:WqLEqV0V0
 唯我独尊を地で行くようなマイペース木村だが、オタクとして一日の長がある俺には敬意を払ってくれて
いる。そこに昨日のプレゼントだ、今や俺のためになら命すら惜しむまい。
「すまんな。では先ほど述べた条件に合致するようなバイトを紹介してくれ」
「ありません。世間を舐めないで下さい」
 ぱらぱらとフリーペーパーを捲りつつ、一刀両断にされた。
「そんな訳があるか! お前のバイト先は違うと言うのかっ?」
 何箇所かページの耳を折り、さらに赤いマーカーで印をつけながら
「違いますよ。時給が良くて時間に融通は効くけど、肉体的にキツイっス」
 と溜息をつく木村。そういえばこいつの腹筋、漫画みたいな線があるんだよなぁ……
「とりあえず先輩にも出来そうなものをピックアップしときました。あとは時給や通勤時間なんかも考えて、
ご自分で決めて下さい。僕に出来るのはここまでスから」
 そう言うとフリーペーパーを放って寄越し、鞄を抱えて立ち上がる。これからバイトに行くそうだ。
「ありがとう、木村。お前の協力にも報いるため、俺は頑張るぞ!」
「先輩の親の為にも頑張ってください。それじゃあ」
 昨日と同じく突き上げた拳に、苦笑で返す木村。去り際の一言は何気に心に痛かった。
 さて、せっかくチェックしてもらったんだ、フリーペーパーを見てみるか。持つべきものは役に立つ後輩だな。
などと呟きつつ真剣にバイトを選んでいるうち、社会の厳しさを目の当たりにして精神的に疲れていた俺は
そのまま眠りについていた。

 大人二人が入ると、ことわざ通り『膝を突き合わせて話し合う』事になる狭い室内。荷物が多いとかでは
なく、元々部屋の広さが二畳程度しかないのだ。
 そんな精神的息苦しさ全開の事務所の中、俺は中年男性と向かい合っていた。バイトの面接である。店長の
顔に刻まれた皺は、老衰ではなく威厳を。窮屈そうな猫背は、ひ弱さではなくゴリラのような威圧感を漂わせ。
細く鋭い眼光は俺の隅々まで見極め、言葉の一つ一つが俺の本性を引きずり出す。
「堂島君、特技は何か?」
 腹に響く重低音で問いかけられ、石のように固まった姿勢のまま何とか返答を搾り出す。
「は、はい! パソコンの操作には自信があります。あとはアニメについてなら――」
「そうか」
 自分で尋ねておきながら興味なさげに遮られる。その態度に怒りを感じなくも無いが、それをはるかに凌ぐ
恐怖で何も言えない。

480 名前: 運動員(アラバマ州) 投稿日:2007/03/25(日) 22:13:44.30 ID:WqLEqV0V0
「経歴に『大学を中退』とあるが、それ以降の空白の期間は何を?」
 ビクリ、と身を竦ませる。やはり聞かれたか。決意の日から受けたバイトの面接は三つ。ここで四つ目だ。
最初の面接、俺は久しぶりに他人と話すことへの緊張で、返答の内容を吟味する余裕が無かった。二回目は
それなりに考えて返事をする余裕が出来た。三回目は、予め答えを用意していった。
 そしてその全ての面接で、俺はこの問いに悩まされた。
「そっ、それは……」
 最初は緊張の余りに正直に、二回目は言葉を濁し、三回目は嘘をついて見抜かれ。これまでの失敗はこの
質問のせいだと言っても過言ではないだろう。
「それは?」
 事前に対策は練っていた。『実家の農業の手伝いをしていました』と、そう応える予定だった。
 だがしかし。この眼前の男に、虚言を吐く勇気は無い。バレたら命が危ないと、本能が訴えてくる。
「それは――ニートです」
 俺は諦めた。採用されなくたって良いさ、と開き直った。
「他人と触れ合うのが恐ろしく、誰とも接する事なく生きたい。そう願って空想の世界に逃げ込んでいました。
昼過ぎに起きてコンビニで食料を買い込み、早朝までアニメやゲーム、ネット掲示板に浸る毎日。しかも、
生活費は全て親の仕送りです」
 呆気に取られる店長を尻目に、俺はヒートアップしていく。
「生きることが楽しいと思えませんでした。外の世界は辛いから、自分だけの世界で暮らしていました。
 ……でも、それじゃあ駄目なんです。俺は、一人の女性に出会いました。その人に認められたい。その人の
為に頑張ろう。そんな思いが募り、俺は、生まれ変わる事を決意したんです」
 息を切らせながら、己の全てを吐き出す。もはや、バイトの面接だと言う事すら忘れていた。ただ誰かに
自分をさらけ出したい。そして、自分の話を聞いてくれる都合の良い他人がここにいた。
 店長の眼光はますます鋭利に、俺の骨の髄まで突き刺さる。呆れているのだろうか。怒っているのだろうか。
 構わないさ。どうせ今回も採用されない。ならば言いたいだけ言ってしまえ。
「オタクとしての宝物を全て捨て、ニートから卒業するために働こうと決めました。正直なところ、人と話す
のは苦手です。けれど、いつまでも逃げてばかりはいられないんです!」
 ありのままに何もかもを言いきった。知らず、強く握り締めていた拳から一筋の血が零れ落ちる。
 店長は腕組みをして目を閉じ、そのまま微動だにしない。
「……すみません、一人で熱くなっちゃって」
 長い沈黙と重い空気に耐え切れず、俺は頭を下げて逃げ出した。

481 名前: 運動員(アラバマ州) 投稿日:2007/03/25(日) 22:14:47.83 ID:WqLEqV0V0
 失敗したという後悔と共にどこかスッキリとした気持ちで帰宅した俺は、数時間後に採用の電話をもらう。
 店長が鐘の音のような声で言うには、
「若者の挑戦を助けるのは大人の義務であり、最大の楽しみでもある」
 との事。どうやらあの熱弁が気に入ってもらえたようだ。

 その晩、バイト帰りの木村を自室に招いてささやかな宴会をした。木村はバイト程度で大げさだと言うが、
それくらい嬉しかったのだ。
「ところで先輩、その『一人の女性』って誰なんスか?」
 ビールの空き缶を潰しながらそんな事を聞かれた。ダンボール箱を渡した日に聞いて欲しかった事である。
「よくぞ聞いてくれた! その人はなぁ、誰よりも可憐で、誰よりも美しく、誰よりも優しく。それでいて
時に俺を叱り、俺を支え、俺を立ち直らせてくれる女神なのだっ!」
「答えになってねぇよ」
 木村が呆れたように何か呟いたが、酔ってテンション最高の俺には関係ない。
「どこで知り合ったんスか? 先輩の行動範囲に女性と出会えるような場所ってありましたっけ」
 何気に失礼なその問いにも腹を立てることなく、ついつい顔がニヤけてしまう。
「うふふふ。それはだね、木村君」
 気味悪そうに後ずさりする木村。そんな事はお構い無しに、自慢げに語る俺。
「ここだよ、ここ!」
「……はぁ?」
 ベッドの脇を指差す俺に向けられる、ポカンとした埴輪のような間抜け面。
「女神はな、ここに降臨されたのだ。そして俺の頭の中にいる。いつでも俺と一緒にいるのだ! どうだ、
羨ましいだろうっ? ふははははっ」
 笑い声をあげる俺に、頭の中の女神が微笑みかける。
「現実の女と違い、わがままも陰口も言わない。画面の中の女と違い、行動も台詞も無限大。まさに理想的な
恋人だとは思わないかね、木村君? 俺は彼女のお陰でオタクもニートも卒業出来たのだ!」
 木村は浮かれた俺から目を逸らし、壁に向かって何事かを呟いている。
「――――そういえば、卒業がすなわち終点とは限らないんだよな。小学校から中学校、中学校から高校。
卒業の後には、新たな段階への入学もあり得るんだ……」

 季節は春、俺の頭の中のお花畑にも満開の桜が咲き乱れていた。               ―完―



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