【 望郷 】
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673 名前: 男性巡査(三重県) 投稿日:2007/03/18(日) 23:35:50.71 ID:gEivhYM60
 記録者として、初めて今日は筆を取ろうと思う。別に書かなくとも良いのだろうが、他にすることもない。僅かでも、これが子孫のためになる可能性がある
のであるし。
 しかし、何を書けば良いものか。未だ俺は信じられぬのだ。
 妻が孕んだ我が子は、人の形をしてはおらぬと。彼女は異国の屋敷を産むのだと。
 嘆くばかりでは仕方がないということは分かっているが、どうしようもない。
 この屋敷に閉じ込められてから、満月を七回見た。
 俺らを監禁した張本人である、一ヶ月毎に食料を届けてくる男はどうしているものか。
 いっそ死んでしまおうかと幾度考えたことだろう。その度、慰みにでもなるかと読んでしまった、過去の記録が頭を巡る。
 思えば当然のこと。誰が望んで、この呪われた血を子に受け継ごうとするものか。自害したものは数知れず、しかし血は断ち切られてはいない。
 死した骸に沸く屋敷? なんと気味の悪い。そして限界にまで育った(そう、育つというのだ、家屋の形をしたものが)屋敷に赤子の声が響くという。
 到底信じられる話ではないが、あの男は笑いもせずに言い切った。己の血を悔やみ、恨めと。俺の血筋は意図的に絶やすこと叶わぬと。
 証拠に、嗚呼、嗚呼、確かに俺は、拾い子であった。
 何を書けば良いものか、未だ見当もつかぬから、俺の出生の話でもしよう。
 俺の父は各地を旅していたという。何やら見聞を広めるためだったと言っていた。そこで、不可思議な噂を聞いたらしい。
 曰く、この国にはあらざる屋敷が、ある片田舎に存在するらしい。誰も建てた覚えはないし、そのような建築技術も持っていない。無人だというのに、誇り
は一つとしてない。さらには気付くと、それは大きくなっている。
 好奇心に駆られ、屋敷に付いてみるとそこは既に朽ちていた。近くに住む村人が、薄気味悪さに耐え切れず火を付けたのだ。
 だが折角だからと辺りを徘徊していると、赤子の鳴き声を聞いたのだという。即ち、俺だ。引き取り手が見つからなかったため、父は自ら俺を育てることに
したという。

「ねえ、あなた?」
 男は、背後から聞こえた声に手を休め振り返った。筆が、汗でべとべとになっている。嫌々ながら始めたはずだったのに、いつの間にか熱中していたらし
い。
 膨れた腹と、浮かべた微笑。誰が見ても幸せな妊婦なのに、何故、と男は運命を呪った。
 想いを隠さない男に、女は憂いて近寄る。

674 名前: 男性巡査(三重県) 投稿日:2007/03/18(日) 23:36:17.92 ID:gEivhYM60
「また悩んでいたの? ねえ、祝福しては下さらない? 私と、あなたの子なのよ?」
「子ならば、祝福するさ。俺だって嬉しい。子ならば、人ならば、な」
「私は、私とあなたの子がどんな形でも元気に育ってくれればそれだけで嬉しいわ。そうじゃないかしら」
「お前は、悩まないのか。人でなき子を産むなど――」
「私だって悩んでいるわよ。子が人ではないなら、乳が張るんじゃないかしら、とか。どうすれば会話できるのかしら、とか」
 肩をすくめる妻は、おかしいとしか言い様がなかった。きっと、この呪いに取り込まれてしまったのだ。でなければ、こんな心底幸福そうな表情ができるは
ずがない。
 穏やかな顔をする女に反比例するように、男の機嫌は急降下していく。
 監禁された屋敷には、一ヶ月分の食料と、彼の先祖と思われる者たちの書いた書物だけが積まれている。来る人間といえば、何もかもを把握しているら
しい謎の男だけ。それも顔を隠している上に一言も喋らないため、何の気晴らしにもならない。
 愛した女性と二人きりというのも、このような状況下では気が詰まるばかり。
「……俺は忙しい。出て行けよ」
「はいはい。分かりました」
 続きを行うべく、筆を取る。紙は希少だというのに、男はどこからこんなにも手に入れてくるのだろうか。質は悪いようだが、それでも量を揃えるのは大変
だろうに。
 大人しく出て行くかと思えた彼の妻は、不意に振り返って笑った。
「ねえ、あなた。分かってるの? 祝福しようと呪おうと、どちらにせよ、もうすぐ、産まれるのよ」
 去り際に捨てられた声は、怖ろしいほどに平坦だった。

 屋敷に閉じ込められてから、満月を九回見た。それにしてもどうしてこんな屋敷なのだ。今まで見たことはないから、きっとこれが異国の屋敷とやらなの
だろう。不愉快極まりない。
 なぜか妻はこの異常な事態を受け入れている。過去の記録にもあるように、屋敷を孕んだ女はやはり例外なく、この呪いを喜んで受け入れるらしい。
 俺にとっては、子が人でないことよりも、愛していたはずの女性が自分とは相違する意見を持っていることの方が辛いかもしれぬ。
 そもそも、なぜ屋敷などを産むのか。脈々と継がれているということは、先祖が何らかの悪事を働いたのだろう。
 まだ読んではいない書を紐解けば、理由は分かるのかも知れぬが、もはやどうでもいい。
 ああ、そうだ。もはやどうでもいい。どうでもいいさ。俺も、受け入れるしかないのだろう。

675 名前: 男性巡査(三重県) 投稿日:2007/03/18(日) 23:36:53.58 ID:gEivhYM60
 月明かりだけが差し込む部屋で、男は彼自身の妻を抱き起こした。産まれたわ――と、息も切れ切れに、伝え、彼女は息絶えた。
 生まれた子を、無表情に男は手に取る。羊水に濡れたそれは、なるほど彼らの住む屋敷の形をしている。
 ふと、月以外の明かりが男を照らした。背後に聞こえる足音に、振り返りもせず彼は笑う。
「産まれた。これで、満足か」
 ははは、と。疲れきった、小さな声が断続的に響く。
「いいや、まだだ。まだ満足じゃない」
「まだ、続けるのか、これを」
「ああそうさ。永遠に、な」
 顔を隠す帽子を取り、ロープを脱いだ男の瞳に生気はなかった。まるで死んでいるようだと思うと、考えを見抜いたのだろう、男は顔を歪ませた。
「ふん。疾うに死んでいる。私は、ただの亡霊さ」
 あまりの憎しみのため、神の御許に還ることさえ出来なかった。
「まあ、だからお前らの苦しむ姿を見れるんだ。上々さ」
「……聞いてもいいか? なぜ、こんな異国の屋敷なんだ?」

 することもない。望むこともない。生きる理由もない。死ぬ意力さえない。
 だから、男の話を書き記すことにする。
 俺の先祖はそれなりの集落を支配していたらしい。そこに、ある日異国の男が足を踏み入れたという。すなわち、例の男だ。
 集落の人々は、最初は受け入れたのだという。しかし、男は禁忌を犯した。集落の巫女と、恋に落ちたのだ、と。
 そして人々は男を迫害した。異人なのだ、遠慮することもなかったろう。
 食べ物も、衣服も与えない。そうして彼は、当然に死んだ。集落を出ることすら出来ず、粗末な家屋に閉じ込められて。
 望郷の念を、帰れぬ異国の我が家を望み。 
 自分を受け入れなかった男が、不幸になるようにと呪い。
 ああ、なんと身勝手な。俺は関係ないじゃないか。そう、関係ないのだ。
 こんな子供が産まれたのは、俺の責任ではない。

 今も尚、未開の土地で、田舎の片隅で。
 そうして異質な子供は独り泣く。

終われ。



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