【 若葉の輝き 】
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655 名前: 宇宙飛行士(福井県) 投稿日:2007/03/18(日) 23:16:03.55 ID:CIZ/4FRo0
 この下宿に住んで、今年で二年目になる。
 ここは、明治時代に異人さんのために建てられたとかで、外見こそ赤レンガ造りで東京
駅を彷彿させるが、中は結構ボロボロ。中でも俺が住む部屋は、近代化に最も遅れている。
壁の上半分は真新しい安物の壁紙だが、床から五十センチの間だけは当時の物らしい黄色
っぽいタイルが一面に貼り付けられている。
 窓なんてステンドグラスだ。田の字型の格子に、若葉を思わせる輝く黄緑色と透明なガ
ラスが交互にはめ込まれている。上辺にはヒンジがあって、下から開けることができる。
だが、”ステンドグラスの窓は、古いため開閉すると壊れるので手を触れるな”と、先日、
回覧で注意されたことからも分かるように、夏場は風通しを確保できない。地獄だ。
 突然、窓の外から、族のような排気音が轟く。
「くそ、誰だよ。直管禁止だって回覧が回ってたろうが」
 俺はTシャツとトランクス一枚の格好で、坊主頭をかきながらちゃぶ台の前から離れた。
窓に手を添えて見下ろすと、茶色と緑が入り混じる庭が広がっている。あちこちで芝生が
まだらとなり、赤土が剥き出しになる様は痛々しい。あちこちに前輪が外れた単車や、ボ
ンネット開けっ放しの車が転がっている。庭の潅木に紛れて、得体の知れない線材がうち
捨てられているのも見える。
 その中で、一台の単車の前で何やら作業をしている奴がいる。
「あいつか。そういえば峠へ行くって言ってたな」
 俺は少しだけ窓を開き、隙間へ口元を寄せた。
「うるせぇぞ! レポートの邪魔!」
 多少すっきりした俺は、再びちゃぶ台の前へ座った。
 ここの売りは、庭がやたらと広いことだ。なので、工学部の学生にとっては趣味の作業
スペースが取れる楽園。それ故、入居希望の女子学生は、門から庭の様子を一瞥するだけ
で次の物件へ向かうそうだ。男臭いオーラを嗅ぎ取るのだろう。
 休日になると俺は、一日中スネ毛剥き出しのトランクス一枚で、ちゃぶ台へ向かってレ
ポートを書いている。門から外へ踏み出さない限り、これが下宿の正装だから恥ず事は無
い。近所の人は眉を潜めながらも、見て見ぬふりをしている。
 だが、たった今、俺は遺憾ながらもジーパンと安物シャツに着替えた。
 何故かというと、昨日、文学部三回生の女性が入居したのを思い出したからだ。
 ここ三十年ほど事実上男子寮同然だったそうで、むさ苦しい伝統をよくぞ打ち壊してく

656 名前: 宇宙飛行士(福井県) 投稿日:2007/03/18(日) 23:16:44.70 ID:CIZ/4FRo0
れた、と、下宿のオヤジは喜んでいる。だが、俺には開放感溢れた下宿ライフが、時代の
波に押し流されたように感じる。こんな思いをしているのは俺だけではないのだろう、他
の部屋に住む文学部の男二人が、彼女と入れ替わりに部屋を引き払った。新たなる自由、
転地を探し出す旅に乾杯。

「こんにちわぁ」
 女性の声。引っ越してきた彼女だろう。
「はい」
 一応、失礼が無いように、ジーパン着用を確認してからドアを開いた。そこには、きち
んとお化粧をした大人の女性が立っていた。髪は肩甲骨よりもちょっと下くらいで、白い
ブラウスにタイトスカート。バイトの面接か、就職活動の最中といった雰囲気の格好だ。
肌の色は白く、ちょっとぽっちゃりかな。
「あの、私、昨日引っ越してきました」「あ、初めまして」
 そんな調子でぎこちなく二、三の言葉を交わした。彼女は俺の背後に広がる部屋を、物
珍しそうに眺めてから、素早く俺の方を向き直した。その目線にどのような意味があるの
かはよく分からない。が、今の俺にそんな事はどうでもいい。
「それでは、よろしくお願いします」
 と、彼女は、小さなクッキーの袋を俺に持たせてから、ドアを柔らかく閉じた。
 ローヒールの音が消えるまでの間、俺は直立不動のまま、身動きがとれなくなった。あ
れほどの女性が入居したことが、それほどショックだったのだ。
 俺はふと気になって、下半身へ視線を落とした。大丈夫だ、ジーパンを履いている。
 ちゃぶ台の前へ座り直し、レポート用紙を目の前にした。全然文字が進まない。自由定
規もさっき曲げたままの形から、少しも変わっていない。
「なんで、あんな女性が好き好んでこんな所へ?」
 よく分からない。だが、どうでもいい。これは天佑なのだ。
 おっとりとしていて、自然体な雰囲気を纏う彼女。いいな、あんな子。
 いや、夢を見るな。あれで彼氏がいない訳は無い。高校生じゃない、天下の女性大生な
のだ。それが現実だ、それが普通だ。女日照りで餓死者続出の工学部と彼女とでは、住む
世界が違う。
 俺は、ボールペンを置いてから両手を組み、ため息をついた。

657 名前: 宇宙飛行士(福井県) 投稿日:2007/03/18(日) 23:17:24.99 ID:CIZ/4FRo0
 自分の妄想で自分を押しつぶすのはやめよう。くよくよしても仕方が無い。いつものペ
ースに戻ろう。彼女の事は気にしないようにしよう。すぐには無理かも知れないが、その
うち慣れるだろう。

 便所へ行こうと廊下へ出た。すると、そこで再び彼女と出くわした。
 予想もしていなかった出会いに、声が詰まる。
「お、あ、どうも」
 俺の狼狽ぶりをよそに、彼女はゆっくりと会釈をした。
「すみません、ちょっとお部屋を拝見したいんですが?」
 言葉は丁寧だが、唐突に、しかも俺の部屋を見せろだと? それが何を意味するかより
も前に、何故か自分の下半身へ視線を落とした。大丈夫だ、ジーパンを履いている。
「部屋、ですか。でも汚いですよ」
「ちょっと見せてもらえるだけでいいです」
 食い下がる姿勢を見せてきた。理由はよく分からない。まず、自分の部屋の状況を思い
浮かべた。不道徳な書物や映像媒体がちょっと心配だが、それ以外は健全だ。
 俺は後ろ手でドアノブを回して開き、もう片手で部屋の中を指し示し、彼女を促した。
 彼女は部屋の中へ数歩進んで、
「うわあ」
 と、ひまわりのように笑顔を咲かせた。
「俺の部屋、そんなに面白いですか?」
「あ、いえいえ。ちょっと、その、測らせてもらいますね」
 そう言って彼女は、胸元のポケットから基板むきだしの回路をひとつ摘み出した。
 右手に持ち、部屋のあちこちで振り回すと、特定の方向でスピーカーから引っかくよう
な音が響いた。更に彼女は少しずつ音の方向へにじり寄り、やがてある部分に突き当たった。
 ステンドグラスだ。
「やっぱりウランガラスですね」
「は?」
 俺は目と口を大きく開いた。
 だが、そんな俺を無視するかのように再び部屋のあちこちで振り回し始めた。同じよう
に別の場所でも突き当たった。それは、壁紙の少し下、タイル部分であった。

658 名前: 宇宙飛行士(福井県) 投稿日:2007/03/18(日) 23:19:28.52 ID:CIZ/4FRo0
「これ、釉薬がウランですね」
「は?」
 更に俺の口が大きくなる。彼女は満面の笑みを浮かべて俺の方を振り返った。
「ここ、想像以上に凄いですね。ウランガラスは通学時に何度も見てましたから知ってま
すけど、まさかタイルまで」
 基板剥き出しの回路を握ったまま、彼女は両手を伸ばしてくるりと半回転した。
 放射性物質マニア、と自分のことを紹介した彼女は、この部屋にある窓ガラスとタイル
はウランを含んでいる、大変珍しく、興味深い物だと言った。
 なんでも、大昔の放射性物質に対する認識は、混ぜ具合によってはいい色が出る、とい
う程度だったそうだ。それで高級ガラス製品等に使われていたらしい。だが、原爆開発に
絡んで第二次世界大戦で製造中止となり、今ではちょっとした貴重品らしい。
「ウランガラスで板ガラスって、凄いです。その上、これだけびっしりとタイルがあるな
んて、他では見たことがないです」
 あ、そうですか。しかし、俺はそのウランに囲まれて二年目を迎えるのだ。
「俺、大丈夫ですか?」
「えーっと。かなり近くでも、国の基準以下みたいですし。大丈夫でしょ」
 と、基板の液晶表示を覗き込みながら言った。
 大丈夫といわれても。姿形の無いものに襲われるという感覚は気味が悪い。何かいいこ
とと引き換えなら我慢するが、何のメリットも無いのだ。
「そうですか。念のために俺、下宿のオヤジへ部屋を替えてもらいます」
「駄目」
 彼女は、即座にそう言い放った。そして、眉を潜めながら俺に迫る。
「この部屋へ他の人が入居してきたら、私、また話を通し直さなければいけないじゃない
ですか。君はこうして部屋に入れてくれるけど、他の人だとこうはいかないかもしれない」
 いや、どうしてそう自己中心な物の言い方をするんだ。俺は被爆するんだぞ。まあ、今
までも被爆していたのには違いないが。
「じゃあ、あなたの部屋とここ、入れ替わりましょうか」
 我ながらいい提案を出した、そう思った。
 だが。
「私の放射性鉱物コレクションが一杯あり過ぎて。そろそろ国の基準と核物質関連法に引

659 名前: 宇宙飛行士(福井県) 投稿日:2007/03/18(日) 23:20:30.87 ID:CIZ/4FRo0
っかかりそうだから、もうこれ以上増やすとまずいの」
 眉間に皺を寄せて訴える彼女。マジかよ。そんなに大量の放射性物質を抱えてるのか。
 ここで、文学部生の男二人が入れ替わりに引き払った理由にやっと気づいた。
 奴等は、彼女の趣味を知っていたのだ。
「基準値以下だから、気にすることないって。大丈夫、ね?」
 そう言って、絹を撫でるような手つきで俺の肩へ両手を沿わせた。まじまじと潤んだ目
で俺を見つめるのは勘弁してくれ。悪女に狙われるって、こんな感じなのか?
 健康面だけを考えると、放射性物質なんて徹底排除するのに越したことはない。だが、
問題ないレベルだと彼女は言う。何よりお友達になる武器は、この部屋にしか無いのだ。
 俺を含めて工学部の学生は、車や単車や電子回路やパソコンのガラクタで溢れているが、
唯一、女性だけは存在しない。
 どうする? 命をかけてお友達を作るか、それとも命大事に生きるか。

「こんばんはー」
 カギを閉めてある筈のドアが開かれ、片手にはおかず満載のお皿、もう片手には懐中電
灯を握る彼女が現れた。
「あ、こんばんは」
 いつの間にか、合鍵を作って勝手に入ってくるようになってしまったのだ。
 友人からは役得だの色々といわれるが、こちとら魂を見えないナイフで削りながら彼女
と接しているのだ。羨ましいならお前達の魂も少し削ってやろうか。
 そう思い悩む俺を尻目に、彼女は無言で蛍光灯を消し、手に持つ懐中電灯を灯した。深
くうっすらとした紺色の光芒が窓ガラスを照らす。すると、黄緑色にまばゆいほど輝き出
す。部屋中が初夏を思わせる色で染まった。
「綺麗……このウランガラスは格別。ウランの含有量が多いのかしら」
 輝きを見つめ、酔いしれたような表情で、彼女は怖い賛美の言葉をつぶやく。
 これがあの時以来、もう毎晩続いているのだ。
 一通り眺めると、蛍光灯の健全な明かりで二人の晩御飯が始まる。俺と彼女とはそれ
なりに話ができているし、こうしているのが楽しい。彼氏もいないとのことだ。果たして、
二人の仲は進展するのだろうか、いや、進展しても大丈夫なのだろうか。
 出会った時とは違い、いろんな意味で不安だ。



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