【 煙と泡 】
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541 名前: か・い・か・ん(東京都) 投稿日:2007/03/18(日) 16:26:11.72 ID:PQ3+Jibi0
 綾はティーカップを持ち上げた。
 シャンデリアの灯りがカップの中の紅をわずかに濃くしている。紅茶の香りは彼女を朝のまどろみから引き
上げてくれた。一口啜ってから窓へ目をやると、和風の庭園に立つ灯篭が見える。今では喫茶店として利用され
ているその部屋は、むかし応接間として使われていたらしい。そのためか見晴らしが良く、庭園の鮮やかな緑を
間近で眺められた。
 文月綾(ふづきあや)がいるのは長楽館という三階建ての古い建物だ。京都の四条駅から歩いて十分、円山公園
を背に建つ洋館である。中は部屋ごとに異なる建築様式が取り入れられていて、喫茶室はロココ調の軽妙なデザイン
が柱や壁に施されていた。
 がさがさという耳障りな音が綾に近づいてきた。目線をそちらへやるとスーツ姿の男が彼女の方へ向かってくる。
「よう文月、いい朝だな?」
 額の汗をシャツの袖で拭きながら、皮肉っぽい口調で男は言う。
 彼は綾の卓にコンビニエンスストアのレジ袋を置いた。
「才木先輩。何買ってきたんですか、そんなに」
「コーラ」
 袋の中には五百ミリリットルのペットボトルが十本近く入っていた。
 綾は呆れる。もうすぐ八月である、重いコンビニ袋を抱えて外を歩くのはこの暑さの中では大変だったろう。
「よっぽどコーラが好きなんですね」
「目当ては中身じゃなくて、こっちだよ」
 才木はペットボトルの首に掛けられた小さな袋を取る。
「何ですかそれ」
「知らないの? 食玩だよ食玩」
 才木が綾の隣に座って袋を開けると、小さな人形が出てきた。見た事のある映画のキャラクターがキャップの
上に乗っている。
「お人形集めが趣味とは思いませんでした」
「そういうのとは方向性が違う。少女趣味によるお人形集めは愛でるのが目的だが、食玩コレクターの場合は
集める事自体が最大の目的なのさ」
 才木は、全てのシリーズをコンプリートするのだと息巻く。
「それより、これから小梨先生の結婚式があるんですよ。そんな物持って出席するつもりですか」
「フロントに預けるから大丈夫だよ。……まったくずるいよなあ、文月だけここに泊まれるなんて」

542 名前: か・い・か・ん(東京都) 投稿日:2007/03/18(日) 16:26:44.23 ID:PQ3+Jibi0
 長楽館には宿泊施設もある。しかしそこはレディースホテル、女性専用である。才木は昨夜はビジネスホテル
に滞在したようだ。
 大学に入って才木圭吾に出会うまで綾に知る機会などなかったが、世の中には洋館マニアというものが存在
する。才木と綾は立命館大学の同好会、洋館研究会のメンバーだった。
 彼と同じゼミに所属したのがきっかけで、誘われるまま会に入ったものの、綾には未だに何が面白いのか理解
できないでいた。建物の歴史を調べたり写真を眺めたりしてどこが楽しいのか、首をひねるばかりだ。自然と
幽霊部員にもなる。
 もっとも実際に訪れるなら話は別だ。こうして豪奢な建物を目の当たりにすれば、洋館に魅せられてしまう
気持ちは彼女にも分かった。
     ◇
 才木がウェイトレスに注文を頼んでいると、五十代半ばの男性が喫茶店の中を覗きこんだ。綾と目が
合うと彼は困った顔で歩み寄ってきた。
「おはようございます、角田先生」
 角田は綾たちのゼミの教授だ。
 今日式を挙げる小梨香織は角田の助手である。年は二十七歳だったと綾は記憶している。 
 大学の関係者で式に出席するのは彼ら三人のみだった。長楽館には六十名余りを収容できる多目的ホールと
三十名足らずしか入らないレストランがあり、そこが結婚式の披露宴に使われていた。小梨はほとんど身内だけ
で式を挙げる事にしたため、小さなレストランの方を選んだと聞く。ゼミ生には二つ枠が用意され、綾と才木が
参加した。
 角田は部屋を見回してから二人に聞く。
「君たち、小さな子供を見なかったかい。五歳くらいの女の子なんだが」
 綾と才木は顔を見合わせる。才木が首を横に振るのを見て、綾は答えた。
「私たちは見てませんけど」
「困ったなあ、着替えさせなきゃならないのに。見かけたら教えてくれないか」
 女の子の特徴を教えた後、角田は頭を掻きながら喫茶店を出て行った。
 教授のお孫さんかしらと綾が考えていると、才木の前にアイスコーヒーが届けられた。
 彼はコンビニの袋を鳴らして煙草の箱を取り出す。
「ちょっと先輩、ここ禁煙ですよ」
 綾が眉をひそめると、才木は顔をしかめた。
「何でさ」

544 名前: か・い・か・ん(東京都) 投稿日:2007/03/18(日) 16:27:15.36 ID:PQ3+Jibi0
「何でも何も禁煙なんです。喫煙所か、隣の部屋に行ってください」
 長楽館の喫茶室は二つあり、喫煙者用ともう一つに分かれている。こちらの部屋は禁煙だ。
「昔はこんな事、考えられなかったんだけどなあ」才木はそう嘆くが、綾とは一歳しか違わないはずだ。
「だいたい、ここは煙草王が建てたんだ。なのに禁煙なんておかしいだろ」
「煙草王?」
「そう、村井吉兵衛という実業家さ。村井は日本で始めて両切り紙巻き煙草、つまり今の形の煙草を売り出して
成功した人なんだ。それまでは煙草と言えばキセルで吸う物だった」
「ふうん、そうなんですか」
「しかし成功までの道のりには色々あった。岩谷松平というライバルがいて、二つの会社が煙草業界の覇権を
競い合ってたんだ。路上パレードで宣伝して人目をひく営業戦略に出た岩谷、それに対抗するようにして村井が
取った方法とは――」
 まるで見てきたように話す才木の腕を、小さな手が引っ張る。
「ねえ才木のおじさん、お人形わたしにも見せて」
 突然現れた子供はテーブルの上の食玩を指してそう言った。七、八歳くらいの少女だ。
「おじさんではない、お兄さんと呼びなさい。そしたら見せてあげよう」
 綾は見た事のない子供だが、どうやら才木の知り合いのようである。教授が探していた女の子の特徴と似ていた。
「先輩。この子、先生が探してた子でしょうか」
「うん、きっとそうだな」
 その少女を見ながら、七年後には自分も誰かと結婚しているのだろうかと綾は想像を巡らせた。だが、なかなか
イメージが膨らまなかった。七年の間に何があれば自然に結婚を考えるようになるのか。いつかその時になって
みなければ分からないのかもしれない。
 二人は席を立った。少女をフロントへ連れて行き、角田を呼び出してもらうためだ。
 レジで支払いを済ませていると、才木が唐突に言った。
「この子のおかげでクイズを思いついた。これと煙草の共通点が何か分かる?」
 彼は手にしている袋を持ち上げた。
「はあ……、コーラと煙草の共通点ですか」
 綾は考えるが、煙草の味も知らないし、何をどう考えれば良いのかさっぱり分からない。
「さっきの話の続きだと思えばいいよ」
「と言われましても」
 彼女は適当に話を聞いていたのであまり記憶に残っていない。才木は笑った。

545 名前: か・い・か・ん(東京都) 投稿日:2007/03/18(日) 16:27:47.96 ID:PQ3+Jibi0
「ちょっと問題がずるいか。じゃあ、キャラメルとコーラの共通点は?」
「あ、それなら分かります。……とすると、答えは――」
     ◇
 教会で新郎新婦が入場した時、綾はしばらく瞬きを忘れた。あまりにも驚いたためだ。
 ウェディングドレスを着た花嫁は、ウェディングドレスを着た娘を連れてバージンロードを歩いたのである。
彼女は子供と手をつないだまま誓いの口づけをした。
 少女が二人を見つけて手を振る。さっきの女の子だった。
     ◆
『――答えはおまけ、ですね』
『当たり。村井社長は煙草にポスターやカードをおまけに付けて売ったんだ。グリコの先駆者みたいなものか。
今でもライターなんかのおまけ付きで売られる煙草は結構ある。喫煙者には普通の事なんだけどね』
     ◇
 式の後で二人は喫煙所に寄った。才木が煙草に火をつける。タイミングを見計らって綾は切り出した。
「小梨先生に子供がいるって、先輩は知ってたんですか?」
 才木は煙を吐きつつ頷く。
「家が近いんで、たまに子連れで歩く先生に会うからな。学生の時に結婚して産んだんだってさ。卒業してから
前の旦那とは離婚したらしいけど」
「そんな、どうして今までずっと隠してたんですか!」
「隠してたつもりはない。単に話題にならなかったからで、別におかしくはないだろ」
「おかし過ぎますよ、もう」
 彼女にとっては重大ニュースである。人に教えないなどというのは考えられない。
 重ねて、小梨に子供がいた事がショックだった。同じくらいの歳で結婚して子供まで産んでいたのだ。なんだか
相当な差をつけられているような気がして、綾の中にほんの少し焦りが生じている。遠くに感じていた『いつか』
が、急に近づいて見えた。
 綾は将来持つかもしれない家庭を想像してみた。
 食卓に朝食が並べられ、そこには子供が三人、そして自分の隣には――。
 いくら何でも、これと結婚はないだろうなあ。
 目の前の男を見て綾はそう予想する。付き合っている訳ではないが、彼らはよく一緒にいるので勘違いしてい
る人間は学校に多い。

546 名前: か・い・か・ん(東京都) 投稿日:2007/03/18(日) 16:28:20.69 ID:PQ3+Jibi0
「ん? 何?」
 見つめられ、狼狽した様子で才木は言う。
「何でもないです。それよりさっきあの子のおかげでクイズを思いついたと言ってましたけど、子供をおまけ
みたいに言うのはひどいですよ」
「……すまん、言い方がまずかった。悪い意味じゃないんだ。
 そうだ、一度先生の横にいた旦那に会った時、子供ができて嬉しいって言ってたぜ。
 あんな可愛い子が自分の子供になるんだから当然だろうけど」
「それだったらまあ、別にいいんですけど」
 喉に刺さった小骨が取れた気分だ。
 見ると、才木はまだ何か言いたそうに口をぱくぱくさせていた。他に打ち明ける話でもあるのかと綾は待つ。
唾を飲み込んでから彼は言う。
「あー、なあ、他に見たい建物があるから見て回ろうと思うんだが、文月も来ないか。
 洋館研究会の会員として勉強になるだろうから、洋館巡りのついでに色々教えようと思うんだ。
 変な意味じゃないぞ、デートとか」
 どうやらデートに誘いたいようだ。彼の口からそういう言葉が出るのは初めてである。
 綾は考える。それくらいは構わない。嫌いではないからこうして一緒にいる。けれど、はっきり好きと言える
ほどだろうか。もし何かの拍子で付き合う事になって、後からそうじゃないと気づいても困る。
 ふと彼女は思いつきを試してみたくなった。
「ついでって事は、私は洋館巡りのおまけなんですね?」
 彼がどう反応するかで綾は答えを決めるつもりだ。
 才木は見るからに慌てている。
「いやそうじゃないんだ、言い方が悪かった、是非来てくれ。来て下さい」
 ちょっと情けないけどまあいいか、と綾は思う。
 その後、素敵な切り返しを期待していた自分に気がついた。心のどこかで、素直になれるきっかけが
欲しかったのかもしれない。
 綾は窓を見た。
 公園の方から油蝉の合唱が聞こえる。外の気温を想像すると喉が渇いた。
「じゃあ、さっきのコーラで取引きしませんか? 一つ私にくれるなら行きます」(了)



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