【 喪失ノ小部屋 】
◆O8W1moEW.I




115 名前:喪失ノ小部屋(1/4)  ◆O8W1moEW.I 投稿日:2007/03/11(日) 23:52:12.35 ID:L8DPhrLx0
 嫌な夢を見た。
 故郷の、青々と繁った野原を風を感じて駆け回る、嫌な夢。
とうの昔に、体はそんな感触など一切を忘却していたはずなのに、心は未だそれに執着しているのだろうか。
もしそうなら、私はなんと未練がましい男なのだろう。
窓から差し込む樺色の夕暮れに染まった自らの肉体を見下ろしても、それはもう人間としての体を成していないというのに――
 ――目線を下ろしたその時、横目に何かふっと映った気がした。
それは人の形をしていたように見えた。
私は畳の編み目をなぞるようにして、おそるおそる顔を上げ、それに目をやった。
 
 乙女であった。
まるで本物と見間違うほど精巧に細工された、和服を羽織ったうら若き乙女の人形である。
肩まである長い髪に、くりっとした瞳、艶っぽい唇。実に、見目麗しい日本人形であった。
どうしてこんな物がここにあるのか、そんなことは私にとって大した問題ではなかった。
 おそらくは、一つ上の私の姉が、一人部屋に篭る私の身を案じて、少しでも淋しい思いをさせまいと置いていったのであろう。
私は姉と二人で暮らしているのだ。
同じようなことが、以前にも幾度かあった。
本当に余計なことをする女だ。
私はその女が人形やら本やらを用意するたびに、それをこの二階の部屋の窓から下界へ向けて放ち捨てるのである。
私は姉の同情に満ち満ちた大きな瞳と、そのずっと奥に隠れた小さな優越感が、堪らなく憎々しかった。
 それなのに、私は今回に限って、なぜだかそれを捨てる気にはなれなかった。
自分でも不思議でならなかったが、数日経って、この一種異様な感情に私なりの結論を出した。
私はきっと、この人形に心底惹かれているのだ。
私は彼女の桜色の着物があまりに美しいものだから、その人形を『さくら』と呼ぶことにした。
それ以来私は、さくらによく話しかけるようになった。
「私は仁……桜田仁という名だ。さくら、さくらよ……お前の名はさくらだ。
お前の召し物の柄、桜と言う花……そこから名づけた。
鴇色が目にも鮮やかで、心地よい香りがする、この季節に咲く美しい花……それがお前の名だ。
さくら、お前は美しいな。それに比べて私はどうかね。きっと実に奇妙に見えていることだろうな……」

116 名前:喪失ノ小部屋(2/4)  ◆O8W1moEW.I 投稿日:2007/03/11(日) 23:53:13.66 ID:L8DPhrLx0
 私は自分の袴(はかま)を、足の付け根のところまでたくし上げてみせた。
「怖がるのも無理はない。見ての通り、私の両足は完全に切断されているんだ。
四年前、露西亜との戦争があってね……私は陸軍にいたんだが、見事に露助の大砲を喰らってこの有様だ。
足だけじゃない。ホラ、お顔を上げてごらん……
見えるかい、黄色い膿でぐちゃぐちゃになって嗅覚を失った鼻と、紫に腫れてまるでお岩さんのようになったまぶたが。
実に気味が悪かろう……君のような美しい乙女に、果たして私の気持ちがどれほど理解できるのだろうね」
 さくらはただじっと、私のほうを見据えていた。
服や肌を通り越して、心の中まで覗かれているような、そんな気持ちにさせられる目で。
「ずっとこの部屋にいるのもそんな経緯のせいさ。もう私は全ての思考を停止した、ただの醜い肉塊に過ぎない。
……さくら、お前もお前で惨めな女だ……それほど美しい体に生まれてきたというのに、よりにもよって物言わぬ人形とは。
そういう意味では、お前も私も片輪者同士なのだな。人として必要なものが欠落し合っている……
私はお前に、このわずかな心というものを差し出してやりたいよ。
どうせ私が持っていても意味の無い代物なのだ。きっとお前のほうが上手に使ってくれるだろうな……」
 その日私は、さくらと夜を共にした。

 翌日、私は強烈な胸の痛みによって目を覚ました。
あまりの激痛に、体中の血液が急上昇してきたかのように顔が真赤になる。
 しばらくのた打ち回っていると、ふと、自分の傍らにさくらがいなくなっていることに気がついた。
私は痛みをこらえつつ、両腕で体を化け物のように引きずって、部屋の中を隈なく捜索した。
すると、机の上にちょこんと立っているさくらが目に入った。
 もしや姉の仕業であろうか。夜、私の部屋に入り込み、人形と添い寝する私を気違いだと思って、気味悪がって人形を離したのか。
いや、あるいは、私とさくらとの関係を、私の現実からの倒錯であるとあざ笑い、面白半分で私たちを引き離したのか。
私は胸の痛みもすっかり忘れ、激しい憎悪の塊となっていた。
 その時、私の耳に、定期的に刻まれる時計の針の音のようなものが聞こえてきた。
それは、確かにさくらから発せられている音であるということが、彼女に近づくたびに確実なものとなっていく。
私は机に手を伸ばし、両手でさくらの木で作られた固い頬をそっと撫でると、優しく彼女の着物を剥ぎ、幼さの残る上半身を露にさせた。
音は、胸から聞こえてくるようであった。一定の間隔で刻まれる、トクン、トクンという音。
それは決して人形に仕込まれた機械仕掛けの細工の類ではない。紛れも無く、心臓の轟き、生命の気配であった。
きっとさくらは自らの意思で、私の知らぬ間に動き出したに違いなかった。

117 名前:喪失ノ小部屋(3/4)  ◆O8W1moEW.I 投稿日:2007/03/11(日) 23:53:49.19 ID:L8DPhrLx0
 私は姉に、自分の部屋に入ることを、
正確に言えば、部屋の襖のところまで来ることを許しているのは、朝と夜、姉が食事を運んでくる時だけだった。
私はさくらにも、この同居人の存在を知っておいてもらったほうがいいだろうと、食膳を運んできた姉を紹介した。
「さくら、こちらは私の御姉様、桜田ルリさんだ」
姉は一瞬とまどった表情をしてみせたが、すぐに持ち前の笑顔を取り繕って、さくらに微笑みかけると、そそくさと退散した。
美しくない女だ。

 胸の痛みはあれからずっと続いたが、それにもすっかり慣れてしまった。
だが、それを境に、体は変調をきたしはじめた。視力が急激に落ち、耳も遠くなり、ろれつが回らなくなり、体が無性にだるくなった。
「さくら、私はこの頃おかしいんだ。目がぼんやりとして……眼鏡を変えてみたんだが、駄目なんだ。君の顔がよく見えないよ」
霞の中で、さくらは私にそっと微笑んだように見えた。
「いつの間にか、そんな表情もするようになったんだね……もしかして、私の命を吸っているのはお前なのかい。
それなら私は嬉しいよ。お前の血となり肉となって死ねるのなら……それは本望というものだ。
さあ、さくら……もっと、もっとこっちへおいで……」
 私がそう言うと、さくらは嬉しそうな顔をして、着物の裾を揺らして私の元へ駆け寄ってきた。
その時から、私の目は何も映さなくなった。


『仁……』
口も利けなくなった私は、布団の中で、さくらの髪をそっと撫でた。なんだい、ちゃんと話は聞いているよ。
『仁……仁は、本当に平気なの』
私はゆっくりと頷く。さくら、愛しているよ。私は本当に嬉しいんだ。私の命を君が生きるために捧げることができた。
それで私は幸せだよ……
私は、さくらの人の皮膚のように柔らかい頬をそっと両手で包んだ。体が燃えるように熱い。全ての血管から血が噴出しているようだった。
さくらを胸の中で抱きしめながら、私は絶命した。

118 名前:喪失ノ小部屋(4/4)  ◆O8W1moEW.I 投稿日:2007/03/11(日) 23:54:14.72 ID:L8DPhrLx0
「極度のノイローゼだったのでしょう。お気の毒に……」
 桜田ユリは、葬式に参列した親戚の医師にそう告げられた。
四年間もずっと部屋から一歩も出なければ、誰だって気が狂ってもおかしくはない。医師はそう言った。
桜田仁は体中の皮膚をナイフで削ぎ落とし、それにより出血多量で死んでいた。
とても、親族に亡骸を見せることのできる状態ではなかった。
火葬が済むと、ユリは途端に安堵に包まれた。これで仁の体から、薬が検出されるようなこともあるまい。
ノイローゼになっていたのはユリの方だった。
四年間に渡る弟へのたった一人での介護に、ユリは精神に以上をきたす寸前まで追い詰められていた。
この男のせいで、自分の人生を棒に振るなんてまっぴら御免だと思った。
それがたとえ実の弟だとしても、である。
ユリは、強い殺傷能力と幻覚作用のある毒を、仁の食事の中に少量ずつ投与し続けていた。
一ヶ月前、仁は何も無い空間に向かって、まるでそこに誰かがいるかのように、ユリを自分の姉だと紹介していた。
もう後戻りは出来ない。ユリはそう感じていた。
「長かった……」
だが、もうこの長く苦しい四年間は終わりを告げる。今度こそ、四年間を棒に振ってしまった分だけ、自由な生き方をしよう。
 家に戻ると、もうここには自分ひとりしかいないということを実感する。
もうこんな大きな家はいらないだろう。それに、自分にとって嫌な思い出ばかりの場所だ。さっそく明日にでも売り払ってしまおう。
『こんにちは、ルリさん』
後ろから声が聞こえた。






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