70 名前:隣の住人 1/4 ◆KARRBU6hjo 投稿日:2007/03/11(日) 23:19:52.90 ID:5wDmvWJ10
私がこれから記す話は、恐らく、一般的には信じがたい部類の話になるのだろう。
私自身、何も知らない状態でこのような話をされたとしたら、正直、困惑するしかないだろうと思う。
到底信じる事など出来はしないし、或いは、語り手の正気をすら疑うかもしれない。
だが、それでも、私はここに、何一つ偽りの無い真実を書き留めるつもりだ。
私が住んでいるアパートの右隣りの部屋の住人は、どうやら引きこもりであったらしい。
どうやら、というのは、私がそこまで彼の事を詳しく知らないからである。
私は彼と一度も会話をした事が無いし、玄関の前で鉢合わせをした事も無い。
大学に入学すると同時にこの部屋に私が入居した時から、私は隣人の姿を見たことがないのだ。
隣のドアが開け閉めされる音をすら聞いた事がないのだから、恐らくは相当に筋金入りだったのだろう。
彼の部屋の郵便受けには既に色あせた広告が折り重なり、かなり長い間、それを受け取っていない事が容易に想像出来る。
もしや人が住んではいないのではないかとも考えたが、夜にはちゃんと明かりが点くし、物音もする。
それに、こう言っては何だが、気味の悪い、独り言のような声もよく聞こえていた。
誰かが私の隣の部屋に住んでいるという事は、覆しようの無い確かな事実だったのだ。
彼の生活音は一日中、どんな時間でも聞こえてくる。彼が外出している形跡はほとんど無い。
だから私は長い間、彼は引きこもりなんだろうと考えていた。
部屋から一歩も外に出ずに生活するのは不可能だと思っていたが、案外何とかなるのかもしれない。
霞でも食っているのだろうかなどと益体の無い妄想をしながら、私は姿の見えぬ隣人の生態を想像する事を、密かな楽しみの一つとしていた。
果たして、だからと言って、私は彼に関わってみようなどとは毛ほども思っていなかった。
隣の住人が引きこもりだろうが何だろうが、私には至極関係の無い事である。
迂闊に接触して面倒な事態になるのは御免だし、今更煩わしい人間関係を彼と築くのは億劫だった。
彼のぼそぼそという独り言くらい、壁越しに聞いている分には何も問題もない。
こちらに実害さえ出なければ、彼が何をしていようと私には全く興味はなかった。
しかし、そのうち、そうも言っていられなくなるのである。
71 名前:隣の住人 2/4 ◆KARRBU6hjo 投稿日:2007/03/11(日) 23:20:43.72 ID:5wDmvWJ10
異変が始まったのは、私が部屋に入居してから半年が経とうとしていた時期だった。
隣から僅かに漏れてくる独り言の頻度が、次第に多くなり始めたのだ。
当初、私はそれをあまり気に留めていなかったが、それが隣人の奇行の始まりであった。
隣人は突然奇声を上げるようになり、次にばたんばたんと大きな音を立てて暴れるようになった。
何を言っているか分からない独り言は延々と繰り返され、その声も、ぼそぼそと呟くような声から、一人で会話をしているような声へと変化していた。
いい加減に煩わしくなり、隣人に対し文句を言いに行った事もあった。
だが、彼は一度も玄関のドアを開ける事はなく、部屋の中からはがたごとと物音がするだけだった。
そのような事態が続き、私は、この隣人は気が狂ってしまっているのではないかと思うようになっていた。
仕舞いには何か腐ったような異臭がするようになり、流石に我慢が出来なくなった私は、大家に連絡を取る事にした。
大家の話では、私の隣人は同じ大学に通う学生であるらしい。
電気代やその他諸々は親から支払われており、以前に会った時は、問題のある人物には思えなかったそうだ。
しかし、そんな事を言われても現状は変わらない。
大家に様子を見に行かせるという約束を取り付け、私は問題が解決するまで、実家へ戻っている事にした。
実家で待っていても、大家からの連絡は一向に来なかった。
仕方なしに一度アパートへ戻り様子を見てみたが、隣人の奇行は相も変わらず続いている。
異臭は以前よりもさらに強くなっていたし、聞こえてくる声は、最早人間とは思えないような有様である。
大家は一体何をしていたのかと思い、今一度大家に連絡を入れてみると、彼女は二週間前から行方が知れないと家族に告げられた。
さて。
これは、問題である。
まさかとは思うが、しかし、どう考えても、そうであるとしか考えられない。
私はすぐさまに警察に連絡し、駆けつけた彼らと共にドアを破り、隣人の部屋へと突入した。
72 名前:隣の住人 3/4 ◆KARRBU6hjo 投稿日:2007/03/11(日) 23:21:26.20 ID:5wDmvWJ10
狂人であろうと何だろうと、人間である以上、それは人間として扱われるべきだ。
理解出来ないからと言ってその人間を怪物扱いするなど、もっての他の行為である。
正気であろうと狂気であろうと、それは人が持つ人格だ。
人間として生まれた存在は、最初から最後まで人間である。少なくとも、私はそう思っていた。
だが――だが、本当に、そうなのだろうか?
その現場を見た時、私はそのあまりの異常さに怖気が立ち、暫く何も考える事が出来なかった。
隣人の姿はなかった。どうやら私たちの物音を聞きつけ、既に逃げ出していたらしい。
開け放たれた窓の外に、何か、人の影のようなモノが見えた気がする。
体中を寒気が駆け回り、どうしようもない吐き気が込み上げた。ぐらぐらと視界が揺れる。
撒き散らされた糞尿、抜け落ちた髪の束、極彩色で書き殴られた訳の分からない絵の数々。
元は家具だったらしい残骸で作られた、人のようなカタチをした奇怪なハリボテ。
壁の彼方此方には歯形が付き、そしていくつかは実際に食い破られている。
そして。
そこには、見るも無残な姿の大家の死体が、まるで塵か何かのように、転がっていた。
具体的にどのような姿だったかは記述したくない。
思い出すだけで、気を失いそうになる。
私は。
私はこのような惨状のすぐ隣で、何も知らずに暢気に生活していたのだ。
ばたばたと警官が行き交う中、私はその場に跪いて、暫くの間、胃の中身を吐瀉し続けた。
逃げた狂人の捕り物劇は、予想外にも、何とか一晩で終了したらしい。
私はその間、警察署の一室の中でがたがたと震える夜を過ごしていた。
彼らがどうやってあの隣人を捕獲したのか、あの隣人は一体どのような人間だったのか。
最早私は知りたくも無いし、考えたくも無い。
後に私の元へ事後報告にやってきた男は、彼はとある精神病院へ入院するとこになった、と私に告げた。
しかし。
それが嘘であるという事を、私は知っている。
73 名前:隣の住人 4/4 ◆KARRBU6hjo 投稿日:2007/03/11(日) 23:22:14.17 ID:5wDmvWJ10
あの日、私は見た。
警察署の一室の、窓の外。
対面のビルの壁に張り付き、暫くの間、じっと部屋の中の私の姿を伺っていた一つの影を。
異様に巨大化したぎょろぎょろと蠢く目玉を、砕けたようにぐちゃぐちゃとなった顎を、全身を覆う瘡蓋のような物質を。
それに、ああ、恐ろしい、それが剥がれた後の、ぬめぬめとした、あのグロテスクな皮膚を!
私は見た、ああ、確かに、私は見てしまったのだ!
私の方を向いて嗤った、あの悪夢のようなバケモノの姿を!
人間としての正気も狂気も失った、あの恐ろしい隣人の成れの果てを!
私はあの日、確かに、その姿を見つけたのだ!
それ以降、私は自分の部屋に閉じこもっている。
外にはあの怪物がいる。あの男はもう安心していいなどと抜かしたが、私に嘘を吐いている時点で怪しいものだ。
あの隣人が捕まっていない可能性は十分に考えられる。恐らく、彼は私を恨んでいるだろう。
彼の生活を邪魔したのは私だし、それに、もしそうでなければ、あの日彼が私を見張っていた理由が分からないからだ。
私は自分の部屋にバリケードを作り、彼の襲撃に備えた。
極力外出は控え、食糧は一度に大量のモノを買い込むようにしていたが、それもそのうち止める事にした。
人間、食べようと思えば何でも食べられるものである。
私は武器として包丁を研き、部屋の中で懸命に身体を鍛えた。
準備は出来ている。彼が襲ってきても、私は戦える。
そう思うと私はやっと安心し、眠りにつく事が出来た。
部屋の中にいる今の私には、恐ろしいモノは何も無い。
その代わり、怪我をした訳でもないのに身体のあちこちにぽつりぽつりと出来始めた瘡蓋が、今の私のたった一つの悩み事だ。
終。