【 ただ、高みを求めて 】
◆D7Aqr.apsM




58 名前:ただ、高みを求めて 1/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/03/11(日) 23:12:29.89 ID:2tm5EBzW0
 アスファルトの熱さを頬に感じて、我に返った。
 力の入らない四肢を無理やりに動かして立ち上がる。
 あがりっぱなしの心拍数につられるように、息は荒い。
 フェーイは空に向かうようにまっすぐに伸びた坂道を見上げた。
 足元には、カーボンフレームのロードレーサー。ペダルとギアの銀が、太陽の光を
反射して目に痛い。ドロップハンドルを装備し、総重量六キロに満たない軽量な車体は、
繊細な工芸品を思わせるのに十分な優美さを持ち合わせていた。しかし、今その
フレームは大きく裂け、砕けたカーボンの破片を撒き散らして横たわっていた。
 時速八十キロを超える下り。そしてその後に待ち構える急な右カーブ。
 そのカーブをいかに高速で駆け抜けるか。それが最後の上り坂を――このヒルクライム
 レースを――制する者を決める鍵だった。
 めまいがして路面にへたり込む。
 ハンドルの上につけられたサイクルコンピューターが、電子音を発しながら
エラーの発生を告げていた。
「ごめん。勝てなかった。これは――あたしの、ミスだ」
 腕時計の文字盤ほどの大きさのそれに向かって、フェーイは声をかける。
 樹脂製のヘルメットをむしりとるようにして脱ぐと、ヘルメットの中にまとめていた
長い栗色の髪がばさりと肩に落ちた。上気した白い肌は、汗にまみれている。
ガードレールにもたれかかって、上を見上げる。黒く光るアスファルトは、
まるで壁のように、空に向かってまっすぐに伸びていた。
       ◆
 自転車で山岳地帯の峠道を走り、タイムを競う。それがヒルクライムレース。
 舗装路、悪路を問わず、この形式のレースは、古くから存在していた。
 峠道を走り、自分の体重と、自転車の重さを高みへと引きずり上げるにはグラム単位の
軽量化が求められ、結果として鉄のパイプでできていたフレームは、アルミやマグネシウム
などを経て、カーボンファイバーやチタンに置き換えられた。そして、速度やクランクの
回転数を表示しているだけだった、サイクルコンピュータは今やAIを装備され、トレーニングから
レースまで、ライダーのパートナーとも言える役割を担っていた。

60 名前:ただ、高みを求めて 2/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/03/11(日) 23:13:27.99 ID:2tm5EBzW0
 重くきしるような音を響かせて、ファクトリーの大きな鉄製の扉が開く。
「あててて……やっぱまだ傷に響くな」
 フェーイは一週間ぶりに自転車用のガレージ、自宅の倉庫を訪れていた。
 明かり取りの天窓から差し込む光が、無骨な鉄骨がむき出しになった室内を薄ぼんやりと
照らしている。中央のスタンドに、かろうじて支えられた愛車が裂けたフレームをあらわにして
たたずんでいるのが見えた。割れたカーボンフレームを元に戻す方法は、無い。
「あたしの傷は治るんだけどなあ」
 ハンドルバーにかけられた黒いベルトを取り、首輪のように巻き付ける。
 喉に当たっているのを確かめて、つぶやく。
「サイコン、ウェイクアップ」
 軽い電子音をたてて、ハンドルにつけられたサイクルコンピュータの電源が入る。
デスクトップの端末から伸びるケーブルを差し込んだ。
 デスクトップのモニタが息を吹き返し、サイコンの状態を表示するアプリケーションが
立ち上がった。
>>We lose.
 赤く、小さな文字が画面に表示された。
「ごめん。あたしの判断ミスだ」
 最終コーナー前。長い下り坂。心拍数はとっくに限界値を超え、坂を登り切る体力は
残されていない事をサイコンは示していた。
 作戦通りでは勝てない。計算上の限界を超えるのならば。
 ノーブレーキで最終コーナーをクリアするしかない。誰もが思いつくが、今まで
誰一人として成功した者はいない。極限まで軽量化された車体が、果たして
どこまで耐えるのか。それは分の悪すぎる賭けだった。
 カーブの出口、細いタイヤは地面を捉えきれずに、フェーイを乗せた車体は転倒し、
ガードレールに向けて一直線に滑った。
      ◆
 長い髪を無造作に一つに束ね、端末前の椅子に座り、キーボードを操作する。
 暗い倉庫の中で、モニターが青白い光を放つ。次々と画面が書き換わり、前回の
レースの分析結果が表示された。

61 名前:ただ、高みを求めて 3/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/03/11(日) 23:14:32.17 ID:2tm5EBzW0
 最終コーナーまでのタイム。優勝した選手のタイム。心拍数と、ペダルの回転数。
消費したカロリー。グラフが次々と書き換わる。
「トレーニング?」
>>Not enough time.
 筋力量と次のレースまでのスケジュールが表示される。必要な筋力量が蓄え
られるのは、レースの予定を大幅に越えていた。確かに、時間は足りない。
「減量で、勝てる可能性はある?」
>>No chance.
 グラフの一部が赤く強調表示される。同時に、女性の体とおぼしきシルエットが
表示された。胸の部分がするするとへこむ。
>>Also, no good for your body shape.
「うっさいわね。 あたしの胸なんてほっといてよ」
>>Anyway, we need new flame.
「そうね。フレームは、変えなきゃね。候補は? ……って、ブレーキとか
ギア回りは流用できるでしょう?」
 買い換えの為のフレーム候補の一覧と共に、ブレーキやギア回りの一覧が表示
された。
>>Wireless System will save weights.
 ギアやブレーキを操作するのに張り巡らせられるワイヤを無線信号で代用する、
ワイヤレスシステムはケーブル重量分を軽量化することができるはずだった。サイコンすら
角度を自動的に調整される。しかし――。フェーイは疑問をそのままキーで入力した。
「動作は油圧だから、軽量化といっても三グラム程度じゃなかった?」
 画面は一瞬止まり、少ししてメッセージが表示された。
>>Only way to win.
「必殺技とでも言いたいわけ?」
>>Trust me.(信じろ)
「信じろって……。わかったわよ。こないだはあたしがドジふんだしね」
 画面に表示された文字が、強調するように瞬く。サイコンに搭載されているのは、
レースに勝つためのAI。それ以上でも、それ以下でもない。フェーイはキーボード叩き、
フレームの注文を行う。軽い電子音がそれに応え、画面は暗転した。

62 名前:ただ、高みを求めて 4/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/03/11(日) 23:15:08.28 ID:2tm5EBzW0
 風が耳元でうなりを上げる。
 ハンドルに取り付けられたサイコンがシフトダウンを表示すると、自動的にギアが
切り替わる。
 坂と坂の間にあるわずかばかりの平地でペダルを踏み込み、思い切り加速する。
細かくギアを調整して、足の回転数を落とさないように、坂を上る。
 三ヶ月後。
 フェーイとサイコンは微調整と数度の試走を経て、今、レース終盤にさしかかっていた。
 サングラス越しにコーナーの出口を睨みながら、ペダルを踏み込み、クランクを回す。
>>Lookin' Good.
 サイコンの画面に表示される文字。目で、うなずく。確かに調子は悪くない。
 大きな右のヘアピンカーブを抜けると、最終コーナーへ続く坂道が見えた。
>>Okey KICK IT.
 自動的にギアがトップに切り替わる。サドルから腰を上げ、ダンシング。ペダルを踏み込む。
 フェーイは猛然と加速しながら、最終コーナーに続く下り坂に突っ込んでいった。
 
 ブレーキをかけるまでのカウントダウンがサイコンに表示。
 中腹から漕ぐのを止めたフェーイは、体を低く、後ろに引き、ブレーキに備えた体制で
坂を駆け下りる。固いカーボンで焼き固められたフレームが、荒れた路面でよじれた。

>>Now!
 ブレーキレバーを思い切り握りこむ。
 勢いを殺しきらないうちに、最終コーナーを曲がり始め、ペダルを踏み込み始める。
 しかし。
 心拍数も、回転数も、前回と同様に限界値を超えていた。
 このままだと、最後の坂で失速する。それは、根性などというものではなく、生理学的な
限界点。肺が悲鳴を上げる。
 サイコンは、今、ゴールまでのタイムだけを表示している。カーブ直前で蓄えたスピードは
既に失われつつあった。荒い息を吐きながら、フェーイはハンドルを握りなおす。呼吸で酸素を
取り入れ、体に蓄えた養分を燃やし、エネルギーに変換する。ただ、ペダルを漕ぐだけの機械。
 それが、今のフェーイだった。

63 名前:ただ、高みを求めて 5/5  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2007/03/11(日) 23:15:44.31 ID:2tm5EBzW0
 サイコンに表示された文字を視界の端に捉え、フェーイは息をのんだ。
 短い電子音。
>>Farewell, young lady.
 別れの言葉。
 同時に、フレームから短い噴出音。ブレーキユニットやレバー吹き飛んだ。のぞき込む
ようにして見ると、ギアも操作ユニットが脱落している。アスファルトに落ちたパーツが
軽い金属音を響かせて転がり落ちる。そして最後に、サイコンがハンドルから吹き飛んだ。
 
 今、そこにあるのは、ただ、坂を駆け登るためだけの車体。
 斬り捨てた部品の分だけ軽量化されたそれは、斜面を徐々に、徐々に登り始める。
 ゴールラインが見える。
 汗が目にしみる。
 クランクを回すためだけに、息を吸い、吐く。
 体中の力を、ただ、前に進むためだけに使う。
 あと五メートル。
 三メートル。
 二十センチ。
 そして、タイヤがゴールラインをまたぐ。
        ◆
「あんなのは勝ちじゃない。あたしは認めないからね」
 ガレージの端末の前で、ヘルメットの代わりに帽子を被ったフェーイは独りごちた。
 端末から伸びるケーブルの先には、画面がひび割れ、傷だらけになったサイコン。
 デスクトップの画面には、We Won. の文字があった。
「パーツの脱落はレギュレーションすれすれだったし。第一ね、あんたを拾いに
行くのにどんだけきつかったか解ってるの? ……あんたの重さくらい、なんとかするわよ」
 帽子を取ると、フェーイはショートカットになった髪に手ぐしを通す。
 サイコンは短く電子音を発し、ライダーの体重を微修正した。
 勝つために。

<ただ、高みを求めて> 了



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