【 ジークムント・フライト 】
◆Pj925QdrfE




50 名前:ジークムント・フライト(1/5) ◆Pj925QdrfE 投稿日:2007/03/11(日) 23:07:33.10 ID:1v9rUdVL0
 人並み外れた超天才宇宙科学者が「一人で宇宙船に乗りたい」なんて言い出すから何かおかしいとは思ったが、
そのままどこかに居なくなってしまった。そいつは宇宙科学の先端も先端を行く奴だったから、地上に居る
人間たちが慌てふためいたのは言うまでも無い。それどころか、そいつは自分の研究室にあったデータの
ほとんどを一緒に持って飛んでいってしまったもんだから、彼の研究を頼りにしていた人間達は大いに憤慨し、
口々に彼をののしった。
 そして、後に彼の私室で見つかった「遺書」のようなもの――。そこにはたった一行、
“争いの無い世界へ”
 とだけ、記されていた。

 ま、そいつが僕の事なんだけど。
 コールドスリープが解け、ウン十年ぶりに自分の力で呼吸をはじめた時、思い出されたのはそのような事だった。
僕の頭の中では時事であっても、今では歴史の教科書上の出来事――といったところか。目覚めたときすぐに時間が
分かるようにと隣に置いておいた時計は、地球の標準時で二一一一年を指していた。
 まだぼんやりとしている頭をはたきながら、僕は柔らかな毛布を敷き詰めた機械からはいずり出た。
普段の――といっても半世紀以上前の――感覚で立ち上がって歩こうとすると、足が言うことをきかずそのまま
倒れこみ、堅い地面に鼻を打ちつけてしまった。相当足腰が弱くなっているらしい。まあ当然か。
 面倒な説明は省いて、この宇宙船の中は地上と似たような環境になるように調節されている。温度、湿度、気圧、
そして重力。腕の筋肉まで劣化していることに気がついた僕は、芋虫が這いずるような格好でベッド付近の
冷蔵庫に近づいた。僕の接近を感知して開いた冷蔵庫の中には、自動で栽培された茶葉から成る冷たいパックのお茶が
たくさん並べてある。その一つを手にとって飲み干すあいだに、手足のじんわりとした痺れが取れて
ようやく一人で立ち上がれるようになった。
 目の前に置かれた大きなディスプレイには、僕の体調やら室内のデータやらがこと細かく表示され、リアルタイムに
更新されている。半世紀を越えるコールドスリープから目覚めた人間のデータなんてものはそう採れはしないだろうと
僕はディスプレイに駆け寄り、自分の体調について数年分のログを他のデータバンクにコピーしておいた。かといって、
こんなデータを僕の他に誰が見るんだろう。

51 名前:ジークムント・フライト(2/5) ◆Pj925QdrfE 投稿日:2007/03/11(日) 23:08:05.09 ID:1v9rUdVL0
「お目覚めになりましたか」
 柔らかい少女の声。声の主は、出発した当時としては最新式のアンドロイド(ガイノイドというのか、まぁそれは
置いておいて)であるサリーからのものだった。旅の供および睡眠中の船内の管理を任せるために連れて来たサリーだが、
時を経ても正常に動作しているところを見ると僕が作ったプログラムに欠陥は無かったのだと分かる。
 一人娘の名を与え、その姿をモデルにしたアンドロイドの頭を、僕は感謝の念をこめて撫でた。
彼女の表情がうっすらと明るくなった気がした。
「今はどの辺りを飛んでいるんだ?」
「冥王星軌道付近を航行しています」
 彼女がそう言うと、ディスプレイの映像が切り替わって現在位置付近の映像とこの船の位置を示す光点が現われた。
「随分遠くまで来たもんだな」
 同意の代わりに彼女はディスプレイを凝視した。更に手を空中でふわりと動かす。
「超遠距離通信のデータを受信しています。といっても随分前のデータですが。ご覧になりますか」
 僕は首を縦に振った。するとディスプレイには久しぶりに見る仲が良かった同輩の顔が写った。
同輩ははじめ怒りの表情で僕の行動を責め、データだけでも持って帰って来いとしきりに声を荒げたが、
年月が経つにつれ顔の皺を増やしながら、同輩の表情は諦め、そして悲しみに変わっていった。
通信履歴は四十年前の記録で途切れていた。最後の通信は彼が定年を迎えたということを彼自身が告げたところで終わった。
 コンピュータの動作音のほかには何の音も聞こえず、しばしの沈黙が場を支配する。アンドロイドが
どこまで複雑な情緒を理解できるかは分からないが、僕は溜息をついてつぶやいた。
「これで誰からも忘れられたって訳だ、僕の存在は」
 アンドロイドは返事をしなかった。
「……都合がいい。これでもっと遠くまで飛んでいける」

52 名前:ジークムント・フライト(3/5) ◆Pj925QdrfE 投稿日:2007/03/11(日) 23:08:36.21 ID:1v9rUdVL0
 目覚めたからといってやることも見つからない。僕は船内に設置されていた様々なレクリエーション施設で
暇を潰していた。体の正常が確認できたら、再び長い眠りに入ってさらに遠くへ飛んでいくつもりだ。
 そんなこんなで三週間ほど過ぎ、そろそろ眠るかと考えていた頃に、サリーが僕を呼び出した。
「どうした。機器の異常か?」
 サリーはなにやら忙しく操作パネルの上で手を動かしている。
「違います、お父様」
 体がこわばった。サリーに対して自分のことを「お父様」などと呼ばせるプログラムを組んだ記憶がなかったからだ。
遥か昔のことだったから、忘れているのかもしれない。後でプログラムは確認しておこう。僕はサリーに続きを促した。
サリーが立ち上がり、こちらを振り向く。冷たい眼光に、僕は射抜かれたかのようだった。
「私は嘘をつきました」
 アンドロイドにあらざる言葉だった。長年の使用で、ついにガタがきたのだろうか。サリーの言葉を疑いつつ僕は更に聞く。
「現在、この船は月軌道の周辺を航行しています」
 サリーがそう答える。
 すると突然、ディスプレイそして船内の窓という窓がスモークを纏い始めた。そしてそれが晴れたとき、窓を通して
 僕の目に映ったのは太陽の光をいっぱいに受けた丸い月だった。突然の出来事に僕は呆然とする。
「大変申し訳ございません、お父様。私はあなたを騙していました」
「どういうことだ、サリー」
 僕は自分の声が荒くなっていることが分かった。
「お父様、あなたの望みはかなわないのです。全てはたった一つの希望を守るための周到な作戦でした。
人間はあなたを必要としています」
 サリーの冷たい目に悲しみの感情が宿る。その青い目はなおも僕を射止めて離さない。
「あなたは遠くへ逃げたのではありません、逃がされたのです。あなたが宇宙へ旅立たれて数年の後、欲望を追い求める世界は
戦いの火を広げてゆきました。自分だけが先の見えない地球で生き延びようと、人々は奪い合い、壊しあい、やがて疲弊し
自らの成長を止めてしまったのです。あのまま残っていれば、恐らくあなたもその火の中に」
 サリーの声は機械のそれではなく、いまや感情をいっぱいにたたえた人間のような叫びだった。
「その戦火の元であなたの能力は充分に生かされないと考え、人間はあなたという個体の保存を決定しました」
 娘の面影をたたえるアンドロイドは、そこまで言い終えると突然ぼろぼろと涙を流しはじめ、そのまま泣き崩れてしまった。
 泣き崩れる? 馬鹿な。アンドロイドにこんな感情は無い。
 それに、何だって? 僕の望みが叶わないだと? 争いの無い、自分だけの世界へ飛んで行けないだと!
 こんなはずはない、こんなはずはない!

53 名前:ジークムント・フライト(4/5) ◆Pj925QdrfE 投稿日:2007/03/11(日) 23:09:12.52 ID:1v9rUdVL0
 僕はサリーの前を離れて、目覚めたあの部屋まで走る。醜く脚をばたつかせながら、かつての天才が見る影も無く。
僕はたどり着いた部屋であるものを探した。ナイフだ。これは夢だ。幻想だ。激しい痛みは僕を現実の世界へ連れて帰ってくれる。
部屋のあちこちをひっくりかえし、僕は狂ったように探した。
 見つけた! 僕は息を荒げながら、そのナイフを両手でしっかり握って首筋にあてがう。分かっている。僕の思考に論理性が
伴っていないことは。だけど僕の、あの醜い世界に痛めつけられた僕の、ささやかなたった一つの希望を!
 僕はナイフを引き下ろす。鮮血が飛び散る。だが痛みは無かった。
 当然だ。切れたのは僕の頚動脈ではなく、サリーの右腕だったからだ。
「お父様!」
 サリーは両目に涙をいっぱいに浮かべてナイフの刃を握り締めている。その両手からは止めどなく血があふれていた。血?
サリーはそのまま僕を抱きしめる。混乱した僕の頭が、サリーのあたたかい両腕に包まれて徐々に落ち着いてくる。
「サリー……いや、お前は一体、誰なんだ……」
 僕はサリーの腕に流れる血液に触れながら、声をひねり出す。アンドロイドに血液はない。
「サリーは私のおばあちゃんなの」
 彼女は痛みに震えた手で僕の頭をさする。そのうちに息は整ってゆき、僕に正常な思考が戻ってくる。
 そして彼女は抱きしめていた両手を離し、そのまま流れる血を止めようともせず近くのディスプレイに手を伸ばす。
「黙っていてごめんなさい。実はあと一つだけ、通信履歴が残っています」
 彼女が手を振るとディスプレイの電源がつき、二人の人間が映し出された。映し出された二人の顔はすぐに思い当たった。
記憶の彼女達よりは少し老けているが、間違いなくそれは僕の妻と、娘のサリーだった。
「お父さん」
 妻の唇が動く。そして語りだした。その内容は僕の隣にうずくまっている彼女が言っていた内容とほとんど同じことであり、
更に付け加えた事は、飛んでいく時に同乗したのはアンドロイドではなく娘のサリー自身であったこと、そしてそのサリーが
この船が月付近の軌道を周回するようにプログラムを変更したということだった。
 妻とサリーは何度も何度も僕に謝った。
「ごめんなさい。あなたの望みをかなえてあげられないと知りながら、私たちは嘘をついた。あなたの苦しみがどれほど深いかは、
私たちには想像できないわ。だから、あなたがこれ以上望むなら、プログラムを変更してもう一度飛んでいってください。私たちに
あなたを止める権利はないもの」
 そこで妻は息を整え、今度は笑顔で言った。
「だけど忘れないで。あなたがどれほど離れていても、私たちはあなたを愛しているから」
 ディスプレイの映像が途切れた。

54 名前:ジークムント・フライト(5/5) ◆Pj925QdrfE 投稿日:2007/03/11(日) 23:09:48.57 ID:1v9rUdVL0
 いつのまにか、僕は嗚咽していた。そして幾度と無く恥じた。
 僕は忘れていたんだ。僕が深く愛されていたことを。そしてそれを知りながら、その愛を見捨ててしまったことを。
何を一番大切にするかなんてことは、僕がずっと知りたかったことのはずなのに。
 どれだけの時間が過ぎたろう。僕は不意に隣の彼女がじっとこちらを見ているのに気付いた。
涙をぬぐって、僕は彼女に話しかける。
「君の名前は?」
 泣いていた僕に声をかけられるとは思わなかったのか、彼女は慌てた様子で口を動かした。
「メアリーといいます」
 ほんのりと頬を赤くしている。娘に似て愛らしい表情だった。僕は包帯の巻きつけられたメアリーの手を見ながら、
その頭をゆっくりなでてやった。
「痛かったろう、ありがとう。メアリー」
 メアリーははにかんで僕のほうを見た。
「忘れていたよ。ひ孫にまでこんなことをさせるほど、僕は愛されていたんだな」
 そして僕は、ディスプレイに映っていた二人の残像に思いを馳せる。
 愛を忘れて欲望のままに空を飛んでいた僕は、人間ではなかったのかもしれない。
 ――だって、愛し合うからこそ、人間なのだから。
 僕は立ち上がって歩き出す。向かう先は操縦室だった。
 そして、忙しくプログラムを変更しながら僕は考えていた。今はもう生きているかも分からないが、
もしあの二人に会えたら最初に何を言おうか。
 ディスプレイの真ん中、船の針路を描く矢印は、青く光る地球を指し示していた。
 戻るんだ。再び人間になるために。



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