【 豚の方法 】
◆hemq0QmgO2




43 名前:豚の方法(1/2) ◆hemq0QmgO2 投稿日:2007/03/11(日) 23:01:23.04 ID:YEysq6x+O
 珈琲に溶けてしまいたい。ハイカラな珈琲屋の窓硝子は薄汚れている。或いはそういうデザインなのだろうか。
戦争が終わって、世の中は解らなくなった。昨日までの神が神でなくなり、英雄が犯罪者になり、俺は豚になった。
 三年前、焼夷弾で灰にならなかった俺は阿呆だった。今も、変わらずに阿呆だ。空襲で死んだ親の財産を
食い潰しながら豚のように生きている俺が阿呆でなくて、豚でなくて何だ? 死んで、英霊などという
ガランドウになってしまえばよかった。英霊には時間も空間も金も、恐らくないだろう。ガランドウ、空白だ。
 殆どを亡くしながらも、時間と東京と金だけが残ってしまった俺は苦しい。薄汚れた硝子の向こう側は春の上野、
人間だらけだ。狂おしく苦しい。煙草を吸って、旨くもない珈琲をもう一杯頼んだ。午後二時だった。

 五年前、実家である蒲田の工場に赤紙が届いた。満州行きの切符。俺は十八だった。両親は泣きながら俺を見送った。
俺は列車の窓から冷めた眼でそれを見ていた。予めくすねた金品を懐に忍ばせながら。
満州に着くなり軍医にその一部を渡して嘘の診断書を書かせた。一週間で除隊し、東京に帰った。
俺は阿呆だった。ただ、死にたくなかった。親に合わせる顔なんて勿論ない。俺は死にたくなかったんだ。
 上野に行った。そこで、映画配給会社の使い走りみたいなことを終戦まで続けた。終戦と同時に会社は潰れた。
途中、数回の大きな空襲があったが、俺は生き残った。二人の女と出逢い、どちらも焼夷弾で焼け死んだ。
両親も、終戦の半年前に工場に爆撃を受けて死んだ。この頃にはもう、俺の心も死んでいた。話を聞いた俺は
泣きも笑いもせず蒲田の工場跡に行き、残った資産を金と食糧に替えて、戦争が終わった後に生きる準備を始めた。
心が死んでるのに生きる準備を始めるなんておかしな話だが、とにかく俺はそうした。せざるを得なかった。
 核爆弾が広島と長崎に炸裂して、戦争が終わった。たくさんの人間が死んで、たくさんの人間が生き残った。
生き残った人間は耐え難きを耐えたり、忍び難きを忍んだり、或いは喜んだりしていた。日本は変わる、と言った。
変わる。果たして何が変わっただろうか? 豚に解る筈もない。軍医に袖の下を渡して満州から
逃げ帰ったその時から俺は普遍の豚、もう英霊にも人間にもなれない。なろうとも思わなかった。

44 名前:豚の方法(2/2) ◆hemq0QmgO2 投稿日:2007/03/11(日) 23:04:20.15 ID:YEysq6x+O
 珈琲屋の洒落た壁掛け時計を見る。午後三時だった。本を読んだり煙草を吸ったり、正午からずっとここにいる。
珈琲もトオストも大して旨くないが、椅子の心地がいい。硝子の向こうを行き交う若い女の飾りも悪くない。
死ぬ時は、ここで死のうか。死ぬ時。馬鹿らしい。そんなもの、とうに過ぎてしまったじゃないか。
満州で、或いは空襲で。銃弾の乾いた音や焼夷弾の小気味よい音を聴きながら、俺は死ぬべきだった。
「結局、君は戦争という神話の聖性に憑かれて、疲れているだけだ。英霊だろうが人間だろうが豚だろうが、
みんなガランドウだ。珈琲に溶けてしまって何も残らない。砂糖やミルクより弱く、儚い神話じゃないか。
そんなものに憑かれて、しゃらくさい。君は本当の馬鹿だ。現に、君は生きているじゃないか」
 三日前、中学の同級だった三橋に言われた。しゃらくさい。何が神話だ。本当の馬鹿はお前じゃないか。
生きている? 俺は死んでいる。肉体なんて塵と同じ、塵の山だ。俺は人間より、英霊より死んでいる。
生きている人間は言うだろう。塵なら肉体も殺してみせろ、と。構わない。殺せば俺は死ぬ。
ただ、お前達も知ってるだろう。戦争を見ろ。殺すのは何時だって人間だ。人間は何時だって殺すのだ。
ならば、加速度的に俺は豚から人間になり、加速度的に肉体を殺す。ほら見たものか、痛みすらないぞ。沈むだけだ。
暗がりへ、暗がりへ、或いは明るみへ。思い出した。これが人間だ。この徹底的に温い白痴感覚が、人間だ。

「お客さんお客さん、大丈夫? もう五時だよ、店終いだよ」
 眼を開けると店主の髭面がやけに近くて、少し驚いた。どうやら、微睡んでいただけらしかった。
狭く、薄暗い店内を箒で気だるげに払いながら、店主が言う。
「お客さん、ずっといたねえ。珈琲飲むかい? 掃除が終わったら俺も飲むからさ」
 俺は眼を擦りながらああ、と短く答えた。微睡みの内容を思い出してみる。嘘臭いばかりで、その浅さに
辟易とする出来の悪さだった。窓硝子の外を眺める。日が落ち始めていた。死ねないな、と思った。
床を掃く音が聴こえる。何故だか、動けない。何も纏っていないのに動けない不思議な豚。それが本当だった。(了)



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