【 少女と幽霊 】
◆1EzYxEBEas




32 名前:少女と幽霊 (1/5) ◆1EzYxEBEas 投稿日:2007/03/11(日) 22:54:28.69 ID:WHCpdCj70
 短いトンネルを幾つか抜けて、窓の外の景色はゆるやかに止まっていった。まどろみの中にあった思考が、懐
かしい景色で目を覚ます。
 小さな川がなだらかなカーブを描いて山へと続いている。背の低い建物ばかりの静かな町並み。川沿いの細い
道を、白い軽トラックがのろのろと走っていく。
 眠そうな車掌の声で、ローカル線の終着駅がアナウンスされる。読みかけの小説を鞄にしまい、早苗は財布か
ら切符を取り出した。小さく伸びをして、人のまばらな車内を見渡す。
 その時ふと、向かいに座った少女と目が合った。小学生くらいの三人組の一人で、退屈そうに足をぶらぶらと
させている。なんとはなしに早苗が微笑みかけると、少女は嬉しそうににっこりと笑った。
 あんな風に笑ったのはいつの事だっただろうか。そんな寂しい考えが浮かび、こっそりとため息をつく。
 鈍いブレーキ音をたてて、電車は小さな駅に身を寄せる。まだ薄ぼんやりとした頭の中で、三十年前の記憶と
ドアの向こうの景色が重なっていった。

 陽光を受けた新緑の葉がアスファルトにまだらな影を落とし、初夏の風に揺れていた。バス停の時刻表を指で
なぞり、随分と待ち時間の長い事に苦笑する。どこか遠くでは気の早い蝉の声がしていた。
 早苗にとって今回の旅行は突発的なものだった。さあ何をしようかと予定を立てながら胸を躍らせる、結婚し
てからはついぞ得られなかった一日を得る為の。
 幼少時代を過ごしたこの田舎町を選んだのは、ただの思い付きだった。帰省ならば、両親の眠る街が真っ先に
浮かぶ。ここに住んでいたのは数年間だけだったし、引っ越して以来一度も訪れたことは無かったのだから。
 ベンチに腰を下ろし、駅前の広場をぼうと眺める。中央にぽつんと立っている古ぼけた時計と、それを囲む手
入れのされていない花壇。あたりに点在する商店は、ほとんどの入り口にシャッターが下ろされていた。
「おばちゃん」
 突然背中にかけられた声に少し驚きながら、早苗はゆっくりと振り返る。電車で見た少女がじっとこちらを見
つめていた。その小さな手には、使い捨てのカメラがぎゅっと握られている。
「写真撮って、おばちゃん」
 ずい、と少女はカメラを持った両手を突き出す。微笑みながら早苗がそれを受け取ると、少女は駅舎に向けて
とてとてと駆け出していった。
 カメラを構え、少女に声をかける。ファインダーの向こうでは青空を背に、Vサインを掲げた少女が眩しいく
らいに笑っていた。

33 名前:少女と幽霊 (2/5) ◆1EzYxEBEas 投稿日:2007/03/11(日) 22:54:53.74 ID:WHCpdCj70
「自由研究?」
 バスに揺られながら、早苗は隣に座る少女にそう聞いた。
「うん。夏休みの宿題でね、町の写真を撮って回ってるの」
 少女は難しい顔をしてノートと睨めっこをしていた。ふぅんと相槌を打ちながら、早苗はこっそりとそのノー
トを覗き込む。可愛らしい字がノートの中で躍っていて、思わず苦笑を漏らすと、少女は少し頬を膨らませる。
 バスを待つ間のうちに、二人は意気投合していた。そのきっかけになったのは、お互いの名前だった。
 少女がさなえと名乗ると、あら、おばちゃんも早苗って言うのよ、と答える。お揃いだね、そんな事を早苗が
言って、笑いあった。それから同じバスに乗り、昔早苗がここで暮らしていた事を教えると、おそろいだね、と
少女が言った。そしてまた、顔をつき合わせて笑いあった。
 自由研究かあ、そう言えば自分も昔似たような事をしていたっけな。おぼろげに霞む記憶を手繰り寄せながら、
どこか昔の自分に似た少女をそっと見つめる。
「ねえ、おばちゃんもその自由研究についていっていいかな?」
「いいけど、どうして?」
「私ね、この辺に住んでたのはずっと前だから、あまり道とか覚えてないの。案内してくれると嬉しいなあ」
 頬に人差し指を当て、少女は小首を傾げる。少し考える素振りを見せた後、いいよ、と短く答えた。
 窓の外には小さな川が流れ、その両脇には不釣合いなほど大きな土手が広がっている。早苗がそちらに視線を
向けると、少女も思い出したようにカメラのレンズをそちらへ向けた。
 陽光を受けて川面はきらきらと輝いている。魚が小さく跳ねているのが見えた。
「綺麗ね」
「うん。でも春だったらもっと良かったのになあ」
 カメラを覗きながら、そう少女はぽつりと呟く。枯れ草が折り重なる土手の情景は、これはこれで風情がある
かもしれない。だけど、と早苗は付け加える。たしか春には菜の花が咲いていたはずだ。そんな記憶がよみがえ
る。
 一面の黄色の中を静かに流れる小川。そんな中を、昔走り回っていたような気がする。あの頃は花の名前も知
らなかったはずなのに、セピア色だった思い出の中で、そこだけが鮮やかな色を取り戻していた。

34 名前:少女と幽霊 (3/5) ◆1EzYxEBEas 投稿日:2007/03/11(日) 22:55:20.66 ID:WHCpdCj70
 田舎は都会よりも時間が流れるスピードが緩やかだ。だけど、変わらないわけはない。潰れた店先、見慣れな
い建物、そして見覚えのある風景は、三十年分の埃をかぶっていた。
 少女と共に町を回りながら、やはりここも違うのだと嘆息する。逃避という理由が発端の旅では、それも当然
なのだろうか。だけど、と、冷え切った家庭を思い出しながら、早苗は呟く。どこかにはあるはずなのだと。
「ねえ、おばちゃん。疲れたの?」
 気がつくと、少女が心配そうに早苗の顔を覗き込んでいた。慌てて笑みを浮かべながら、そんな事無いよと答
える。
「もうちょっとで終わるから」
 そう言って、少女は小さく跳ねるようにしながら階段を下りる。所々に苔が生えた石階段は、先ほど写真を撮
った神社へと続く参道だった。組みかけのテントや屋台が転がっていて、厳かさとは程遠いものだったが、のん
びりとした祭りの準備の様子には、少女はそれなりに満足しているようだった。
 これで回ったのは幾つだっただろうか。早苗は今日回った所を思い出す。町役場の側のスポーツセンター、真
新しいデパート、火の消えた工場、なんだか良く分からない石碑に、古ぼけた木製の橋……。
「やっぱりオバケ工場が一番かなあ?」
 数歩先を進みながら、少女はそう言った。何の事だろうと思っていると、同意を求める視線と目が合った。
「オバケ工場って、さっき行った工場?」
「そうだよ。誰もいないのに機械が動いてたり、夜になったら人の話し声がしたりするんだって」
 工場、会社名は覚えていないが、子供の頃はそれなりに賑わっていた場所だ。いつもトラックがひっきりなし
に出入りしていたし、そこで働いていた人も近所に多く住んでいた。
 だけど、三十年ぶりに見たそこは閑散としたただの跡地だった。ひび割れたガラス窓に、うち捨てられた車。
幽霊になるほど時間は経っていないようにも見えたが、それでも何か惹きつけられるような残滓を感じた。
「おばちゃんは、幽霊っていると思う?」
「どうかしらねえ。いてもおかしくはないと思うけど」
 煮え切らない返答に少女は不満顔を見せる。苦笑を返すと、少女はその場でくるりと回ってみせた。
「私ね、幽霊と友達になりたいの」
「あら、素敵ね」
「本当にそう思う?」
 ええ、と早苗は微笑みを返す。本当に素敵だと、そう思ったからだ。
「なら最後はとっておきのスポットにしようかな」
 少女はカメラを取り出して、レンズを早苗へと向ける。どこか遠くから、祭囃子の音が聞こえていた。

35 名前:少女と幽霊 (4/5) ◆1EzYxEBEas 投稿日:2007/03/11(日) 22:55:45.32 ID:WHCpdCj70
 幽霊の出る廃墟があると、少女は言った。腕を引っ張られながら、早苗はその小さな姿についていく。
 夕暮れの住宅街。夕飯の香りが漂い、遠くからは豆腐屋の音が聞こえている。
 地面に落ちた長い影を追いながら、早苗は既視感を抱いていた。古ぼけた壁も、誰もいない公園も、記憶の隅
を刺激し続けている。
「そこの家にはね、女の子の幽霊が出るんだって」
 嬉しそうに少女はそう言った。怖いもの見たさ、という感じはしない。まだ見ぬ友人を夢見ているのだろうか。
 その純真さがあればきっと大丈夫だろうな、早苗はそんな風に思う。
 昔自分もこうして誰かの手を引いていたのだろうか。あたりの風景が、ゆっくりと記憶の中の情景に溶け込ん
でいく。
「ここだよ」
 少女の足が止まる。
 ああ、やっぱりそうか。
 おそるおそる見上げたそこには、幼少時代を過ごした家が長い年月をまとい、静かに佇んでいた。
 背の高い雑草に覆われ、家の中は良く見えない。表札も外されていて、生活の臭いは全く感じられなかった。
「中には入れそうに無いねえ」
 残念そうに少女が呟く。そんな言葉を背に、早苗はポストの裏をごそごそと探っていた。
 指先に固い感触を感じ、早苗は思わずガッツポーズをしていた。古びたテープと共に、鍵が手の中に現れる。
それを少女に見せながら、驚く顔に向かって小さくウィンクをした。

 木造の床が大きな音を立てる。そこにあったはずの襖も畳も既に無い。ただ埃の積もった気張りの床があるだ
けだった。
 柱を指でなぞりながら、過ぎ去った過去を思い出す。笑い合っていた食卓、柱に刻まれた傷、壁にある落書き
の跡。夢と言うにはあまりにもささやかな、望んでいたのはそんな日常だった。
 一方、少女は物珍しそうに台所をごそごそと探っていた。錆だらけの大きな給湯器にレンズを向けては、よく
わからないという風に首を傾げる。
 そんな少女の姿を背に、早苗は階段に足をかけていた。残滓を胸にしまいながら、壁に両手をついてゆっくり
と上っていく。
 夕食に呼ぶ母、くだらない父の冗談、耳の奥で、そんな声が木霊する。
 階段を上りきり、左手の部屋へと入る。むき出しのガラス窓から、沈みかけの西日が眩しいくらいに差し込ん
でいた。

36 名前:少女と幽霊 (5/5) ◆1EzYxEBEas 投稿日:2007/03/11(日) 22:56:05.25 ID:WHCpdCj70
 何も無い部屋の中心で、早苗はぺたりと座り込む。ああ、ここなんだ。誰に話し掛けるけるわけでもなく、そ
う一人ごちた。
 床に頬を当てて、早苗はそっと目を閉じる。
 幽霊が出ると、少女は言っていた。友達になりたいとも。その言葉を思い出し、笑みが浮かぶ。
 オレンジ色の光の中、その姿がゆっくりと薄まっていく。
 やがて夜の帳に包まれた部屋では、最初から何も無かったかのように、ただ静けさだけが残っていた。
 どこか遠くから、甲高い少女の声が聞こえている。

<了>



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