【 もこもこ人 】
◆aDTWOZfD3M




771 名前:【品評会作品】もこもこ人(1/5) ◆aDTWOZfD3M 投稿日:2007/03/11(日) 17:22:59.82 ID:7B7wEFYC0
 小林緑(16歳)が目を覚ました時、覚めるべき彼女の目は存在していなかっ
た。だから、この場合の目を覚ましたというのは適切な表現ではないかもしれ
ない。
 しかし、彼女自身としては、「目を覚ました」という感覚だった。ゆえに
ここでは、「目を覚ました」としておく。
 目を覚まして、彼女が最初に意識したのは、(視界がおかしいな)というこ
とだった。彼女の視界は、魚眼レンズで見たかのように歪んでいて、しかも妙
に視野が広くなっていた。通常の人間ではありえない視界にとまどっているう
ちに、体の感覚もおかしいことに気付いた。妙にふわふわして、なんだか頼り
ない。しかも、「どこが腕でどこが脚か」という感覚まで喪失していた。
 (私の体、どうかなっちゃったのかな……)
 緑はそのとき初めて不安を感じた。
 (とりあえず、どうしてこうなったのか思い出そう)
 頭は、体以上にふわふわしてはっきりしないが、それでもなんとかして思い
出そうとする。
 (そう、いつも通り工場で働いてたのよね)
 彼女はここしばらく、ある製菓工場でアルバイトをしていた。製品を仕分け
したりする単純な仕事だったが、不良品のお菓子がもらえたりするので、彼女
は気に入っていた。そしてその時も、そのバイトをしていたはずだ。
 (だけど、たまたま不良品があったから、生産ラインの方に伝えるように言
われて、そっちの方へ歩いていたんだっけ)
 しかし、その後どうしたかはどうにも思い出せなかった。
 その時、二人の男女が彼女の居る部屋に入ってきた。女はナース服で、男は
白衣だった。すると、ここは病院なのかもしれない。緑は思い切って声を出し
てみた。
 「あの……」
 奇妙な声だ。いつもの彼女の声とは明らかに違う。だが、目の前の二人にも
彼女の声は聞こえたようで、二人は彼女の方を見た。どうやら驚いているらし
い。

772 名前:【品評会作品】もこもこ人(2/5) ◆aDTWOZfD3M 投稿日:2007/03/11(日) 17:24:51.26 ID:7B7wEFYC0
 「あの……、私どうしたんですか? ここは病院ですか? なんだか、体の
感覚がおかしいんですけど」
 ところがそれを聞いた方は、既に顔面蒼白だった。そして、
 「だ、誰? あ、あなたなの?」
とナースの方が聞いてきた。緑は答えた。
 「私は私ですよ。小林緑です。それがどうかしたんですか?」
それを聞いた途端。ナースは気を失って崩れ落ちた。
 白衣の男は、
 「そんな、ばかな、ありえるわけない、これは、夢だろ?」
などと呟いている。
 その様子を見て、緑も自分がただならぬ状況にあることを悟った。
 「ど、どうしたんですか? 私が喋っちゃ、おかしいですか? 一体何がど
うなっているんですか?」
 男はもはや何を言うべきかも見つからないようで、酸欠の金魚のように口を
パクパクさせている。そして、何かを指し示すように指を壁の方へ向けた。
 緑がそこを見ると、そこには洗面台があり、鏡が一枚かかっていた。その鏡
は位置関係から言って、緑の姿を映し出しているはずだ。緑は鏡を見た。しか
し、そこには彼女の慣れ親しんだ彼女の姿は映っていなかった。
 そこに映っていたのは、どう見てもパステルピンクのホイップクリームとし
か見えない姿だった。
 緑は、再び意識を手放した。

 意識を回復した後、緑はここまでの経緯を白衣の男(やはり医者らしい)か
ら聞いた。彼女は、製菓工場内を走っていて足を滑らせ、巨大フードプロセッ
サーの中に滑落したらしい。誰かが人が落ちたことに気がついてすぐに装置を
止めたのだが、時既に遅く、彼女はどろどろの液体にされた上に生クリームと
ともにミキサーでかき混ぜられ、このような姿になってしまったそうだ。ちな
みに、パステルピンクなのは血の色が生クリームと混ざったからである。
 その後彼女は回収されて、一応解剖のためにこの病院へ搬送された。もっと
も、解剖するところなんて少しもありはしなかった。

773 名前:【品評会作品】もこもこ人(3/5) ◆aDTWOZfD3M 投稿日:2007/03/11(日) 17:26:11.95 ID:7B7wEFYC0
 その時点で死亡診断書が書かれ、これから納棺しようかと言うときに、彼女
の声が聞こえてきたのだそうだ。
 「えっ、じゃあ、私はなんで生きてるんですか?」
 「さっぱりわからないよ。こんなの科学的にはあり得ないはずなんだけど」
 こうやって会話するのも、声帯がないため、体の表面を細かく震わせて声を
発しているらしい。彼女自身は全く意識せずにそれをしているのが不思議だっ
た。
 「とにかく、いろいろ検査してみよう。体の一部をもらうよ」
 彼はそう言って、緑の体の一部を試験管に入れようとした。だが。
 「あれ?」
 どうやら、体の表面が皮膚のようになっていて、一部をちぎり取ることがで
きないようだ。しょうがないので、注射器を取り出して体液(というかクリー
ム)を採取していった。
 その後彼女には、思いも掛けない嵐のような日々が待っていた。
 どこから聞きつけたのか、テレビ局や新聞社が取材にきた。それはそうだろ
う。こんな状態で人が生きているなどと言うのは、またとない大ニュースだ。
おまけに視覚的インパクトも充分ときている。なんとなく断ることもできずに
取材を受けていたが、気がついてみると全国区の有名人になっていた。
 さらに、法律上の問題が彼女に降りかかってきた。一度死亡診断書が書かれ
てしまったので、戸籍上彼女は死んでいる。だから戸籍を回復しようとしたの
だが、なんと、「生きていること」を証明することができなかったのだ。
 例えば、何らかの手続き上の間違いで死亡とされたのなら、本人が申告すれ
ば良いし、一度心臓が停止してから再び生き返ったというのなら前例がある。
 だが、彼女は正式な手続きで死亡が認定され、心臓は止まるどころか木っ端
みじんで拍動を再開するどころではない。
 唯一彼女が「自分は小林緑である」と証言していることが証拠ではあるが、
それ以外には「このパステルピンクのホイップクリームが小林緑本人であり、
生きている人間である」ことを証明する物は何も無くなってしまったのだ。
 とにかく全てが前代未聞で、全く誰にも彼女をどう扱ったら良いかわからな
かった。

774 名前:【品評会作品】もこもこ人(4/5) ◆aDTWOZfD3M 投稿日:2007/03/11(日) 17:28:27.97 ID:7B7wEFYC0
 多くの医者や生物学者が彼女の体を調べ、この奇怪な現象の原因をつきとめ
ようとした。
 その結果、彼女の細胞自体は生きていること、どういうわけか染色体が人間
のものというより細菌の物に近い構造に変化していること、呼吸は皮膚呼吸で
あること、視覚は体表面にある視細胞により見ているということ栄養は表皮に
触れた食物をとりこむことによって得られることがわかった。
 そしてこのような驚くべき変化が起こった理由について、「最新型のフード
プロセッサーと生クリームに含まれていた食品添加物が原因ではないか」とい
う仮説が提唱された。彼女を粉砕したフードプロセッサーは、極低周波フード
プロセッサーというもので、材料を一瞬で細胞レベルにまで分解することが可
能なシロモノであり、そこに食品添加物が加わったことにより、彼女の細胞に
劇的な変化が起こったのではないかと推測されたのである。
 だが、例えそうだとしても、なぜ彼女が彼女としての意識を保持しえたのか
という点は謎のままだった。そもそも、現在の科学では、何故人間に意識があ
るのかすらわかっていないのだ。あるいは、魂というものが信じられていたこ
ろのほうが、この問題には決着が付きやすかったかもしれない。
 しかたがないので、彼女は自分の生存を裁判で証明することにした。だが、
法律で定められた基準で見ても彼女の生死は判断できなかった。例えば、脳死
判定基準で見ても、脳波も測定不能で自発呼吸は皮膚呼吸のみ、瞳孔は散大し
ているどころかそもそも存在しないのでは、いかんともしがたい。
 こうして彼女は死者か生者か、人間かそうでないかも曖昧な存在になってし
まった。意識があるから人間だという人もいれば、姿も生態も違うなら人間で
はないという人もいた。なんとなく名前は決めなければという流れになったの
か、誰が呼んだか彼女のような人間は「もこもこ人」と呼ばれるようになって
いた。もっとも、彼女以外にもこもこ人はいなかったけれど。
 そうして、いつしか彼女は孤独になっていた。誰も彼女の扱い方を知ること
ができなかった。かつての知り合いも連絡をくれなくなった。誰もが、彼女を
珍獣を見るような好奇の目で見てきた。そんな中、唯一彼女に普通に接してく
れたのは、あの日に出会った医者だった。彼女の主治医になった彼は、はじめ
はとまどったものの、今では慣れたのか普通の女の子に接するように彼女と会

775 名前:【品評会作品】もこもこ人(5/5) ◆aDTWOZfD3M 投稿日:2007/03/11(日) 17:29:04.09 ID:7B7wEFYC0
話できるようになっていた。いつしか、緑は彼に恋していた。
 そして、彼女は彼に告白することを決意した。
 いつものように彼が彼女を診察しに来たとき、
「先生、実は私、先生のことが好きになっちゃったんです、付き合ってくださ
い」
と言った。
 彼はちょっと驚いたようだが、
「うん、いいよ」
と答えてきた。これには、緑の方が驚いた。
「ほ、本当に良いんですか!? だって、私はこんなのなんですよ!」
「う〜ん、なんて言うかな、僕も君のことが前から好きだったのだね」
「えっ?」
「最初はさ、君のからだに対する研究者としての好奇心だったんだけど、長く
付き合ってるうち、いつの間にか君自身への興味が湧いてきたというか」
「で、でも……」
「こらこら、告白してきたのはそっちでしょ。……それじゃいこか?」
「ど、どこにです?」
「例の工場!」
「な、なんで?」
「僕ももこもこ人になるのさ! 前からなりたかったんだよ。これも研究者と
しての知的好奇心てやつだ」
「えええええええええ!!!」

 その後、もこもこ人第二号となった彼と緑は結婚した。後に生まれた二人の
子どもは、生まれながらにもこもこ人だった。時代は下り、今ではもこもこ人
の人口は五千人にまで増えている。いまだ日本政府は彼らを人間と認定したわ
けではないが、この調子でいけば、彼らが人間と認められる日もそう遠くはな
いのかもしれない。    
                            (了)



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