【 メビウスリングの表裏 】
◆uGJuzH3B7I




760 名前:メビウスリングの表裏(1/5) ◆uGJuzH3B7I 投稿日:2007/03/11(日) 15:49:46.52 ID:sNS21igD0
 2006年12月19日。桜田加代子の乗った東京羽田発札幌千歳行きの旅客機が、宮城県上空
で突如消息を絶った。

 この山小屋に避難して最初の一日が過ぎた。
 私と一緒に小屋のストーブを取り囲んでいるのは、私と同じ飛行機墜落事故に巻き込ま
れた四人の人達。藤田和仁さん。横山佳奈美さん。日野和也さん。そして、名前の分から
ない気絶した青年。
 小屋には、非常食となる乾パンが一缶だけあった。けれど、果たしてこれだけで何日持
つのだろうか。

 娘の乗った飛行機が墜落したという知らせが、母親である桜田幸子の許に届いたのは、
飛行機が墜落したその日の夕方のことだった。
 電話越しに聞こえる女性の声が、まるで悪魔の囁きに聞こえる。
 初めは悪趣味な悪戯だと思った。けれど、テレビをつければどの局も飛行機事故のこと
で持ちきりとなっていた。
 なんという天の悪戯か……
 幸子は世界の全てが自分から遠ざかっていくような錯覚を覚えた。
 幸子の手から受話器が滑り落ちる。
 魚を焦がしたフライパンが台所に異臭を漂わせていた。

 山小屋に避難して二日目のこと。日野さんが、隣で横になっている青年の顔を凝視して
いるのに気付き、私は問いかけた。
「どうしたんですか?」
 日野さんが一回こちらを見て、そしてまたすぐに青年に視線を戻して、呟いた。
「こいつ、死んでないか?」
 心臓が一回強く跳ねた。
 日野さんが、青年の首筋に指を当てて脈を調べる。
「やっぱり……こいつ、もう死んでる」
 藤田さんが立ち上がり、日野さんと同じように青年の首筋に指を当てた。そして、大き
くため息をついた。

761 名前:メビウスリングの表裏(2/5) ◆uGJuzH3B7I 投稿日:2007/03/11(日) 15:50:20.81 ID:sNS21igD0
「そっちに動かそう」
 藤田さんが青年の足を持ち、日野さんが頭のほうを持って、青年を壁の方へと動かした。
 まず一人脱落。
 私の耳元で、無感動な声の死神がひっそりと囁く。
 と、突然隣にいた横山さんが私の肩を抱き寄せてきた。
「横山さん?」
「佳奈美でいいわよ。……大丈夫、私達はきっと助かるわ」
「……はい」
 優しいぬくもりが服越しに伝わってくる。私は佳奈美さんの胸に顔を埋めて、小さく嗚
咽を洩らした。

 どれくらいの時間が経っただろうか。乾パンはとっくに尽きていた。あるのは雪を溶か
してできたお湯だけ。それだけで、もう一週間以上は過ごしている。途中何度か吹雪が止
んだ日があったけど、救助が来る様子は全くなかった。
「もう……我慢できない」
 そう言って、日野さんがゆっくりと立ち上がった。手には薪割り用の斧が握られている。
 みんなが一拍遅れて日野さんを見た。日野さんは、壁際に置かれていた青年の遺体にに
じり寄っていた。
「な、何をするつもりだ?」
 藤田さんの質問には答えずに、日野さんは青年の腕を持ち上げ袖をまくって何かを確か
めていた。
「よかった……隅っこに置いてたおかげで腐ってない」
「腐ってないって、どういうことよ?」
 佳奈美さんが震える声で訊いた。けど、日野さんはそれを無視して斧を振り上げた。
「ま、待て、日野君! 君は一体何をしようとしているんだ!」
 藤田さんの叫びに、日野さんが手を止めてこちらに振り返る。日野さんの絶望的なまで
に虚ろな目に、私は一瞬背筋を震わせた。
「何って、食うんだよ。こいつを」
「くっ……食べるっていうのか!」

762 名前:メビウスリングの表裏(3/5) ◆uGJuzH3B7I 投稿日:2007/03/11(日) 15:51:07.70 ID:sNS21igD0
「そうだよ。これ以上何も食べないでいたら体力が無くなって死んじまう。だから食うん
だよ」
「人を食べるだなんて、何考えてるのよ、アンタ!」
 佳奈美さんの悲鳴じみた訴えに、日野さんは不敵な笑みを浮かべて答えた。
「人? 違うだろ。こいつはもう死んでるんだ。死んだらそいつは人間じゃない。ただの
タンパク質の塊だよ。豚や牛と変わらない。そうだろ?」
 冗談を言っているようには聞こえなかった。日野さんは、本気であの死体を食べようと
しているんだ。
「違うわよ! 人は死んでも人よ!」
「そうか……なら――」
 次の瞬間、斧が床板を砕く音が小屋の中に響き渡った。一歩遅れて、佳奈美さんと私の
悲鳴も小屋の中に響く。
 日野さんが振り下ろした斧は死体の右腕を切断し、その下の床に突き刺さっていた。日
野さんは切断された右腕を持ち上げると、それを私達に見せ付けて言った。
「これは人間と言えるか? 言えないだろ? これは『右腕』だ。人間じゃない。だから
俺がこれを食っても、人を食ったことにはならない。そうだな?」
「信じられない……そんなことする奴なんて、人間じゃないわ」
「……俺は、俺は絶対に生きて帰るんだ。綾子に、あいつともう一度会うまでは、絶対に
死ねないんだよ」
 綾子……? 日野さんの彼女だろうか。さっきまでは虚ろだった日野さんの瞳に、今は
慈愛と悲痛の色が浮かび上がっていた。
「人を食う奴は人間じゃないってアンタは言いたいんだろ? けど、そんなの俺からした
ら全然間違ってるな。ここで横になってる、コイツは人間か? 違う。これはただのヒト
形だ。何故なら、コイツは生きてない。死んでたら人形と区別はできない。生きていれば、
生きている限りそいつは人間なんだよ。変な倫理観振りかざすだけの奴よりも、ひたすら
に生き続けようとする奴のほうが、俺はよっぽど人間だと思うぜ」
 佳奈美さんも、藤田さんも、そして私も、もはや日野さんを止めることはできなかった。
 私は恐ろしさから目を逸らし、佳奈美さんの胸の中で縮こまって体を振るわせた。佳奈
美さんは、そんな私を優しく抱きしめてくれる。

763 名前:メビウスリングの表裏(4/5) ◆uGJuzH3B7I 投稿日:2007/03/11(日) 15:52:02.35 ID:sNS21igD0
 日野さんが『右腕』を解体する音が聞こえてくる。その音は、耳を塞いでいても私の頭
の中へ無遠慮に侵入してきた。
 もう嫌だ。助けて。助けてお母さん。死にたくないよ。助けて。死にたくないよ……
 肉の焼ける匂いが小屋の中に漂った。

 事故後現場に到着した救助隊によると、墜落後に動かしたと思われる機体の残骸がいく
つか見つかったらしい。つまり、生存者がいるかもしれないということだ。
 それが娘の加代子である可能性はかなり低いけれど、幸子はそれを信じる他になかった。
 犠牲者の死体は損傷が激しいものが多く、犠牲者全員の身元の特定にはまだ時間がかか
るそうだ。
 娘が墜落で死ななかったとしても、果たしてその後生き続けられるのだろうか。
 幸子は恐怖した。
 最愛の娘が死ぬこと。そして何よりも、娘が娘でなくなってしまうのではないかという
ことに恐怖した。

 かすかに開けた視界に、『肉』を食べる男の姿が二人見えた。
 嫌なものが目に入ったと思い、私は再び佳奈さんの胸に顔を埋めた。
 空腹が、もう限界に近づいている。私は、ここで死ぬのかな?
 瞳が、自然と閉じていった……

 日野さんが立ち上がって、『肉』をストーブの上に置いた。じゅぅ、と肉の焼ける音が
して『肉』が色を変えていく。
 小屋の中を見回してみた。藤田さんが白い顔で床に倒れている。呼吸はしていない。青
年の死体は、すでに手足が無くなっていた。私を抱きしめてくれていた佳奈美さんは、も
うぬくもりを私に伝えてはいなかった。
 次はお前の番だよ。
 死神が私の耳元で囁いた。
 嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない!
 もう一度お母さんとお父さんに会いたい。友達と馬鹿話がしたい。お風呂に入りたい。
テレビが見たい。美味しいご飯が食べたい。可愛い洋服を買いたい。マンガが読みたい。

764 名前:メビウスリングの表裏(5/5) ◆uGJuzH3B7I 投稿日:2007/03/11(日) 15:52:34.66 ID:sNS21igD0
 死にたく……ない。
 日野さんが、私を見つめていた。
『ひたすらに生き続けようとする奴のほうが、俺はよっぽど人間だと思うぜ』
 私は……私は私は私は私は――
「日野さん……」
「……なんだ?」
「私にも……食べさせて」
「……あぁ、いいぜ」

 私は――まだ人間ですか?


 1983年旅客機墜落事故
 生存者:日野和也(23)・山本幸子(18)
 彼らを救助した救助隊の隊員の一人は、当時の山小屋の惨状を見て、その時のことをこ
う語っている。
「あそこに人間は一人もいなかった」


 幸子の許に、生存者が発見されたとの報告がやってきた。
 加代子は生きていた。墜落後、生き残っていた数人と共に近くの山小屋に避難していた
のだ。
 娘が無事に帰ってくることが分かり、幸子は電話の前で泣き崩れてしまった。
 幸子が何よりも嬉しかったのは、娘は人間を捨てずいてくれたことだった。

 2006年旅客機墜落事故
 生存者:大山辰則(38)・桜田加代子(18)・武田大樹(23)・水瀬佳奈(27)

おわり



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