【 歌えばいい 】
◆Jgzg3l0jxA




741 名前:歌えばいい ◆Jgzg3l0jxA 投稿日:2007/03/11(日) 14:38:41.60 ID:NXTQelM10
 男は歌っていた。
 男は留まることなく、この広い大陸を長い間放浪している。
 そして今は寂れはてた駅舎の外で男は歌っていた。
 どれだけの数の星の元、男は歌い続けていただろうか。

「きれいだね、すごいやおじさん」
 隣には少年が座っていた。男の連れではない。
 男が歌っていると、少年はどこからか隣に座り込んでいた。
 男は少年を気に留めていないかのようで、少年も男の奏でる音楽だけに
今まで耳を傾けていた。数時間に渡り二人は濃厚な沈黙を続け、
今少年の方が臨界に達したようだった。男は呟く。
「ああ、今日はいい曲だ」
「その楽器はなんていうの?」
「ウッドベースさ」
 なるほど男はまるで寄りかかるような姿勢でベースを奏でている。
 見た目はニスも禿げかけ、とてもまともではなさそうだが
その音色は驚くほど澄み深淵であった。男の声は美声という範疇ではない。
 だが時に柔らかく、時に叫ぶように変化する歌声はベースの響きと溶け合い、
不思議な世界を創りあげていた。
「いったいどうすればそんなに歌えるの?」
 少年は一層眼を輝かせる。
「ベースは歌う、と昔から言ってね」
 男は続ける。
「今だって自分は歌っちゃいない。本当はこいつが歌っているのさ」
 ここまで言うと、男はまた歌いだした。
 少年はしばらくうっとりとそれを聴いていたが、やがて何かを思い出すと
静かにその場を離れていった。

742 名前:歌えばいい ◆Jgzg3l0jxA 投稿日:2007/03/11(日) 14:39:21.47 ID:NXTQelM10
 その日の寝床は旧駅舎のトイレだった。
 このような暮らしに男は慣れている。しかし誰かと交わった夜には
男はきまって若き日の事を思い出した。
「俺はまだ息をして、こんなになっても生きているのか」
 男は呟くと、ゆっくり夢の世界へ誘われていった。

 三十年前、彼は大陸の端に浮かぶ島国にいた。
 テストの成績は悪くはなかったが、彼はそんな自身の貴重な天分を捨てただ音楽へ明け暮れた。
 彼には貴重な友人がいた。名は今となっては判らない。友の口癖はこうだった。
「世界は広い。でも俺達は確実に世界一近い人間だ!」
 彼は嬉しかった。両親さえ眉をひそめるような彼の音楽への傾倒、
それを受け止めたのはこの友が最初だった。友の性格はエキセントリックで
度々学校で問題を起こしていたが、彼はそれも頼もしくさえ思ったほどだった。

 二人は音楽を続けた。ある時はメンバーを集め、ロックライブをやった。
 ある時は二人きりでジャズを掻き鳴らした。
 いつでも彼はベースと声を震わせ、友はエレキ・ギターを振り回す。
 彼のベースは父が若い頃欧州の友人から譲り受けたもの、友のギターもまた
ロッカーだった父親から譲り受けた物だった。このような些細な共通点でさえ彼には
嬉しく感じられ、友もまたギターの手入れを怠らなかった。
 二人はただ音楽にだけ夢を求め、何千回と音を重ねていった。


743 名前:歌えばいい ◆Jgzg3l0jxA 投稿日:2007/03/11(日) 14:39:58.37 ID:NXTQelM10
 だが、歳をとるにつれ、夢を追いかけるだけではすまなくなる。
 いつしか肩書きからは若手の文字も消え、彼は焦りを感じ始めていた。ある日、
彼は飲み屋で友に漏らした。
「いつまで夜明けを待ったって、一生俺達が日の光を浴びる事はないかもな……」
 友は答えた。
「そうかもしれない。だけどどれだけ得る物がなくとも、俺ら二人は一人にはならない。
墜ちる先があるなら二人で墜ちればいいじゃないか。堕落や挫折も人間の成分のひとつさ」
 こう答えた友の目にも覇気は感じられず、むしろニヒルな感情が顔面を支配していた。
 友と別れると、彼は貪る様に眠った。翌朝、彼は衝撃を受けた。

 友が酔っ払いとケンカしたあげく誤って殺人を起こした、この話を電話越しに聞くと、
彼はフラフラと部屋の隅に座り込んだ。
 知らせを聞いてから三日間、彼は部屋から出なかった。部屋の中でも多くは動かなかった。
 友は鑑別所にいて、面会はできる。だが何故か会いたくなかった。彼の中はただ、
友へのおぞましい感情で満たされていた。
「なんだ、なんなんだ……」
彼の爪はほとんど剥がれ、壁には血がこびりついている。涙は畳に染みを創り、
台所には生焼けの肉塊が腐臭を放っている。この三日間で何人か知り合いが尋ねて来たが、
ドアは開けられることなく黒光りしていた。
「はは、あははははは!!!」
 彼は泣き叫びながら包丁と握ると部屋の中で振り回す。食器棚のガラスを突き破り、陶片が飛び散った。
 本棚に突きかかると中を全て投げ出し、大穴をあけた。次に彼の目の前に飛び込んだのは
黒いハードケース。大きく振りかぶってこじ開けると中から艶やかなニスの表面が現れた。
 彼は動きを止めた。
「ふふふふ、嗚呼嗚呼嗚呼!!!」
 彼は振りかぶった。その時、服の端がかすかに弦に触れた。彼はまた止まった。
 身体を少し揺らす。まるで泣いてるかのように、本当に微かな音が漏れる。

744 名前:歌えばいい ◆Jgzg3l0jxA 投稿日:2007/03/11(日) 14:40:45.08 ID:NXTQelM10
 彼は包丁を置いた。そして染みる指先を気遣いながら、ゆっくりとベースに触れた。
 そして歌いだした。まるで吸い付くかのようにベースはこれに答え、震えだす。
 男は友を再び見つけた。

 男はそれから四日間、友と歌い続けた。そして七日目の朝、男は手紙を書いた。
そして纏まった金を作り次第この島を出る事を決めた。何人かが男を尋ねた。ある者はこう男を罵った。
「君の行いは逃避行だ。しかもそれだけじゃない。君は人間への信頼を簡単に捨てられる
かの様な振る舞いだがそれは無理だ。あれだけ互いに必要としていた人間を切り捨て何ができる?
彼も苦しんでいる。それを救ってやるのが君の役目だというのに感傷にひったてるんじゃない!」
「それもそうかな」
 男は笑った。だが男は彼の元に行く事はなかった。男は彼の為に一曲歌った。
 そして十三日目の朝、男は僅かな金と航空券、そして友と空港へ向かった。途中、一面の菜の花に出会った。
 純銀のモザイクの中、男は友と歌う。何万回と重ねてきた音が、この島に響いたのはこれで最後だった。


 翌朝、男はこの街をいつも通り出る。少年には会わない。
 男はそれからも歌い続ける。何億もの星と空の下、何億回音を友と重ね、歩き続けた。 
 疲れた日には少し眠り、歌い続けた。
 そして島を出て五十七年目の夜、男は深い森の中で倒れた。
 そばにいた友は風と歌い続ける。男はもう何も聞こえなかったが、森の中の空気が震えるのを感じた。
 数時間後、風が止まると歌声も止み、それから森の中から何も聴こえない。



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