【 小狐 】
◆59gFFi0qMc




540 名前:小狐1/5 ◆59gFFi0qMc 投稿日:2007/03/04(日) 23:42:20.56 ID:FdjAOyLW0
 街灯に白い息が浮かび上がる時間に、僕は下宿へと辿り着いた。
 大学三年生の僕は、今年最後の単独厳冬期登山を、二泊三日でこなす予定だった。だが、今年は雪が少ない。
厳冬期の面白みも無い山行を早々に放棄し、森林限界を抜けることもなく、連日連夜、山中のテントでひたすら
飲んでいた。ニリッターのペット焼酎を空にするなんて、今思うとまともじゃない。出発前に四年生から冬山に
まつわる有名な怪奇現象もいくつか聞かされた。だが、酔っ払った僕は最強だ、何も気にならなかった。
 玄関のドアを開け、メインザックを降ろしてから、僕は着の身着のまま畳の上へと寝転んだ。

 おじちゃーん、おじちゃーん。
 窓の外で、幼げな声が誰かを呼んでいる。僕はこのまま意識を失いたい。目を覚ましていると定期的に吐き気
が襲うのだ、勘弁してくれ。
 部屋に散らばるガラクタから、安物シュラフを引っ張り出した。そしてもぞもぞと潜り込んでから深呼吸を一
度行った。落ち着いた、これで眠れそうだ。顔の力が少し緩んだ。
 おじちゃーん、おじちゃーん。
 少し声が近くなった気がする。誰を探しているんだ、保護育成責任者、とっとと確保してやれよ。
 次にまた呼び声が聞こえるかと思って、知らないうちに耳をそばだてていたのだが、何も聞こえてこなかった。
 良かった、誰かが見つけたんだな。僕はもう一度、深呼吸を行ってから意識を失おうとした。
「おじちゃん!」
 突然の大声に思わず大きく目を開くと、僕に覆い被さるように、小さな女の子の顔が浮かんでいるのが見えた。
「お、ああ!」僕は叫び、シュラフの中で両手両足をばたつかせた。だが、もがいても何処にも進まない。芋虫
のように部屋の隅までごろごろと転がり、やっとチャックに手をかけて脱ぎ捨てた。立ち上がり、浮いている子
供の方へ体を向けた。
「な、なんだ、お前は!」僕の指先は震えながらも、女の子を確実に捉えていた。
 その女の子はゆっくりと僕を振り返った。今にも泣き出しそうに、口をへの字に曲げている。
「おじちゃん、やっと気づいてくれた」
 
 女の子が言うには、自分は数百年前にお母さんと一緒に死んだ、狐の自縛霊なのだそうだ。
 その土地に縛られ、今までずっと一人ぼっちだった所へ僕が突然現れた。そして、楽しそうにお酒を飲んでい
たのをずっと見ていて、僕が山を降りると一緒についてきたのだそうだ。
 不自然な程に肌は白く、白の混じる茶色い髪が腰ほどまで伸びる。白地に梅の紅色が華やげな着物を着て、突
き出した耳と尻尾だけが動物であることを物語っている。僕の真っ黒でゆるい天然パーマ、髭ぼうぼう、ウール

541 名前:小狐2/5 ◆59gFFi0qMc 投稿日:2007/03/04(日) 23:43:06.09 ID:FdjAOyLW0
のシャツにズボンは多少匂うという、ちょっと他人とは会いたくない姿と比べても、なんと清らかな姿なの
だろう。強いて言えば、妙齢のお姉さんではなく精々七〜八歳程度の女の子、というのが残念な限りだが。
「お母さんとずっと離れ離れ。一人で寂しかった。おじちゃんは楽しいし、多分優しい人」
 すっくと立ち上がって僕に顔を向けた女の子は、僅かに微笑んだ。だが、子供の目特有の深く黒い瞳が、何か
をこらえているのが分かる。
「おじちゃん!」両手を伸ばして僕に抱きついてきた。そして僕のおなかの辺りで顔をこすりつけ、全身を小刻
みに震わせた。僕は咄嗟に伸ばした両手のやり場に困った。だが、思い直してそっと女の子の後頭部へあてがっ
て、何度も何度もなでてやった。

 女の子が言うには、お母さんは修行を重ねた白い狐なのだそうだ。今頃は稲荷になっているはずだが、稲荷の
力は狐同士を反発する働きがあり、自分では近づけない。だから僕に手伝って欲しい、と言うのだ。
「稲荷って、お稲荷さんの稲荷か? 赤い鳥居の」僕はあぐらをかきながら、思わずそう口に出した。
 参った、僕は山から装備だけではなく、厄介ごとまで担いで返ってしまったようだ。
 後頭部をかきながらそう思った瞬間、女の子は上目遣いで睨みつけてきた。
「言う事聞いてくれないなら、おじちゃんに憑くよ? 狐憑きは寿命が縮まるよ」
 ええ? ちょっとそれは勘弁してくれ。どうしてそんなことをされなきゃならんのだ。
 一瞬慌てたが、間もなく僕は女の子の表情に悲しげな色を見つけた。多分、この子なりに勝負をかけているの
じゃないのか? 僕に何とか探してもらおうと。そのために悪く思われるのも厭わないのだ。
 そんな女の子を放っておけるか? 
 そうか、分かったよ。
 僕は、ふうっとため息をついてから、口元を緩めた。
「今日は遅いし、明日の朝から探すのでどうだ?」そう言って女の子の頭へ手を乗せ、何度も撫でた。
「うん!」女の子は、満面の笑みで元気良く、首を縦に振った。

 次の日、女の子は目の前に広げられた地図帳、それに山行用に貯めてあった二万五千分の一の地図を眺め、
「ここ、多分ここだと思う」と、即座に場所を指し示した。電車で二時間程のその場所。ベッドタウンで団地が
林立する場所である。
 電車に揺られ、最寄の駅を降りた僕と女の子は、とことこと地図を眺めながら歩く。狐の耳と尻尾を持つ女の
子は周囲から見えないようだ。電車代も助かった。だが、髭面で身長百八十の男が、二万五千分の一の地図片手
にコンパスで現在地を確認しながら歩くのだ。ベッドタウンでは見かけないだろう僕の姿に向けられる、周囲の

542 名前:小狐3/5 ◆59gFFi0qMc 投稿日:2007/03/04(日) 23:43:58.79 ID:FdjAOyLW0
視線が気になる。
「おじちゃん、ちょっと早いって」女の子がふらふらしながら僕の後をついてくる。
「僕よりも若いんだからキリキリ歩け」
 まだ子供過ぎるのか、体力が無さ過ぎる。そう思いながらも何とか、目的の神社らしき場所へ着いた。
 そこは、真っ赤な鳥居が何本も連なって赤いトンネルを作っている。一番奥には銅屋根の小屋、そして周囲の
鬱蒼とした森が、神社全体を薄暗く覆っている。
「お前が指したの、多分ここだぞ」僕が呟くように言うと、寒空の下で女の子も汗を流しながら、「分かる、こ
こにお母さんがいる」と答えた。
「おし、いくか」そう言って僕が歩き出したところ、後ろから足音が続かない。おかしいな、と、僕が振り返る
と、女の子は一本目の鳥居の柱に背中をつけ、息遣いを荒くしているのが見えた。
「おい、調子悪いのか?」慌てて鳥居のトンネルから戻った僕は、女の子の肩へ両手を乗せた。
「ごめん。私、ここから行けない。鳥居、結界だから他の狐はここから入れない。でも、お母さんは気づいてい
るからここまで来る」そう言って、女の子はずるっと地面へ崩れていった。
 僕は自分の全身から、血の気が引いていくのを感じた。
「お前はお母さんに会うために来たんだろ? 嘘でも元気な姿を見せてやれよ! どうした!」何度か揺さ振る
が、目を覚まさない。僕は女の子を両手で抱きかかえ、後頭部に手を回して僕の胸に押し付けた。軽い。触った
感触は子供のそれだが、全く重さを感じない。霊だけのことはある。
「私の娘が、どうかしましたか?」
 その声に振り返ると、鳥居のトンネルの中、妙齢の女性が白と赤の着物を着て立っていた。

 貴方がこの女の子のお母さんですか、と尋ねると、そうです、と答えた。
 そこで僕は、機関銃の如くここまでに至る事情を説明した。そのお母さんは、僕の腕に包まれた女の子を一瞥
してから、やっと厳しい顔つきを見せ始めた。
「時間がありません。すぐに、このまま元の山まで連れ帰って頂けませんか?」
 山に帰れだと? この子はどんな思いを抱いて、ここまで来たと思っているのだ。
「雪が少ないとはいえ、今は厳冬期です。装備の準備を含めて到着に丸一日はかかります」
 そう言うと、お母さんは大きく目を開き、口元を手で覆った。「駄目です。それではとても間に合いません」
稲荷とは思えない程に狼狽している。
「間に合わないって」僕がそう聞きなおすと、お母さんは「この子の魂が消えてしまいます」と顔を歪めながら
言った。

543 名前:小狐4/5 ◆59gFFi0qMc 投稿日:2007/03/04(日) 23:44:45.46 ID:FdjAOyLW0
 僕は、”消えてしまう” と聞いた瞬間、女の子を一段と力を込めて抱きしめた。同時に、その行く末に対し
て怒りを感じ始めた。
 ふざけんなよ。この子が何をしたって言うんだ。この子には自分の境遇を恨む権利はあっても、消えなければ
いけない理由なんて無い。そもそも、目の前にいるお母さんは鳥居から外にいる僕達の方へ来ない。自分の子供
がそれ程厳しい状況なのに、何をしているのだ?
 僕は、お母さんを厳しく見つめた。「稲荷ともあろうものが、どうして自力で何とかしようとしないのですか
?」叱り付けるように僕は言い放った。もう稲荷に対する礼儀とか、そんなものは関係無い。これはお母さんと
しての姿勢を問うているのだ。
「稲荷の鳥居は結界です。同時に、稲荷が外へ出られないという作用もあるのです」
 お母さんは目を伏せた。
 この親子は稲荷になるための修行を行っている途中で、がけ崩れに巻き込まれて死んでしまったそうだ。お母
さんは充分な修行を積んでいたので即座に稲荷へなれたが、女の子は駆け出し同然だったため、その場で自縛霊
となってしまったそうなのだ。稲荷となって神社へ収まると、上位神への使いという本来の役割以外では、外界
へは出ることができない。つまり、今まで女の子を助けることができなかったそうだ。
「稲荷とはいえ母親です。母親が子供を気遣わない訳はありません。今までどれだけこの子を思いつづけてきた
か」お母さんは顔を伏せ、その場で崩れた。そして、口元を押さえて肩を細かく震わせ始めた。

「自縛霊であることが原因なのですよね?」「はい」
 地面に崩れ、顔を伏せたままお母さんは答えた。
 おうし、腹を括ろうじゃないか。僕は深呼吸をして、腹に力を入れた。
「じゃあ、僕に憑かせることで自縛霊から解放することは可能ですか?」その言葉に、お母さんは「え?」と、
電気に触れたように顔を上げた。「しかし、貴方の寿命が」
「どれだけ縮みますか? 見積もれるなら教えてください」
 お母さんは右手で自分の顎を摘み、少し首を傾げて考えた。「貴方が修険者であれば共存し、共に修行を積ん
でいくことも可能です。本来、稲荷への道とはそういうものですし、それだと寿命も縮みません。ですが、貴方
は単なる山好き。この子は未熟な狐。どうなるかは分かりません。老人の場合だと即死の例もあります」
 OK。全く参考にならない情報だが、彼女は嘘は言っていない。それで充分だ。
 僕の額を、嫌な汗が流れた。だが、ここで不安がっても仕方が無い。頑張って笑顔を作った。「僕の気が変わ
らないうちに、早く憑かせてやってください」鳥居は結界、その言葉を反芻しつつ鳥居のぎりぎりまで近づいた。
可能な限りこの子をお母さんへ近づけるために。

544 名前:小狐5/5 ◆59gFFi0qMc 投稿日:2007/03/04(日) 23:46:14.32 ID:FdjAOyLW0
 お母さんは微笑みながら、「有難うございます。このご恩、一生忘れません」と、目尻から新たな涙をこぼし
始めた。
 涙が頬を伝い、足元で雫がはじけるまでの間、よく分からない幾つかの言葉を唱えた。
 思わず唾を飲み込む。そして間もなく、目の前が真っ暗になった。
 後で気づくと、僕は鳥居の前で倒れていた。どうやら失神していたらしい。お母さんは既に姿を消し、心配そ
うな顔で女の子が僕の顔を覗き込んでいた。

 色々あったが結局のところ、女の子は僕に憑くことで元気を取り戻した。懸案だった僕の寿命も、女の子が余
りにも未熟だったため、殆ど影響が無いようだとのことだった。だが、狐憑きの影響が別方面で出始めた。
「や。野菜は固いから嫌い。ミルクやバナナが好き。油揚げも好きだけど、固いの嫌だから細かく切って」
 と女の子が言うように、僕の食に対する嗜好までもが一転した。冷蔵庫の中はミルクとバナナ、そして油揚げ
で占められたのだ。山男にはあるまじき食生活であろう。
 更に次の日の朝、大きな影響が出た。

 目覚まし時計のアラームを叩くように止めた僕は、下腹部の不快感に気づいた。
「……なんか、昔にこんなのあったような」
 まだ充分回らない頭で過去を振り返る。だが、今ひとつ思い当たらない。何が僕を不快にしているのだ? 僕
は掛け布団を、片手でめくるように投げ飛ばした。
「うおっ!」僕、寝小便をやっちまってる。
 一瞬、頭の中が真っ白になったが、少し自分を取り戻して考え始めた。物事には必ず原因がある筈だ。やがて
一つの疑惑が浮かんだ僕は、「こら! 出て来い!」と、股間を見つめたまま怒鳴った。
 足元に女の子がちょこんと現れた。耳と尻尾がついた、相変わらず可愛い着物姿だ。
「何?」「お前、まだ寝小便垂れるのか? やっちまったじゃねぇか!」僕がそう言うと、女の子は眉を潜めた。
「私、そんなことやらない。おじちゃんが寝小便垂れなだけじゃないの?」「んな訳ねぇだろ!」
 女の子は悪びれる様子もなく、ぺろっと舌を出した。そして、軽く片手を振りながら姿を消していった。
 その様子を眺めてから、僕は右手を額にあてがい、左右に首を振った。

 だが、不思議と女の子に対して嫌な感情は湧かない。恋人とはまた違った大切な人。そんな感じだ。
 この子と共に生きよう。
 窓越しの空を見上げながら、僕はそう思った。



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