【 ウィルオウィスプ 】
◆QIrxf/4SJM




505 名前:ウィルオウィスプ(1/5) ◆QIrxf/4SJM 投稿日:2007/03/04(日) 23:27:45.46 ID:93UOdFnt0
 ある澄み渡った春の昼下がりのことである。
 生まれてこの方治ることを知らぬ放浪癖に身を任せて、見知らぬ道をぶらぶらとうろついていた。
 気まぐれに道無き道を行ったり、人様の庭へお邪魔したりする。時には草を掻き分けることもあり、せせらぎを渡ることもあった。
 まさに行き当たりばったりの愚かな散歩に、私は至上の幸福を得るのである。
 今進んでいるあぜ道も、先日引っ越してきたばかりの私にとっては初見であり、まだ家からさほど離れていないというのに気分を高揚させてくれる。
 広大な田と田の間を進んでいくと、山肌に突き当たった。あぜ道は両端に伸びているけれども、敢えて山の中へと分け入ったのである。
 腐葉土になりきれず、まだ枯葉の形を残した地面を踏み、木々の間を歩き続ける。
 歩みの進んだ先で、二人分ほどの道幅しかない山道に出くわした。
 私は迷うことなく山道に足を乗せて、道なりに進んでいった。道端には小さくて綺麗な白い花が咲いていた。
 久しぶりに踏みしめられて嬉しいのか、山道は歩くたびに音を立てる。
 横切ったお地蔵様は風化していて表情も分からないし、道先を示す立て看板はすっかり墨が落ちてしまって用をなしていなかった。
 周りの風景を愉しみながら歩いていると、今度はY字路にぶつかった。
 私は道端に落ちている小枝を拾い、地面に立てて手を離した。
 初め、小枝はY字路の右側を向いて倒れたが、水平な地面をころころと左へ転がり、小石に引っかかって左の道を指し示したのである。
「はて、不思議な示し方をしたものだ」
 覚えず口元を緩めてしまった。行く先に何かが待っているような予感がしたのである。
 期待で歩みが速くなる。
 やがて、左手に大きく古めかしい門が現れた。
 そこには蔦が絡み付いており、錠の代わりをしているようだ。奥には荒れ果てた庭と、古びた洋館が聳えている。壁の色は落ち、正面に見える窓硝子にはひびが入っていた。
 おそらく人は住んでいないだろう。仮令、住んでいようが私には関係ないことだ。
 蔦を引きちぎり、門を押し開けた。
 何年も閉じたままだったのだろう。気怠そうな音を立てて、門は私を受け入れた。
 雑草が思いのままに生え渡り、玄関まで続く道だけが、少しだけ土を覗かせている。
 このまま誰も踏みしめなければ、この道も雑草に飲み込まれてしまうだろう。
 私は普段よりも強く地面を踏みしめて歩いた。
 遠目に見ていた洋館は、徐ら大きくなっていく。
 一体、どれほどの金持ちが住んでいたというのだろうか。細長い窓が縦に三つ並び、飛び出た玄関ポーチには、今ではすっかり苔むしてしまっているものの、豪奢な装飾を施されていたということがわかる。その風格はまだ十分に残っていた。
 私は扉に絡んだ蔦を引き剥がし、ノブの手を掛けた。

507 名前:ウィルオウィスプ(2/5) ◆QIrxf/4SJM 投稿日:2007/03/04(日) 23:28:20.36 ID:93UOdFnt0
 キィと音を立てて扉が開く。
 中は外ほど荒れてはいなかった。見上げれば所々にクモの巣はあるし、どこも埃を被っているけれども、不思議と汚いという印象は受けなかった。
 それらは、長い間木々の中に隠されて外の世界から隔離されていたこの洋館にも時は流れていたのであると、証明しているのである。
 クモの巣や、空気中を舞う埃は、日光を反射して神秘的な光景を映し出している。
 私は感嘆の声を上げてしまった。
 玄関ホールはとても広いものだった。大きな階段が正面に構えており、それは上るにつれて両脇に広がり、ホールを一周して玄関ポーチの上のバルコニーへと繋がっているようだ。
 私は右の人差し指で手すりを撫ぜながら階段を上った。
 上った先で、指先に一息吹きかけると、埃が舞って正面の廊下へと流れていった。私は埃に従って、真っ直ぐ進むことにしたのである。
 歩くたびに、こつこつと足音が鳴る。それは広い洋館の中に響き渡って、私を少しばかり物寂しくさせた。
 どうやら、この階は客室で構成されているらしい。ドアのそれぞれに洒落た文字で銘打ってある。私は指で埃を払い、それを一つ一つ確認しながら奥へと進んでいった。
 そうして指でドアの銘の埃を払っているとき、ふと廊下の奥の方で、コトンと何かが転がるような音がしたのである。
 私は一瞬ひやりとしたが、そのまま音のした方へ歩いていった。
「なるほど、音の正体はこれだったのか」
 足元に何かが落ちていたので拾ってみると、獅子の顔を模ったドアノッカーだったのである。
 その両目には、何か宝石のようなものが埋め込んであり、埃を拭うときらきらと光った。
 私はしばらくそれを眺めた後、ドアノッカーをもとの場所に嵌めなおしてやった。
 突き当たりから、廊下は左右に伸びていた。おそらく館を一周しているのだろう。
 右側を覗き込んでみると、奥の方で何かが横切って消えた。黒い影のようなそれは、壁に吸い込まれたようにも見えた。
 私は惹き付けられるようにその方へと歩みを進めたのである。
 先ほどまでの廊下が薄暗かったせいか、左手から差し込む日が眩しかった。太陽はもう、かなり傾いてしまっているらしい。
 ドアを何枚か通り過ぎたところで、再び足元に何かが落ちているのを発見した。
 これが落ちるのを何かが通ったと勘違いしてしまったのだろうか。
 手にとってよく観察してみると、どうやら、これはドアノブであるようだった。おそらく蛇を模したものであろう。袖で丁寧に拭ってやると、黄金色にきらきらと光り輝いた。
 ノブのあるべき部分に嵌めてやると、弾みでドアを押してしまった。
 錆びの剥げ落ちる音がしてドアが開いた。
 そっと、中を覗き込んでみる。ドアのすぐ近くには円卓が置いてあり、椅子が三つ添えられている。その右手には、鏡台が置いてあった。今はどれも埃を被って色あせてしまっているが、使われていた頃は、とても豪奢だったに違いない。
 さらにその奥に、埃の積み重なった天蓋つきベッドがある。
 そこに、一人の女性が座っていた。

511 名前:ウィルオウィスプ(3/5) ◆QIrxf/4SJM 投稿日:2007/03/04(日) 23:29:28.07 ID:93UOdFnt0
 彼女の髪の毛はとても艶やかで黒く、腰まで伸びている。反して肌はまるで蝋でできているかのように白く、淡く桃色のかかった頬は、少女のようなみずみずしさを与えている。
 彼女は純白のキャミソールの上から同色のレースのワンピースを着ていて、その透明感はまるで硝子細工の人形のようだ。
 彼女は凛とした表情を私に向けている。そして、じっと私のことを見つめていた。
 雪のような肌、燃えるように紅い唇、ほのかに上気した頬、眉の上で切り揃えられた前髪の造形――――
 私は見とれてしまっていた。
 こんなにも美しい女性は見たことがない。
 私は彼女に手を伸ばして、語りかけようと口を開きかけた。そのときである。
 ことん、と背中の方で音がした。振り向くと、開け放したドアの先で、先ほど嵌めなおしたドアノブが転がっている。
 再びベッドの方へ向きなおすと、そこに彼女の姿は無かった。
 一体今の女性はなんだったのだろう? 本当に幻視だったのだろうか。いや、あんなにも鮮明だったではないか。
 それからしばらく彼女のことを探し回ったが、見つけることは出来なかった。散策をする気の失せた私は、首を傾げつつ、洋館を後にしたのである。
 それから家に帰っても、私は彼女のことばかり考えていた。夕食は手につかず、箸を持ったまま頬杖をついて、ぼんやりと天井を眺めていた。
 
 翌日、私は再び散歩に出かけた。何の目的地も経路も設定して出たつもりはなかったのに、この足は昨日と同じ道を辿っていた。田んぼのあぜ道を進み、山を分け入ってY字路を左へと進んだのである。
 途中、小さな白い花を一本摘んだ。もし、彼女に会うことが出来たなら、お土産にこの花を渡そう。
 洋館は変わらずにそこにあった。私は彼女を探して、洋館の中を彷徨ったのである。
 結局、たどり着いたのは彼女と出会った部屋だった。ドアノブは転がっておらず、ちゃんと据えつけられている。
 私は息を呑んで、ドアを開けた。
 円卓、鏡台へと視線を移し、ベッドを見た。
 黒く潤んだ髪に、白く透き通る肌。控えめに姿を覗かせた鎖骨に、やわらかくふくらんだ胸元―――
 そこにいたのは間違いなく彼女だった。
 彼女は先日と同じように、私のことをじっと見つめている。
 私は彼女のことをどのくらい見つめ返していたのだろう。まるで縛り付けられたかのように、彼女から視線を外すことが出来ず、凝視していた。
 私はやっとの思いで口を開いた。
「この花を君に―――」
 言った瞬間である。背中の方で音がしたのだ。何の音なのかは想像が出来た。振り向けば、彼女が消えてしまうということも分かっていた。けれども、音の方へ振り返ってしまったのである。
 案の定、ベッドに視線を戻すと、彼女の姿は消えていた。
 私は摘んできた花をベッドの上に置き、洋館を後にした。

519 名前:ウィルオウィスプ(4/5) ◆QIrxf/4SJM 投稿日:2007/03/04(日) 23:30:51.08 ID:93UOdFnt0
 それからというもの、洋館へ行く前には必ず花屋へ行き、彼女に似合いそうな花束を買った。毎日のように彼女に会いに行った。
 いつも一目見ることは出来るけれども、何かしら邪魔が入って目を逸らした隙に消えてしまう。それから私はベッドの上に花束を置いて帰るのである。
 次の日に私がやってくると、前の日に贈った花束は消えていて、ベッドの上には彼女が座っている。彼女はその凛とした表情で、私のことを見つめるのである。
 家にいるときはいつも物思いに耽っていた。食事なんて必要ない。彼女のことを想うだけで私は満たされる。ありとあらゆる不快さは、そこに入る余地すら無いのである。
 ある夜、私は、彼女が一度たりとも微笑んだことがないという事に気が付いた。彼女の顔は、いつも生真面目に私を見つめ、まるで選定しているかのような眼差しを向ける。
 そんな彼女は一体、どのようにしてあの美しい唇を綻ばせるのだろうか。
 彼女の笑顔はどんなものだろう。歯を見せて笑うのか、口元を隠して上品に笑うのか。
 あらゆる想像をめぐらせて、体が燃えるように熱くなるのを感じた。
 そうして翌日、麗しき彼女へ募らせた想いは、抑えがきかないほどに膨らんでいた。
 花束を持つことも忘れ、あぜ道を進んでいく。
 ふらりと歩くことは好きだったはずなのに、洋館までの道のりが、堪らなく煩わしく感じた。―――ああ、なんてじれったいのだろう!
 視界はぼんやりと霞がかかっている。その上、無音だった。じゃりじゃりと、地面を踏む音も聞こえない。それに、なぜか少しばかりふらふらして歩き辛かった。
 Y字路に差し掛かり、洋館の門が見えたときに気が付く。
 私は五感すら忘れてしまいそうになっているのだ。彼女のせいで、心が酔ってしまっているのだ。一歩一歩近づくたびに高まっていくときめきに、私は負けそうになっているのだ。
 燃えるように熱い頬だけが、そのことを証明しているのである。
 私は玄関の扉の前で、一旦立ち止まった。ここに来て、またも気付くことがあったのである。
 きっと、彼女が笑わないのは、私が微笑まないからだ。

520 名前:ウィルオウィスプ(5/5) ◆QIrxf/4SJM 投稿日:2007/03/04(日) 23:31:25.65 ID:93UOdFnt0
 私はいつも彼女の美しさに気をとられて、微笑むことすら忘れてしまっていた。時間すら忘れて、じっと彼女のことを見つめていた。
 私は扉の前で、口元をつり上げる練習をした。私が微笑めば、彼女も必ず微笑み返してくれるだろう。
 気の済むまで練習し、私は洋館の中へと入った。中央の階段を進み、突き当りを右に曲がる。そして、数枚のドアを通り過ぎたところで、蛇を模ったノブを握った。
 音も無く、ドアが開かれる。
 霞がかかり、すっかり狭くなってしまった視界を円卓から鏡台へと移していく。
 ベッドの前に、彼女は立っていた。
 黒曜石のように透き通ってきらめく瞳が、私を見つめている。
 私はゆっくりと、彼女に近づいていった。
 もはや彼女以外、何も見えなかった。音も聞こえない。
 近くで見れば見るほど、彼女のきめこまかい肌は艶やかで、さらさらと流れる髪の毛は、吸い込むような黒に潤んでいる。優しげに見開いた目の中に、私の姿が映っていた。
 手を伸ばせば触れることが出来るほどに、近い距離に彼女がいた。
 さあ、練習しただろう。いまこそ、彼女に向かって微笑えみかけるのだ―――
 その時だった。
 彼女が、私よりも先に微笑んだのである。
 林檎のように赤く、控えめな口元が、ふわりと綻んだ。ほんのりと上気した頬がふくらんで、彼女の麗しい顔に可愛らしさを添えた。
 私には彼女の姿がきらめいて見え、その微笑みは、何よりも価値のあるものに思えた。
 彼女がそっと手を差し伸べてくる。
 そして、首を少し傾けて、再び微笑んだ。
 ――――ああ、そうだったのか。
 全てを悟ったような気がした。私は彼女に導かれてここへやってきたのだ。彼女を愛するために生まれてきたのだ。
 彼女の華奢な手を目指して、私の手が動いた。
 右手の先に、彼女の右手があった。その先には、しっとりと微笑む彼女の顔。はらりと揺れる前髪が、まるで魔法のように私の神経を麻痺させる。
 ちょこん、と手と手が触れ合った。私は、そのか細い手を壊さないように、そっと握った。
 体の力が抜けていく。ふわりと浮かんでいくようだ。
 とても気持ちのいい解放感があった。何故だか今、彼女をとても身近な存在に感じている。
 私は、彼女と同じ存在になるのだ。あの美しい彼女のそばで、彼女がいままでそうしてきたように、この洋館を守り続けていくのだ。
 こんなにも幸せなことはない。

 私の手を握り返した彼女の笑顔は、とてもまばゆいものだった。



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