【 ゴミ拾い 】
◆sjPepK8Mso




982 名前:ゴミ拾い1/3 ◆sjPepK8Mso :2007/03/03(土) 21:07:47.58 ID:guMGlovH0
 「電脳世界に墓石は無い」
 人の言う、デジタル世界開拓の第一人者の言葉だったと思う。
 これは人類に対するある種の警告だったんじゃないかとイリは思うのだが、実際の所はどうなのか分からない。確かめようも無い。
 もうこの世にいない人間の言葉なのだから。
 イリがシリコンジャック社の積層脳素子部門に、インテリジェンスチップとしての命を与えられたのは、十年も前の話で、その時にはネットの世界は既に停滞期に入っていた。
 もう、電脳が開拓されてから一世紀にもなるそうだ。それは公式な記録だから、大きな間違いは無いと思う。
 人の肉体は百年もの時間を生きる力は持っていない。その第一人者は電脳に生活の場としての意味を与えたくせに、電脳を毛嫌いしていたと言うから、電脳に逃げたわけでもないと思う。
 データの断片すら、この世界には残されてはいないだろう。
 しかし真意が分からずとも、残された言葉の生の意味はわかる。
 電脳世界には、事実墓石が無い。
 ムダを削ぎ落とし、殺風景に勤めようとする断続的な世界には、墓と呼ばれるものが作られない。
 現実の世界とやらでは、人は死んだ人間を忘れないように墓を作るのに、電脳の世界ではそんな常識はどこ吹く風になってしまう。
 一体それはどうしてなのか、インテリジェンスチップであるイリには到底測りかねない事である。
 今現在電脳の世界に、脳をデジタル化して入り込んでいる人間達は、いつどんな事故が起って死ぬかもわからない。
 サーバーに問題が起ったり、あるいはウイルスプログラムに触れてしまったり。
 剥き出しのデータが、ほんの少しでも破損するような事があれば、人間は元通りには戻れなくなってしまうのだ。
 それはイリにだって言える事ではあるが。
 しかしだ。
 消える、もとい死ぬ危険性が高いからこそ余計に墓標は必要不可欠なものではないのだろうか。
 せめて消えない思い出の形だけは残しておこうとは思わないのだろうか。
 もし、そう思ってくれれば、イリだって嫌な仕事をしなくて済むのに。
『イリ、神奈川サーバーの四番地区を回ってきてくれ。今月の行方不明者の数がダントツだ』
 シリコンジャック社からの指令だ。イリはシリコンジャック社のゴミ処理係の頭数を揃える為に作り出された。社命というヤツだろう。
『了解しました』
 会話は文字で交わされる。肉声はデジタルの中で意味を成さない。
 ログがシリコンジャック社の中央コンピューターに保存されただろう。
 もし、イリがこれから神奈川の四番地区を回って来なければ、イリは命令違反として即刻廃棄処分にされる。

983 名前:ゴミ拾い2/3 ◆sjPepK8Mso :2007/03/03(土) 21:08:25.74 ID:guMGlovH0
 チップよりも、人間のほうが偉いのは世界共通の常識になっていた。人間の決定は、チップにとって絶対だ。
 ただ、イリはそれを恨んではいない。イリが生み出されたのはシリコンジャック社に顎で使われるためなのだから。
 言われてから二秒で今いるサーバーを抜けて、神奈川サーバーに転じる。
 整理されて作られた「道」を辿って、広告の漂う海を流れて四番地区に向かう。
 これから始まるイリの作業は、ゴミ処理である。ゴミ処理係なのだから、当然だ。断じて、それ以上のものではありえない。
 本社の人間は行方不明者が多いと言って、イリを寄越した。
 それは、決してその原因を突き止めるためではない。
 シリコンジャック社は、日本の中部地方の電脳を管理する会社であり、その運営を邪魔するゴミを排除する事もまた、仕事の内なのだ。
 電脳を移動している間に行方不明になったと言う事は、つまりデータが破損したと言う事だ。
 サーバーのトラブルなのか、作為的なものなのかはわからないが、「死んだ」人間がそこには沢山いる。
 だから、その行方不明者のリストを作って遺族に知らせるなり、共同墓地に入れるなりするのが人道的な措置というものではないか、と思うのだ。
 会社の人間が言うには、それはシリコンジャック社の守備範囲外らしい。
 いまや、ネットの中に住む人間の数は星の数にも昇っている。その一人一人を完璧に管理するのにどれだけの労力がいるのか、想像もつかない。
 国を挙げて、いや、世界を挙げて制度改革でも行わなければネット人口は把握できないのではないかと言われている。
 ネットの中に入って、肉体の縛りを忘れてしまった人間は、どこにでも行ってしまう。
 結果、リストを作る事は不可能になる。それにしても、共同墓地ぐらいは必要だと思うが、それが作られる事は無い。
 なんにせよ、ネットに転がった残骸を処理するのはイリの仕事だと言う事だ。
 残骸は、元々人間だったデータの集合体である。
 重力を忘れた人間が、何らかの弾みでデータを破損すると、中身を撒き散らして灰色の海を漂う事になるわけだ。
 数を数える事も出来なくなった、ネット上の行方不明者である。
 その数は膨大だ。
 しかし、統率する意思を失ったデータはゴミでしかないのは事実で、そのゴミから個人を判別する事も出来ない。

984 名前:ゴミ拾い3/3 ◆sjPepK8Mso :2007/03/03(土) 21:08:58.55 ID:guMGlovH0
 ――ゴミ捨て場に持っていくしかないわけだ。
 「道」を埋め尽くす勢いで海を漂う残骸の中の一つを補足する。
 それはネットの中で個人を特定する為のアイドル、つまりは人形だった。男性型で、勇猛さを表す記号の名残が感じられる。
 その腹にあたる部分から、クレジットの切れ端と記憶が0と1の粒子になって流れ出ている。
 イリはインテリジェンスチップである。
 インテリジェンスチップとは、かいつまんで言えば人工知性体の事で、本来ならばネットの世界においては人間と対等であるべき存在である。
 意思だけを価値決定の基準とするならば、電脳化した人間とインテリジェンスチップの間に差異は無い筈だ。
 それは、残骸になる前のアイドルとイリが同等の存在であったと言う事だ。
 なのに、その人の形をした具象は、なにをすることも出来ず、無い天井を見上げて機能していない知覚肢を固めている。
 心苦しい。
 自身を唯のプログラムだと、認識しているイリには、目の前の壊れたプログラムと自分が違ったものには見えない。
 それを、処理しなければならないのだ。自らと等価の存在をゴミクズと卑下して、誰の目にも触れられぬ暗闇に閉じ込めなければならない。
 イリは社命を守らなければならない。
 社命を守る事こそがイリの存在意義である。
 漂う具象の腹をパッチで閉じて粒子が流れ出さないようにして、確保する。
 このアイドルが一体誰だったのか、イリは最後まで知ることが出来ないだろう。
 彼個人は、死んだことも気付かれずに電脳の世界から姿を消す。彼だったものはゴミ捨て場で完全に壊れるのを待つばかりになるだろう。
 彼は、墓を作られる事は無いのだ。忘れ去られるのだから。人間なのに。
 本当に忘れ去られるという意味で「電脳世界に墓石は無い」のだ。アナログな現実世界に守られていた彼は、その守りを捨てた所為で個人ではなくなってしまう。
 彼が個人であるという「情報」は、誰にも守られる事無く散っていくしかない。
 それがどうした、と笑ってやれれば言いと思う。でも、イリにはどうしてもそれが出来そうに無い。
 イリには社命がある。
 彼、あるいは彼女に出来るのは、次の残骸をキャッチする事だけなのだ。
 人の体は水に浮かぶ。それが海の塩水なら尚更だ。
 しかし、電脳の海に満たされているのは塩水ではなく、情報だ。
 死体よりも比重の重い情報の海の中では、人は沈んでいく事しか出来やしない。
 緑色に偽装した情報の波は、やさしく人に覆いかぶさってくれる事であろう。
 イリがいくらやりきれない思いをした所で、沈んだ人間が浮き上がってくる事は無い。イリは、明日も明後日も、その次の日もやりきれない思いをし続けなければならないのだ。
 守らなければならない社命のために。



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