【 その男ところにより要注意 】
◆4rl/RGQ6V.




111 :No.32 その男ところにより要注意 (1/4) ◇4rl/RGQ6V.:07/02/25 23:05:46 ID:6Tu5S6sN
 江戸へと続く街道。疲れた脚を休めるため、仁兵衛は道中にあった御茶屋に立ち寄った。
 真夏の強い日差しから逃げるように庇の下に潜り込み、仁兵衛は椅子に腰を下ろした。
店の娘が運んできたお茶を頂き、限界まで渇いていた喉を潤す。仁兵衛は額の汗を手の甲
でぬぐうと、娘にお礼を言って湯のみを返した。
 日陰に入ったおかげで気温は大分下がり、吹き込む風が汗にまみれた体を冷やしてくれ
る。仁兵衛は腰にさしていた刀をわき置くと、胸元を緩めて風を着物の中に通した。しば
らくして体が冷えると、仁兵衛は適当に団子を注文し、娘は笑顔でそれに応え店の奥へと
消えていった。
 仁兵衛はそれを見送ると、視線を店の外へと向けた。街道に沿って、背の高い雑草が鬱
葱としている。見渡す限りに広がる草原の向こうには、江戸を囲む山山が連なり、その上
には巨大な入道雲が天高くまで聳え立っていた。近くの木に集まった蝉が、何かに責め立
てられているかのように高音を響かせている。
 左を向けば、街道は遠く山の方まで延びている。強い日差しの中、その街道をこちらへ
と歩いてくるいくつかの人影を見て、仁兵衛は乱した着物を整え、わきに置いてあった刀
に手を伸ばした。
 しばらくして店の娘が出来上がった団子を運んできたが、仁兵衛はそれには応えず近づ
いてくる輩どもに意識を集中させていた。仁兵衛の放つ異様な気配に気付いた娘は、次に
店に近づいてくる男達に気付いた。娘が慌てて店の中に逃げ込むと、仁兵衛は立ち上がっ
て、やってきた男達を迎えた。
 男達は全部で四人。仁兵衛の前に並ぶと、一人が刀を抜いて構えた。仁兵衛もそれに対
抗して刀を抜くと、残りの三人もまた刀を抜き、五人の間に緊迫した空気が流れた。
 殺し屋仁兵衛。
 悪しきを憎み、弱き者を助ける正義の殺し屋。
 今まで、弱者を助けるため悪行を重ねた多くの者達を成敗してきた彼には、常に命を狙
う者の影が付きまとう。今日この日この時現れたこの四人もまた、仁兵衛を始末するべく
送られた刺客達であった。
 あれほど五月蝿かった蝉が、今は夜更けの時のように黙りこくっている。

112 :No.32 その男ところにより要注意 (2/4) ◇4rl/RGQ6V.:07/02/25 23:05:58 ID:6Tu5S6sN
 仁兵衛が、じりり、と足を動かすと、一人が気合の一声と共に切りかかってきた。仁兵
衛はそれを軽くかわし、がらりと開いた男のわき腹を一息に薙ぎ切った。男は叫び声を上
げて地面に倒れ、それを合図にするかのように残っていた三人も仁兵衛を取り囲み切りか
かってきた。
 繰り出される幾重もの刃を時に受け流し、時に刀で迎えうつ。三対一という数の差に負
けることなく戦う仁兵衛だったが、流石にそれは防御に徹するのがやっとであった。三人
に周りを囲まれているため、仁兵衛は常に全方向に注意を巡らせなければならない。前方
からの攻撃をかわせば、次は左右後方からやってくる攻撃に対処しなければならない。と
ても攻めに回る暇はなかった。
 この状況を打破するため、仁兵衛は好機を窺って三つ全ての攻撃をかわして街道沿いに
ある草むらへと駆け込んだ。
 三人は横一列となって仁兵衛を追う。仁兵衛は走りながらもそれを確認し、次の手を考
察した。
 三人に囲まれないようにこれを倒すならば、左右に広がった二人の内どちらかに回りこ
むように切り込めばいい。どちらか一方に回り込めれば、三人全員を縦一列に捉えること
ができ、また反対側の男が仁兵衛の許へ駆け込むのに僅かな時間の差異が生まれる。その
時間の差異は瞬きも許されない刹那の間ではあるが、それが最良の手ならばと、仁兵衛は
自分の才能と技量を信じ決意を固めた。
 適当なところで足を止め振り返り、迫り来る三人の左前方へと回り込むべく大地を強く
蹴りつけようとした、その時、彼にとって予想外のことが起こった。踏み込んだはずの足
が、地面を蹴ることなく空を蹴ったのだ。体の重心は、込めた力の向きに従って後方へと
持っていかれ、仁兵衛は大きく後ろに転倒してしまった。草むらに駆け込んだことが仇と
なった。地面が雑草で見えにくくなっていて、そこにあった窪みに気付けなかったのだ。
 さらに仁兵衛が転がった先は僅かな斜面となっていた。仁兵衛の体は、倒れた時の勢い
のまま坂の上を後転し途中何度も頭をぶつけ、仁兵衛は意識を失ってしまった。
 その間も、刀を持った三人の男は仁兵衛の命を奪うべく迫ってきている。
 あわや、殺し屋仁兵衛絶体絶命の危機であった。

113 :No.32 その男ところにより要注意 (3/4) ◇4rl/RGQ6V.:07/02/25 23:06:11 ID:6Tu5S6sN
 そして、日本刀を持った男は蔵からのっそりと姿を現した。
 なんだか頭痛がするが、そんなことを気にしている場合ではない。日本刀の柄をしっか
りと握りなおし、襲い来るはずの敵を迎え撃つべく刀を構える。しかし、そこには立派な
日本家屋が建っているだけで誰が近づいてくる気配もなかった。
 やるべきことが見当たらなかった男は、とりあえずその家の敷地から出ることにした。
 日本刀を携えた着物姿の男。そんな時代錯誤必至な男の姿を、通りすがりの主婦がたま
たま目撃し、大きな悲鳴をあげた。


 正午を少し過ぎた頃、中村康弘巡査が交番で昼ごはんを食べながらテレビを見ていると、
一人の主婦が駆け込んできた。
 折角いいところだったのに。中村巡査は、何だか水をさされたような気分になったもの
の、気を取り直して主婦の話を聞いた。
 主婦のおばさんが言うには、つい今しがた日本刀を持った男が歩いているのを目撃した
のだそうだ。中村巡査は最初、おばさんの言っていることが信じられなかったが、実際に
現場へ向かってみて唖然とした。
 閑静な住宅街の一画。幹線道路から遠いこの辺りは平日の昼間ということもあってか、
聞こえてくるのは小鳥の囀りだけという非常に落ち着いた雰囲気の場所だった。が、そこ
に場違いな存在があった。
着物姿の男が片手に日本刀を握り、なにやらブツブツと呟きながら道を歩いているではな
いか。
 あまりにも時代錯誤なその格好。巡査は何かの間違いではないかと思いつつも、その男
に近づいていった。
 側まで来て男が持つ日本刀を観察する。抜き身の刀は鋭利な輝きを放っていて、巡査は
思わず息をのんだ。本物の日本刀は博物館などに飾られているのを見たことはあるが、男
が持っているのが果たして本物なのかどうか、中村巡査には判断ができなかった。
 巡査は恐る恐る男に声をかけてみた。男は立ち止まり巡査の方を向くと、なにやら意味
不明なことを言いだした。やれ、自分は殺し屋仁兵衛なのだとか、自分は今三人の侍と戦
っていただとか。殺し屋仁兵衛の名については心当たりのあった巡査だったが、男が何故
こんなことをしているのかは全く理解できなかった。

114 :No.32 その男ところにより要注意 (4/4) ◇4rl/RGQ6V.:07/02/25 23:06:24 ID:6Tu5S6sN
 とりあえず、この男をこのまま放っておくわけにはいかない。中村巡査は日本刀を怖怖
と見つめながらも、男に署まで同行するように言った。はじめは意味不明なことを話して
いた男だったが、徐徐に落ち着いてくると素直に指示に従うようになった。巡査は日本刀
を一時預かり、男を署へと連行した。



 しばらくして、男の家族が署にやってきた。現れたのは彼の長男で、古田和夫といった。
今年で五十歳になる高校の教師だった。
 彼の話によると、この男、古田慎太郎は八十歳になった頃からボケが酷くなり、たまに
自分のことも分からなくなるのだそうだ。
 その日も、昼間に放送していた時代劇を見ていて、自分が殺し屋仁兵衛だと勘違いした
らしい。映画やドラマに影響を受けてその主人公になりきる人はいるが、わざわざ自宅の
蔵に保管されている日本刀を持ち出すとは。和夫の話によると、自分を仁兵衛だと勘違い
したのはこれが初めてではないらしい。
 慎太郎が何か事件を起こしたわけでもなく、日本刀の所持にも許可はちゃんと取ってい
たので、今回は注意だけで済むことになった。
 和夫は何度も頭を下げ謝っていたが、当事者であるはずの慎太郎は自分のした奇行をほ
とんど覚えていないらしい。呆けた顔で椅子に座っていた慎太郎は、側に立っていた中村

巡査に、仁兵衛はこけた後どうなったのかを訊いてきた。中村巡査は呆れてため息をつい
た。
 仁兵衛はあの後、どこからともなく現れたお菊が助けてくれたのだ。お菊とは仁兵衛の
仲間で、仁兵衛が危機に瀕したときになると、どこからか駆けつけて手助けをしてくれる
女忍者のことだ。
 たまたま昼にその時代劇を見ていた中村巡査がそう説明してやると、慎太郎は安堵の表
情を浮かべてお礼を言い、深深と頭を下げた。

終わり



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