94 :No.27 東の果てへ (1/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/25 22:24:15 ID:6Tu5S6sN
暗がりを、満月がほのかに照らしている夜。四方を塀で囲まれた城下の門に、俺は立っていた。
街の南側を地中海に面し、中央の区画にはこの地方を治める領主の城がある。
地方の港町としては、なかなか活気がある方だ。
シルクロードを通じて、はるか東方から舶来品がお目見えすることもあった。
そして市街全域を包み込んで、城壁が港湾の半周を囲んでいる。
その中に数カ所、城壁内外を行き来可能にする堅牢な門が構えており、夜になると一カ所だけを残して、他
の門は通行禁止となった。
俺が立っていたのは、まさにその通行可能な一カ所だ。門番として、怪しい人物を塞き止めるという役目を背
負っていたのだ。
だからその日、門に現れた人物を、俺は何があっても城の外へ逃がしてはならなかったのである。
春の気色が心地よい、一晩の夜番を持たずに眠ってしまいそうな、そんな夜だった。
最初、その人影は、月におぼろげに照らされて、あまりに小さく頼りなかった。その影に向かって、ここ通さぬ
ぞ、と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
目の前にいるのが、街の誰もが知っている少女であったからだ。彼女を前に、言葉は無力である。
少女は明らかに身の丈に合わない刀を構えており、その目は怯えながらも、きつく俺を睨みつけていた。
俺はそれに構わず、両手を開いて前に突きだし、ここは通さぬ、と身振りで伝えた。
やれやれ、門番も楽ではない。
先月、先の領主であるルッチオーニ公爵が何者かに殺された。
死体には、右の頸動脈を貫いた痕跡とおびただしい出血が残っており、鋭利な刃物で殺されたのだろうと推
測されている。
十三歳になる彼の娘が忽然と失踪したことも、事件に不気味な花を添えた。ある者は彼女が公爵を殺したん
じゃなかろうかと言い、ある者はむしろ彼女も事件に巻き込まれた被害者だろうと噂した。
未だ、真相は闇の中である。
そして、彼女には聴力がないことを、街の誰もが知っていた。言葉を話すことも、やはりできない。
生まれながらに音のない世界で育ち、城の外へ出ることを一切禁じられていた彼女にとって、その目に映る
港町と地中海の景色だけが、この世の全てであった。
少女には、キアラという名がある。
だが、彼女はその言葉の持つ音の響きを知らない。
95 :No.27 東の果てへ (2/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/25 22:24:28 ID:6Tu5S6sN
キアラが構える刀剣の切っ先は、依然俺に向けられている。月夜の光を映し込んで、彼女の刀は青白い輝
きをまとっていた。
そして俺は、その刀がすでに返り血を浴びていることに気づいた。
やはり公爵を殺したのはキアラなのだろうか、という思いが俺の気分に陰を差す。
突如、キアラが俺に斬りかかってきた。
太刀筋は遅く、鈍い。余裕を持ってそれをかわす。
二度三度、同じことが繰り返されたが、キアラの刀は標的をかすりもしない。この時点での力量差は歴然と
している。相手は十三歳の少女だから、当然の話だ。
攻撃が通用しないと悟ったのか、キアラは観念したような面持ちになった。そのまま刀を自分の首元へ当て
ると、涙目になりながら訴えかけるような視線を送ってくる。自害するような雰囲気はなく、泣き落としに来たの
だろう。
それにしても姑息な作戦だ。
拒絶の姿勢をあからさまに、俺はやや大袈裟なくらいの勢いでかぶりを振った。
ふと、キアラの目の色が変わった気がした。彼女が目をつぶり、歯をかみしめる。
いけない。
刃先が、キアラの白い肌に少しずつ食い込んでいく。
俺は弾かれたように駆けだして、キアラの手からその刀を奪った。勢いでキアラを突き飛ばすような格好に
なり、刀は俺の手中に収まった。
しかし、この時点で俺は油断していたのだ。
一瞬の隙を突いて、キアラが脱兎のごとく城外へと走り出した。これが狙いか、と憤慨するも既に手遅れだ。
深追いすれば持ち場を離れることになるし、追わなければ公爵殺しの重要参考人を逃がすことになる。
俺は、しばし迷った。
十三歳の耳の聞こえない娘が、一人で逃亡したところで無事には済まないだろう。そう思うと、いても立って
もいられない。右手に刀を持ったまま、キアラの後を全力で追った。
その時俺が下した決断、それは、キアラと共に遙か彼方へ逃亡することだった。
キアラは最初、刀を振り回しながら追ってきた俺に、殺される、と勘違いしたらしい。ようやく追いついたとき、
彼女は疲れ果て、ほとんど失神寸前であった。
刀のさやは、キアラが背中に忍ばせていたので、そっとそれを預かり、刀を収めた。
俺はキアラを背中に担ぐと、足早に隣の港町へと急いだ。
96 :No.27 東の果てへ (3/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/25 22:24:43 ID:6Tu5S6sN
夜が明けたら、本格的に追っ手が来るだろう。
隣の港町に着くと、船内での労働に奉仕することを条件に、朝一番のイスタンブール行き商用船に乗せて
貰えることになった。
目指すは、東だ。
その船は、穏やかな地中海の潮流に浮かび、偏西風をマスト一杯に受けて走り出した。
俺は、商業歴の長い船長に、キアラが持っていた刀について聞いてみた。と言うのも、その刀がいかにも
見慣れない、エキゾチックな造りであったからだ。
船長は、興味深い話をしてくれた。
東の彼方に、黄金に彩られた国、ジパングがあるという。通り一面が金銀で埋め尽くされ、世界で最も富め
る楽園なのだそうだ。
鋼鉄を加工する技術も非常に優れており、この刀も、恐らくは遠くジパングから運ばれてきた舶来品であろ
う、ということだ。
確かに、この刀はかつて見たことがないほど洗練された形をしている。
流石にキアラは領主の娘だけあって、家にはこんな貴重なコレクションがたくさんあるのだろうな。
目的地は、決まった。
黄金の国ジパングに行こう。そこならば、俺たちだって幸せに暮らせるはずだ。
イスタンブールは、当時オスマントルコ帝国の統治下にあった。
俺たちは港に着くと、キアラが懐に忍ばせておいた貴金属の類と引き替えに、帝国領内を自由に通行でき
る手形を入手することに成功した。
その時、キアラが見せた誇らしげな顔を、鼻をふふんと鳴らす仕草を、俺は忘れられない。
さらに余った貴金属類を全て換金し、俺たちは本格的に旅支度を整えた。
目指す東方へは、これからは陸路の旅になる。
イスタンブールを出て、果てしなく草原が続く陸路を、俺とキアラは一緒に歩いた。
今まで城の外の世界すら知らなかったキアラにとって、この旅は当初、あまりに過酷に思えた。
帝国領内のシルクロードに点在するキャラバンサライは、言うなれば遠い道のりを行き来する隊商のため
に作られた宿だ。多くの隊商は、ラクダやら馬やらを数頭連ねて、多量の物品を一度に運んでいる。
中には少人数の旅団も見受けられたが、俺たちと違って一様に旅慣れている雰囲気を漂わせていた。
97 :No.27 東の果てへ (4/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/25 22:24:55 ID:6Tu5S6sN
陸路の旅を始めて、ちょうど二週間ばかり経った頃だろうか。俺たちは、長距離を歩くことにさほど抵抗を
感じなくなっており、特にキアラは、俺の手を引っ張ってまで積極的に旅を楽しんでいた。
その日も、俺はキアラの先導を頼りに、ひたすら続く草原を歩いていた。ただの草原も、閉ざされた世界し
か知らず、音もないキアラにとっては、まぶしい光の世界なのだろう。
あれ見て見て、とばかりにキアラが指を差す方向に、うっすらと水平線が見えてきた。
はじめは、地平線の切れ目にぼんやりと青い線が見えるだけであったが、それは次第にその全体像を露
わにした。
黒海だ。
旅が順調に来ていることの証を発見し、俺たちは湧いた。キアラは飛び上がって駆けずり回り、俺はそれ
に追いつくのに苦心した。
まさに、その時である。
地を揺るがすような蹄の音が、ドドドと響く。キアラには、聞こえていない。
振り向くと、馬に乗った盗賊とおぼしき影が三騎迫ってきていた。みるみる距離を詰められる。
その場で迎え撃つか。しかし、キアラの身が危ない。
腰に差した刀を抜き、重い荷物をその場に置いて、キアラの元へ駆け寄った。
肩越しに、一人目の気配を察知する。俺は振り返らず、体勢を低くして、後ろへ右手の刀を低くなぎ払った。
馬のいななきと共に、一人の体が宙を飛んだ。上手く敵の剣戟をかわし、馬の脚を切断したようだ。
二人目が、右手を伸ばしてキアラの肩を掴もうと迫っていた。流石に異様な雰囲気を察知して、キアラも気
がついたようだ。盗賊の手を何とか避ける。
三人目も、標的をキアラに定めた。しかし、その時には既に俺もキアラに追いつきつつあった。
敵の意識がキアラに向いた虚を突き、三人目の腕めがけて刀を振り下ろす。キアラを狙った敵の腕は、肘
を含めて胴体を離れた。
しかし、気がつけば、さっきいたはずの二人目がいない。
振り返ると、俺が残した荷物を手にした奴の姿があった。物品さえ奪えば、取り敢えず満足なのだろう。
そいつは馬を走らせて、あっという間に遠ざかる。
残る二人も、それぞれに手負いながらも退散していった。
俺たちは、旅に必要な金品の大半を奪われ、キアラはショックで塞ぎ込んでしまった。
作り笑顔で胸を張り、大丈夫だよと主張するが、キアラの顔に笑顔が戻ることはなかった。
98 :No.27 東の果てへ (5/5) ◇D8MoDpzBRE:07/02/25 22:25:10 ID:6Tu5S6sN
これでは旅を継続できない。俺は、刀に目をやった。血のりを拭けば、立派に美術品としての品格が漂う。
半ば行商を脅すような交渉の末、俺は刀の見返りとしてまとまった資金を得ることができた。
ラクダをキアラに見せたとき、彼女は飛び上がって喜んだ。刀を売って得た資金の半分以上を投資しただ
けあって、キアラの傷を癒すのにそれなりの効果があったようだ。
新しい仲間のお陰で、その後の俺たちの旅は格段に快適になった。
夏を迎える頃、俺たちはタクマラカン砂漠に辿り着いた。旅は、中盤を過ぎた辺りだ。
ここは、シルクロードでも最大の難関だ。果てしない砂漠に散在するオアシスを経由しながら、昼はうだる
猛暑に、夜は打って変わって氷点下の冷え込みに耐えなければならない。
オアシスは、俺たちにとって、というか殊にキアラにとって、一番の楽しみだった。
昼間、オアシスの水辺に来ると、キアラは俺に向かってあっちに行けと手を振る。仕方なく、俺はラクダを木
に繋いでその辺をぶらぶら歩く。キアラは、一度水浴びを始めると、二時間ほどは出てこなかった。
俺は一度、キアラが水浴びをしているところを覗き見た。楽しそうに泳いでいるキアラの姿が見たかった、た
だそれだけの理由だ。
草の影から、太陽が反射してキラキラ輝く水面を見下ろす。キアラの背中が露わに見える。
彼女の肌には、いくつものアザの瘢痕が残っていた。いずれも古傷で、作られてから時間が経ったものだ。
これを見て、ふと、脳裏の隅からある忌まわしい記憶が浮かんできた。
領主、ルッチオーニ公爵が殺された事件。キアラが俺に向けた、血塗られた刀。これらが、思考の中で一本
の線としてつながる。キアラは、追い詰められていたのだ。
だが、今は幸せそうにしているキアラの姿があれば、それでいい。そのために、俺は今まで暮らしてきた世
界を捨てて、彼女と共に長い旅路を歩いているのだ。
ドドド、と遠くから蹄の音が聞こえる。砂漠といえど、オアシス近くの地面は馬が走れるほどに固い。
キアラは、音に気づいていない。
ラクダと金品、最低限の食料があれば旅を続けることはできるだろう。
俺はそれらだけを残し、囮となる布袋だけを担いで、草むらから飛び出した。
馬に乗った盗賊とおぼしき二人組を発見し、大袈裟に悲鳴を上げながら、オアシスから遠ざかるように、遠
ざかるようにと逃げる。みるみる距離が、詰められていく。
手元には短剣くらいの用意はある。できれば、行商に売ってしまった刀があれば、よかったな。
背後から気配がしたが、振り向かず、右手の短剣を後ろへ向かって低くなぎ払った。背中に灼熱のような痛
みを感じながら、宙を舞う男の叫び声と、馬のいななきを聞いた。