【 サラリーマンの魂 】
◆59gFFi0qMc




73 :No.21 サラリーマンの魂1/5 ◇59gFFi0qMc:07/02/25 15:27:29 ID:P8GIJP6V
 たった今、研削盤で刃部分の加工を開始した所である。
 僕が作ったNCプログラムで、研削盤を無人運転しているのだ。研ぎが終わる時間は四時間ほどと予想している。研削盤のコンソー
ルに表示される時間から計算すると、朝の5時には加工終了となる。無人運転とはいえ、災害防止の観点から機械を離れることができ
ないので、お遊びとしては結構過酷だ。
 僕は産業機械を製造する会社にいる。
 機械設計の先輩がたまたまミスで余らせた鋼材を手に入れたので、先月から真剣なお遊びを開始したのだ。目指すものは日本刀。だ
が、新入社員である僕には、三日月のように湾曲させる加工が困難だったので、真っ直ぐのままで進めている。更に、元の鋼材が全長
五百ミリ程しか無かったため、加工を重ねるごとに短くなっていった。完成間近の今は刃渡り三百五十ミリ程だ。
 加工をここまで進めるのに、あちこちの工程長と掛け会い、いくつかの設備を貸してもらった。その度、遊びで設備を使うな馬鹿と
か、お前に怪我されると責任問題になる、など、山ほどコケにされたり怒鳴られたりを繰り返してきた。挙句の果てには加工中の日本
刀を一瞥して、これが日本刀か下手糞、と鼻で笑われる始末。
 確かにこれ、日本刀じゃなくて、左右に刃をつけたら西洋の短剣だ。だが、それがどうした。そんな物でも僕は満足だ。ここまで打
ち込んだ成果が、今、目の前で完成しようとしているのだ。この瞬間を迎えることを喜べない奴なんて、死んでしまえと思う。これだ
け頑張って作り上げようとしているものを応援できない奴は、生きる資格なんて無いと思う。
 とにかく今日はここで寝て、明日の朝、仕上がり状況を確認しよう。
 僕は床にダンボールを並べ、寝袋を広げた。そして、もぞもぞと中へ潜り込んだ。
 横になると再び、工程長達の嘲笑が蘇る。
 くそ。
 僕は右腕で両目を覆い、左右にごしごしとこすりつけた。


74 :No.21 サラリーマンの魂2/5 ◇59gFFi0qMc:07/02/25 15:28:05 ID:P8GIJP6V
 うとうとしていると、誰かが呼びかけているような声が聞こえる。
 もし、もし。
 パートの人かな、と無視して意識を閉じようとしたが、次の瞬間、僕は目を大きく開いた。
 こんな時間に誰もいる訳がないのだ。声のように聞こえるが、恐らくこれは異音だ。下手をすると砥石が破裂して装置が壊れる。
 機械仕掛けのように半身を起こし、僕を包む寝袋をいまいましく思いながら脱ぎ捨てた。そして、ふらつく頭を左右に振りながら、
研削盤の前へ足を進めた。
 すると、そこには見知らぬお姉さんが立っているのだ。
 さっきの異音は、このお姉さんの声だったのか。よかった、装置の異常じゃなかったのか。
 念のために、高速回転する砥石の動きと冷却水の流れをちらっと確認した。やはり正常だ。教会の鐘のようだった心臓の鼓動が、
少しずつ穏やかになってきた。
 ほっそりとしたスタイルのお姉さん。年は僕よりニ、三歳ほど上か。髪は腰ほどまで伸び、蛍光灯に照らされて艶やかに輝く。そ
して、赤い色の着物。夕日が沈む直前、全ての景色を塗りつぶすような赤い色だ。
 だが、この人は誰なのだろう。
 僕はこの部署へ、設計変更を持ち込んだ事が無い。逆に言うと、殆どここへ来た事が無いので、どんな人が働いているのか、良く
分からないのだ。しかしどう見ても、会社の作業服では無い。それだけは確かだ。
 お姉さんは、こんばんわ、と微笑みながら言った。
 妙な社員だ。だが、僕はその暖かな表情に思わず会釈で応じた。
 お姉さんは、いい刃物だけど日本刀にしては不細工過ぎますね、と言いながら研削加工中の日本刀に触れようとした。
 なんて事をするんだ。
 僕は目一杯の力を込めて、お姉さんの手を払おうと右手を伸ばした。加工中の機械や材料に触れようなんて、もっての他だ。
 だが、僕の手はお姉さんに触れることなく、空振りをした。僕はだらしなく口をぽかんと広げ、お姉さんと自分の手を交互に見つ
める。そして、間もなくもう一つの事実に気づいた。
 お姉さんに影が無いのだ。
 心臓と呼吸が一瞬止まり、顔の皮が後頭部へ引っ張られるような気がした。
 僕の膝から力が抜け、その場で尻餅をついた。床の強化コンクリートから、じんわりと冷たさを感じる。全身からも血の気が引き、
尻の冷たさがどんどんと体に伝わっていく。
 お姉さんはそんな僕を見て、説明するから落ち着いて聞いて、と言ってから一方的に喋り始めた。
 昔、とある日本刀に宿っていた私は、随分前にその日本刀が折れてしまってから、ずっと次の日本刀を探しているのです。そして、
たまたまこの会社を覗いてみると、不恰好な日本刀を作っている人がいるので、興味半分で見学しに来ました。
 そう喋り終えたお姉さんは、研削盤の日本刀へ視線を向けた。


75 :No.21 サラリーマンの魂3/5 ◇59gFFi0qMc:07/02/25 15:28:43 ID:P8GIJP6V
 納得できたような、出来ないような。だが、お姉さんからは悪意といったものを感じない。
 少しずつ落ち着きを取り戻した僕は、ひとまずゆっくりと立ち上がった。
 冷え切ってしびれた尻に両手を重ねた僕は、研削盤をちらりと眺め、お姉さんが宿っていた日本刀の名は何ですか、と尋ねた。
 お姉さんは少し言いにくそうに、後世では菊一文字と呼ばれていました、と答えた。
 菊一文字。
 その名前を聞いた瞬間、腕に力が入って、尻を握り込んだ。
 国宝の天下五剣に並ぶ、平安時代の古刀に宿っていたと言うのか。
 僕には少なくとも、この日本刀がお姉さんにふさわしいとは思えない。お姉さんが宿っていたのは、あの菊一文字なのだ。ここに
来たのは僕の日本刀もどきに宿るのではなく、あくまでも彼女の暇つぶし。
 仕方ない。不細工なのは僕も認める。
 そう自分で言いつつも、今まで渡り歩いてきた、あちこちの工程長達に浴びせられた罵声や嘲笑が再び脳裏に蘇った。
 悔しい。
 僕の物作りは、この程度なのか。
 首をうなだれ、両手の拳を握り締めて唇をきゅっと噛み締めた。
 お姉さんが、そんな僕の顔を覗き込むようにしてから、この日本刀はどう使う積りですか、と尋ねてきた。
 それを聞いて、僕は顔を上げた。
 自分でも苦い表情を作っているのは分かっている。だが、今の僕にとって、これほど嫌味な質問は無いだろう。だから、作り笑い
もせずに表情をそのまま晒した。
 実際のところ、平成の世の中で、日本刀を用途通りに使うことは有り得ない。居合で使うことはあるが、わざわざ僕の日本刀を使
ってくれる訳がない。僕自身も武道を習っている訳でもない。今まで加工を続けながら考えていたのは、実家の草刈に使うかな、と
いったものだ。実家には雑木林があって、毎年何度か伐採や草刈を手伝わされるのだ。鉈だと重いし鎌だと太い草が切れない、とい
った微妙な植生の雑木林だから、この日本刀が丁度良さそうなのである。
 僕はゆっくりと、草刈の道具に使うつもりだ、と伝えた。
 お姉さんは真剣な面持ちで僕を見つめた。輝きを持ちながらも、全ての光を吸い込むような深い瞳。そして、私をこの日本刀へ住
まわせていただくことはできませんか、とお姉さんは澄み切った声を放ち、深く頭を下げた。
 僕は、思わず目を一杯に開いた。
 菊一文字に宿っていた程の人が、何故わざわざ日本刀ともいえないような、しかも草刈に使う物を選ぼうとしているのだろうか。

76 :No.21 サラリーマンの魂4/5 ◇59gFFi0qMc:07/02/25 15:29:26 ID:P8GIJP6V
 私は、ちゃんと使われる日本刀に住みたいのです。
 日本刀は武器として生まれました。最善な武器の使い方は威嚇です。充分威嚇することが出来れば誰も傷つけずに済みます。です
が、現代でははもう武器として使うことがありません。私にとって住み心地の良い日本刀が、現在では存在しないのです。
 しかし、貴方は日本刀を道具として使うと言いました。私は、それも日本刀の正しい使い方だと思います。貴方のように心から打
ち込んで作り上げた、この愛着を持つ日本刀を、道具として大切に使うのであれば、私には住み心地の良い物となります。
 お姉さんは真剣な表情で、そう言った。
 宿るというからには、これを神社に奉納しなければいけないとか、何か制約があるのだろうか。僕はお姉さんにそう聞くと、そん
な事は何もしなくても良いと言った。道具として大切に使ってもらえればそれで十二分に幸せなのだそうだ。その代わり、武器とし
て使わないで欲しい、私はあくまで、道具として使う日本刀へ宿りたいのだから、と言った。
 そういうものなのか。もっと大層な事態を想像していたのだが。
 武器として使うな、という一言が、僕の日本刀を否定しているようで、少し複雑な気持ちではある。だが、菊一文字に宿っていた
ほどの人が、僕の日本刀に宿ろうというのだ。腕時計の針は四時を過ぎているが、全然眠くない。自分でも口元が緩むのを感じた。
それどころか、笑いながら走り回りたい気分だ。
 僕は、顔を両手で軽く、二、三度叩いて気合を入れた。そして気をつけの姿勢でお姉さんの目をじっと見詰め、ゆっくりと口を開
いた。
 私が作った不細工な日本刀で良ければ、よろしくお願いします。
 僕がそう言って微笑むと、お姉さんは口元を緩めてにっこりと笑った。そして、これからもいい物作りに勤しんでください、と優
しげな口調で言った。
 お姉さんは柔らかく目を閉じ、ニ、三の言葉を呟いた。お姉さんの体が次第に霞んでいく。やがて全身が白い煙のようになり、そ
れが研削盤の上にある日本刀を覆う。日本刀は一瞬、白金のような輝きを見せたかと思うと、すぐに黒っぽい銀色へと戻った。

77 :No.21 サラリーマンの魂5/5 ◇59gFFi0qMc:07/02/25 15:30:03 ID:P8GIJP6V
 数日後、実家の母親に呼び出された。そして、予想通り僕の日本刀で草刈を行うことになった。藪に入る僕の腰には当然、例の不
細工な奴を吊るしてある。間に合わせで作った白鞘もいい感じだ。実際に使ってみると、バランスが良いのだろうか、鉈よりも軽快
に振り回せる。切れ具合も想像していた以上に良い。我ながら、良い物を作ったと思う。
 作業が終わり、日本刀を畳の上に転がし、麦茶を片手に休んでいると、お姉さんが僕の目の前に現れた。
 どういう訳か眉間に皺を寄せ、口を吊り上げて怒っている。
 どうしてあんな痛いものを何度も何度も切り続けるのですか、と刃物の発言とは思えないようなことを言うのだ。
 僕は、草刈に使うと説明したはずだ、と反論すると、頬を膨らませて横を向き、私についた細かい塵を落として綺麗にしてくださ
い、と言い返してきた。僕は苦笑し、首にかけた手ぬぐいを取った。そして日本刀を鞘から引き抜き、汚れを拭い始めた。
 すると、お姉さんは悲鳴に近い声で、変なところを摘んだり擦ったりしないで下さい、と叫んだ。
 なんとなく事情を察した僕は、失礼の無いように、この日本刀のどこが変な所か教えて欲しい、と耳元で囁くように尋ねると、お
姉さんは耳まで真っ赤にして、押し黙ってしまった。
 よく考えると、元は菊一文字だ。刀身を摘まれたり擦られたりといった経験が、今まで殆ど無かったのだろう。
 なんだか、お姉さんが可愛く思えてきた。
 だが、こんな事でこの先うまく道具としてやっていけるのだろうか。僕は自分の物作りの素質以上に、お姉さんの方が心配になっ
てきた。



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