【 震 】
◆hemq0QmgO2




36 :No.10 震 (1/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/24 20:23:59 ID:ElTG1JCg
 江戸幕府始まって以来の動乱期だというのに、白川早之助という名の長州藩士は部屋で豚のように寝転がっていた。
まったく、頂上から麓までだらしのない色男であった。ろくに働きもせず、藩の金で酒を飲むたびに、
死ぬことや生きることについてだらだらと考えていた。ちょっとアンタ、いい加減にしておくれよ、
二十四にもなって役職の一つも無いのは京の藩士じゃあアンタくらいだよ、
と妻から苦言を呈されても、ぽりぽり頭を掻きながらすまん、すまんね、などと謝るばかりであった。
 しかしこの男、何故か剣の才には恵まれており、十六の時に鏡新明智流免許皆伝、
その実力は後の新撰組二番隊隊長、永倉新八との他流試合で互角の勝負を演じた程である。
京の長州藩士の最高権力者、桂小五郎が自らの身辺警護につけたこともあった。
 その頃早之助は二十二で、毎日のように芸者と遊んでは虚しい日々を送っていた。見かねた同門同期の高杉晋作が
桂に頼み込んでくれたのだが、早之助は相変わらず酒に溺れてばかりで警護など務まる筈もない。
いつも夜にはへべれけになり、酒の匂いを纏いながらまだ飲んでいる。とうとう二人にも見放されてしまった。
 どうしようもない男である。その時遊んだ芸者の一人が今の妻なのだが、
最近では夫に騙された、騙されたといつも嘆いている。晋作は奇兵隊を作って維新戦争の準備を進めている。
桂は京で殺し殺され、血塗れの日々を送っている。早之助は攘夷派の会議にも呼ばれなくなってしまった。
 ある早春の夕、早之助は珍しく酒も飲まず、太刀を一本ぶら下げて京の街をうろついていた。
薄汚い一張羅とぼさぼさの髷、とても藩士とは思えぬみすぼらしい姿である。常に見廻組や新撰組が
うろつく京をこれほど無防備に闊歩する長州の藩士は早之助くらいのものだろう。
 早之助はぼんやりとした絶望と嫉妬を押し殺しながら歩いていた。維新が、もし維新が達成されたなら
松下村塾の朋輩達は大出世、この国の実質的な支配者になるだろう。晋作や桂さんにはその器がある。
伊藤や久坂、吉田稔麿や入江九一もまあ仕方ない。しかし、あの鼻持ちならない阿呆共、
ろくに刀も抜けないくせに声だけはでかい山県や杉山や井上がでかい面して国を仕切るのは我慢がならない。
 俺は、俺はどうなるんだ。攘夷派の会議は絶えず行われているのに口も刀も挟めない。
恐らく、これからずっと黙殺されるのだろう。維新がなんだ。くだらねえ。松陰先生は馬鹿だ。
国を変えてどうなるんだ。贅沢をする馬鹿が入れ替わるだけじゃないか。何も変わらない。もちろん俺も。
 清らかに流れる淀川を四条大橋から眺めながら、早之助は全てを呪っていた。酒だ、酒を飲もう。
それしかなかった。適当な店に入って冷酒を三杯、それに漬け物と焼き魚を食べた。まったく酔えなかった。

37 :No.10 震 (2/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/24 20:24:18 ID:ElTG1JCg
 店を出た早之助は暗い心に任せて京の街を練り歩いた。春の夜の冷たい風が心地良かった。
提灯のぼやけた灯りが絶えない方へ、ゆっくりと歩いた。何もかもがどうでもよくなっていた。
 半刻程歩くと辺りから人気が消えた。早之助は立ち止まって辺りを見回してみた。
高級な宿や料亭ばかりが目についた。どうやら二条御所の近くまで来てしまったらしい。この辺りは
京都見廻組の管轄地域である。早之助が来た道を引き返そうと振り向くと、若い男三人がこちらを見て刀を抜いた。
 真ん中の男が何者だ、と言って早之助を睨み付けた。早之助が長州の白川だ、と答えるや否や
左の男が雄叫びを上げながら切りかかって来た。早之助は明智流の居合いを究めた男である。
上段から振り下ろされる刀を右に避けながら音も無く抜刀すると、男の腹から内臓と大量の血が吹きこぼれた。
残った二人はその剣の凄まじさにただ呆然としていた。俺はお前等に興味は無い、去ね、
と早之助が言うと二人は逃げ出した。腹を斬られた男は何やら呻き声を上げていたが、やがて絶命した。
 刀を納めた早之助は驚いていた。長い酒浸りで自分の剣が錆び付いていると思っていたからである。
俺の剣もまだまだ捨てたモンじゃないな、などと思いながら引き返そうとすると、太刀を二本差した大男が現れて、
京都見廻組佐々木只三郎と申す、白川殿、先程の非礼をお詫びいたす、詰所まで来てくれはしまいか、
とその図体と同じように大きな声で言った。早之助は特に迷いもせず、上等の酒を出してくれるなら、と答えた。
佐々木はすぐに了承し、見廻組の大男と長州藩の色男は春の夜の風の中、並んで二条の詰所まで歩いた。

 早之助と佐々木は詰所で鍋をつつきながら酒を飲んだ。松陰門下の長州藩士でありながら尊皇攘夷論者
ではない早之助と、会津藩出身だが今の日本を疑問視している佐々木はすぐに意気投合し、早之助は
維新派の悪口を、佐々木は幕府の悪口を、酔いに任せてそれぞれ爆発させた。
早之助はこの大男の剛胆な人格に敬服し、佐々木もまた早之助の剣術と人格に敬意を表した。
早之助は久しぶりに気持ちよく酔っ払って、敵方の詰所で無防備に眠りについた。

 早之助は夢を見た。他の男と妻が激しく交わっている。早之助は剣を抜き、二人を斬り殺す。
血の雨が降る。男の首が転がる。桂の首である。早之助は次々に斬り、殺す。
晋作を斬り、伊藤を斬り、久坂を斬り、入江を斬り、吉田を斬り、山県を斬り、井上を斬り、杉山を斬り、殺す。
最後に吉田松陰、あの腐れ阿呆共の神である吉田松陰を縦に真っ二つに斬り、殺した。
刀が赤黒く輝いている。早之助は獣のような雄叫びを上げる。刀が喜びに震えている。夢が終わった。

38 :No.10 震 (3/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/24 20:24:34 ID:ElTG1JCg
 早之助が目を覚ますと、佐々木と目つきの鋭い男が何やら正座をしている。早之助は重い頭を持ち上げて
乱れた着衣を直し、二人の向かいに座った。目つきの鋭い男が京都見廻組の今井信郎です、と自己紹介をした。
茶が用意されると、起き抜けにこんな話は礼を逸していますが、と佐々木が本題を語り始めた。
 なんと、長州藩士の早之助に見廻組に入らないか、との話であった。早之助は驚きながら、
俺は見廻組を斬っているし、もし長州の間者だったらどうするのですか、と二人に問いかけた。すると佐々木は
私はあなたがそのような男だとは思わない、とだけ言った。今井も同様だった。早之助は感激し、即決した。
 こうして京都見廻組の白川早之助が誕生した。今朝の夢と同じように愛刀が喜びに震えていた。
早之助は生まれ変わった気持ちであった。妻にも他の藩士にも伝えなかった。そうだ、俺はあの夜死んだのだ。
そして今日、この日からまったく新しい人間となり維新志士共を斬って、斬って、斬り殺すのだ。
 事実、早之助は斬りまくった。配属されて一月で三十人もの志士を斬った。それだけ斬っても
愛刀は刃こぼれ一つしなかった。今井がその刀は素晴らしい名刀だね、と言ったが果たしてそうではなかった。
早之助の刀はごく平凡な太刀であった。ただ、喜びに満ち溢れていたのだ。主人の生気に呼応するように
鋭く輝きながら志士の四肢を気持ちよく分断しているだけなのだ。早之助は刀を抜く度にその圧倒的な力を感じた。
 いつしか早之助の名は藩士時代より京に知れ渡っていた。見廻組でもすぐに出世し、隊を任され、
佐々木や今井に次いで重要な役職についた。そして、同じ幕府方の新撰組との会合に付き添うまでになっていた。
 六月のある夜、早之助は佐々木や今井等と共に新撰組御用達の祇園の料亭に向かった。
その料亭、春風亭に入り二階に登って奥の襖を開けると局長近藤、総長山南、参謀伊東、そして二番隊長
永倉新八等がどっかと胡座をかいていた。見廻組の組員も座して、会合が始まった。
 早之助は会合なんぞに興味は無かった。しかし、来たる六月五日、池田屋に集まった志士達を斬る、
と近藤が宣言するとさすがに興奮し、永倉の隣まで移動して小声で語り掛けた。
おい永倉、長州の志士共は腑抜けだ、俺やお前程抜ける奴なんていやしない、刻んでやれ。
早之助がそう言うと永倉はすぐにああ、当たり前だ、刻んでやるさ、と精悍な顔付きで言った。
早之助は満足げににんまりと笑って、昔話をしながら永倉と酒を飲んだ。
 会合が終わると早之助は湿っぽい六月の夜を今井と二人で詰所まで歩いた。途中、長州の下級藩士を二人斬った。
刀を拭いて鞘に納めると今井が突然、新撰組かあ、あいつらうまくやるかな、と言った。
当然だろう、桂も長州もこれでオシマイさ。早之助がそう答えると、今井もそうだな、オシマイだな、と言って笑った。

39 :No.10 震 (4/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/24 20:24:52 ID:ElTG1JCg
 果たして桂も長州も生き残った。池田屋での新撰組は鬼神の如き活躍、吉田稔麿や杉山松助などの長州幹部
を見事に刻んでみせた。が、桂は刻めなかった。丁度その時分だけ池田屋を離れていたのだ。
 早之助は池田屋事件の翌日から長州の残党狩りを始めた。十人程の志士を斬った後、上機嫌で
京の街をうろついていると、淀川のほとりに一人の男を見つけた。池田屋以降潜伏していた桂であった。
 早之助はゆっくりと近づいて桂さん、桂さん、と呼び掛ける。桂は頭を持ち上げて早之助の顔を確認すると、
お前、俺を殺すのか、と言った。殺さない、今のアンタを殺してもつまらんからね。そう言って早之助が
振り返ると桂の愛人である幾松という芸者がいた。この女を殺してやろうか、と早之助は思い立ったが
愛刀が震えなかったので、止めた。しかしいい気分であった。桂より圧倒的に強い自分と刀が誇らしかった。
 二カ月後、禁門の変で長州の久坂、入江が死んだ。幕府は長州征伐の準備を本格的に進めていた。
維新志士の数も減って、早之助は京で暇を持て余していた。元来色男である早之助は佐々木や今井、
時には新撰組の永倉等と祇園で酒を飲み、たくさんの芸者を宿へ連れ込んでは阿呆のように遊んでいた。
 ある日、早之助は寺田屋という宿で働く一人の美しい娘を見つけた。酔っ払っていた早之助は娘を口説いた。
が、娘は嫌や嫌やと言うばかりで全く取り合わない。腹を立てた早之助が無理矢理部屋に
連れ込もうとすると、隣の部屋にいた一人の浪人が早之助をぶん殴り、宿の娘を助けた。
酔っ払っていた早之助は一発で部屋の奥まで吹っ飛び、完全にのびてしまった。
 あくる朝、起き上がった早之助は昨夜の出来事を思い出して激高し、震える刀を持って隣の部屋の襖を開けた。
すると、浪人がこちらに向けて銃を構えている。発砲した。早之助は左肩に銃弾を受けたが、関係なかった。
怒りに任せて抜く。拳銃の砲身が大根のように斬れる。浪人は瞬時に銃を捨てて、小太刀を抜いて身構えた。
早之助は死ぬ前に名を名乗れ、と言って刀を鞘に納めると腰を落とし、明智流の居合いの構えを作った。
浪人は龍馬、坂本龍馬だ、と答えると同時に足元の机を思い切り蹴り上げた。早之助が襲い来る机を
真っ二つにすると、龍馬は既に窓を突き破って二階から飛び降りていた。早之助は左肩の傷を見て笑う。
坂本龍馬か、拳銃を使うとは面白い奴だ。しかし次に会った時は必ず斬る。

 長州で高杉晋作が政変を起こして権力を握ると、奇兵隊を中心とした維新志士の反撃が始まった。
一浪人である坂本龍馬の仲介で、桂の長州と西郷の薩摩が同盟を結んだとの話を聞くと、早之助の胸は踊った。
やはりあの男、ただ者ではない。その年の二月、龍馬は早之助と対峙した寺田屋で、今度は私怨ではなく
政治的な理由で襲撃され、難を逃れた。どうやら刺客は伏見奉行の差し金らしい。早之助は佐々木や今井と
龍馬について話をした。伏見の間抜け刺客があいつを殺せる訳がない、次は幕府から俺達に
直接お達しが来るだろう、ところで坂本龍馬とはどんな奴なんだ。早之助は一言、面白い奴だ、と答えた。

40 :No.10 震 (5/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/24 20:25:16 ID:ElTG1JCg
 八月、幕府は薩長連合軍に敗北した。京の街は新時代と旧時代の狭間で嵐のように乱れていた。
そんな中、いつものように京を散歩していた早之助は自分の意外な気持ちに気が付いた。妻に会いたい。
早之助は二年半振りに、五条の長屋の一室を目指して歩いた。途中、長州の藩士を数人見かけたが、
誰も早之助を気に留めなかった。夏の京は問答無用に暑い。濃い碧の空気を早足で切り裂いて行く。
 長屋に着くと早之助は門の前で立ち止まってしまった。果たして妻はまだ住んでいるだろうか、
やはり俺を憎んでいるのだろうか。意を決して門に手をかけると、後ろからとんとんと肩を
叩く者があった。妻であった。涙をいっぱいに溜めて早之助を見つめている。早之助はどうしようもないくらい
懐かしく、暖かい気持ちになって妻を抱き締めた。妻は早之助の胸の中で声を上げて泣いた。
碧色の熱気の中で、数え切れないくらいの蝉達が阿呆のように鳴き続けていた。

 翌年、晋作が肺の病で死に、桂や西郷、そして龍馬の手によって新時代がいよいよ形を成してくると、
幕府はようやく見廻組に要人暗殺の指令を下し始めた。しかし、最早全てが手遅れだった。
十一月には龍馬の進言によって大政奉還が達成され、徳川幕府の権力は完全に霧散した。
 それでも、見廻組は暗殺の任務を引き受けた。標的は龍馬である。江戸幕府は終わった。
新撰組や見廻組もオシマイだろう。そんなことはもう関係がなかった。実行部隊である腕利きの三人、
佐々木、今井、早之助は計画の二日前に二条の詰所に集まり、酒を飲み、大いに意気込んでいた。
 龍馬は大した奴だ、立派な奴だ、俺達は大悪人にとして後世に名を残すだろう。佐々木と今井が言うと
望む所だ、と早之助が吼えた。ひとしきり笑った後、佐々木は最後になるかもしれないから、
と言って今井、早之助と力強く握手した。早之助と今井も握手をした。三人が三人、涙を流していた。
 早之助は冬の冷たい風の中を五条の長屋までふらふらと歩いて帰り、会ったなり妻を抱き締めた。
おかしな人だねえ、まったく。そう言いながらも妻は気持ちよさそうに早之助の胸に顔を埋めていた。
最後、か。龍馬は手錬れだ。さらに拳銃を持っている。本当に最後になるかもしれない。しかし刀は
喜びに震えている。俺に斬れ、と言う。ああ、斬ってやるさ。文句なしに斬ってやる。お前を裏切ったりはしない。
眠りについた妻の温もりと静かな息づかいを感じながら、早之助はそんなことを考えていた。

 二日の後、三人は龍馬がいる近江屋という旅館の前にいた。早之助は深く呼吸をして、感覚を研ぎ澄ましていた。
刀は静かに震えている。文句なしだ。今の俺なら、街を通り抜ける冷気すら斬り裂けるだろう。
今井は鋭い眼を閉じて静かに佇んでいる。佐々木は自らの頬をぴしゃと叩くと、気を込めた低い声で言った。
 行くぞ。(了)



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