【 共に眠る 】
◆sjPepK8Mso




32 :No.09 共に眠る (1/4) ◇sjPepK8Mso:07/02/24 19:44:00 ID:hN1Cngu5
 日本刀がある。
 おじいの部屋の、南側のタンス。上から数えて二番目の引き出しの右側。
 おじいが戦争に持っていった刀が、布に包まれて入っている。
 可也が生まれる前にあった戦争の話を、おじいはいつも孫の可也に聞かせていた。
 おじいは戦争も終わりそうな頃にラバウルへ行ったと言っていたが、まだ小さい可也にはそこがどこかなんて分からない。
 聞いたってまともに教えてくれなかった。そもそも、戦争というものがどんなものなのかもわからない。
 ただ、おじいの話から想像する事は出来る。
 戦争とは鉄の弾が凄い速さで飛んで、食べ物すらろくに無く、苦しくてどうしようもない事なのだ。
 可也は飛行機が好きだったが、おじいは飛行機が嫌いだと言っていた。仲間が沢山奪われたと言う。
 戦争が終わって、おじいが日本に帰って来た時に持っていたのが、タンスの上から二番目の刀だと言っていた。
 大事な刀だと言っていた。
 タンスの二番目の引き出しには、思い出袋というものが入っている。以前おじいに見せてもらったが、ボロボロの服と靴とお守りが入っているばかりだった。
 思い出袋に入っているのは、日本に帰ってきた時におじいが持っていた物だ。
 しかし、流石に日本刀は袋に入り切らなかったらしく、鞘に収められたまま引き出しの一番奥に眠るように納められている。
 あの刀は戦争で斬った人の魂を抱いて鞘の中に眠っているのだよ、とおじいは言った。
 鞘を盗んだのはほんの出来心だった。
 大事な物だと言うから、日本刀を隠そうと思った。おじいがそれに気付いて困ったら、すぐに出して来ればいい。
 ただのイタズラに過ぎない事だし、そう問題にもならないだろうと思った。
 おじいが老人会のゲートボールに行っている間に部屋に忍び込む。
 抜き足差し足忍び足で、ちょっとしたスリルを味わいながら引き出しをゆっくり開けた。
 引き出しの一番奥。光が当たらず、暗くヒンヤリとした奥底に柄の感触を覚えて、一気に引っ張り出した。
 刀は長く、子供が簡単に鞘から抜き出せる物ではないので、柄を握って、鞘を振り落とした。
 日本刀は柄が重くて刀身が軽い。鞘から刀を引き出して、その妙な感触に気分が浮き上がった。
 そして
 現れた刀身の鏡の様な皮鉄が可也を見、部屋を見回して、最後に刃金が笑った。生きてはいない筈なのに、自分で動く事なんて出来ないくせに。
 実際に笑ったわけではないが、可也はまだ両の手で数えられる歳の子供だ。スリルがコップから溢れ出した。
 ちびってしまうような思いに冷や冷やしながら、あわてて布を刀身に包み、鞘だけを持っておじいの部屋から逃げ出した。危なくて、刀そのものを持っていく事が出来なかった。

33 :No.09 共に眠る (2/4) ◇sjPepK8Mso:07/02/24 19:44:37 ID:hN1Cngu5
 
 おじいが急に病気にかかったのは、その次の日の事だった。
 ゲートボールから帰って来て、今日の勝ちを楽しそうに話すおじいは、病気にかかるなんて思えなかったのに。
 おじいの病気は一ヶ月を待たずに全身を蝕み、その頃には可也は、秘密のおもちゃ箱に放り込んだままの鞘の事をすっかり忘れてしまっていた。
 一体何の病気だったのか、可也は教えてもらえなかったが、おじいと会ってはいけないよと言う母を見れば、おじいが相当まずい状態にあるのは分かった。
 ほとんど一日中眠っているらしく、死んでしまったかもしれないと母がよく言う。その都度可也は母に黙っておじいの部屋に忍び込んで、左胸に耳を当てた。
 晴れている日はたまにおじいが目を開けていたが、声を出すほどの元気も無いようで、すぐに疲れて目を瞑ってしまった。
 目を開けている時は、いつも何かを言いたそうにしていたが、いつもいつも何も言えない内におじいは眠ってしまう。
 おじいが眠ったら、すぐに左胸に耳を当てる。可也の心臓の音よりも随分とろくさく勢いが無いが、可也自身の心臓の音よりも余程心に響いた。

34 :No.09 共に眠る (3/4) ◇sjPepK8Mso:07/02/24 19:45:02 ID:hN1Cngu5
 
 おじいが眠ったままになってから、二週間が過ぎた頃に大雨が降った。
 どんよりとしたくもが空一面を多い尽くしている。光の一片も地には降らずに水ばかりが降る。
 雷までが落ちてきて、学校のポプラの木を真っ二つに割った時、可也は急に不安になった。
 昼の休憩の終わりをがなりたてるチャイムの音が聞こえたが、気に留められなかった。
 何で不安になったのかも分からずに、教室に入ってきた先生を突き飛ばし、カビ臭い下駄箱の前で長靴を履いて、いくつもの水溜りを蹴散らして走った。
 傘を刺すのも忘れて黄色のレインコートを着込んで、目を瞑って俯き加減で腕を振って走った。
 空が光って、猫が喉を鳴らすのをもっと大きくしたような音が響き渡り、可也の背中を強く押した。地面を叩く水の音が可也を急き立てて、責め立てる。
 引き戸を潰す勢いで空けて家に転がり込んで、テレビを見ていた母がなにやら怒鳴っているのを無視して、おばあのいる仏壇の前を横切って、扉を蹴破る勢いでおじいの部屋に入った。
 レインコートを脱がないから家の床はびしょびしょになる。長靴の右と左は玄関で喧嘩別れをしたようで、双方そっぽを向いてふんぞり返っていた。
 おじいの部屋の襖を開けた時、おじいは焦点の合っていない目を開けていた。左腕を伸ばしたまま口を懸命に動かしている。
 口の形は大きく分けて三種類の形をひたすら繰り返していた。シワシワの口元を良く見ていたらわかる。
 何かが尋常じゃない。
 外で雷が落ちた。
 可也は食い入るようにおじいの口元を見る。おじいの真正面から覗いても、おじいは可也を見てはくれなかった。
 雨の音が聞こえなくなった。雷が外でもう一度落ちたがそれも聞こえず、随分とろくさく勢いの無い心臓の音が聞こえた。まだ胸に耳を当ててはいない。
 おじいが言う。もう何も溜める事が出来ない肺の中から懸命に空気を搾り出して、たった三文字を必死に繰り返していた。
 音になっていない声だ。ひゅうひゅうとかぜいぜいとか、喉を空気が通る音も聞こえないが、その音になっていない声が可也には分かった。
 さ や を
 ゆっくりと口が動いて、最後の一回を可也が掴み取る。可也も口を動かして、ゆっくりと音にならない声を告げる。窓の外が光った。
 さ や を
 おじいには可也の声が聞こえたのかもしれない。焦点のあっていない瞳では、見えてはいないだろう。
 おじいが掲げたままの腕を下ろして安堵の表情を浮かべて、眠るように目を瞑った。
 雷の音と雨の音だけでなく、随分とろくさく勢いの無い心臓の音までも聞こえなくなった時、母が部屋に走りこんで来た。
 もう母は怒鳴ってはいなかった。口をつぐんで背を向けて、電話口に向かっていった。
 おじいはやはり眠ったような顔をしていて、雲の上の雷様がおじいの顔を照らした。
 おじいのおでこに落ちた水玉は涙なのか、レインコートから落ちた雨水なのか、舐めて見ないと分からないと思う。

35 :No.09 共に眠る (4/4) ◇sjPepK8Mso:07/02/24 19:45:30 ID:hN1Cngu5

 おじいが眠って数日が経った葬式の日、念入りに掃除されて綺麗になったおじいの部屋に可也はいる。
 おもちゃ箱にしまってあった鞘を片手に、堂々と部屋に入って、南側のタンスの上から数えて二番目の引き出しの右側を開ける。
 一番奥には布に包まれたままの刀がしまわれていた。
 布を引っ張って取り出そうとしたら、鋭利な刀身が布を切り裂いてしまったので、仕方なく柄を握って引っ張り出す。
 皮鉄と刃金が怪しげな光を放って可也の瞳を引き付けたが、可也はそれを振り切って鞘に刀身を収めた。
 鞘の中に隠れていく刀身の輝きが、この世を惜しむような光を漏らすが、鞘と柄は止まらない。光が漏れないように、中に入った魂を起こさないように、刃は鞘に包まれる。
 これはおじいの刀だ。おじいが眠ったならば、この刀も眠らなければならない。



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