【 六〇〇円 】
ID:V50whKxg




130 名前:選考外No.01 六〇〇円 (1/4)[] 投稿日:07/02/18(日) 23:58:56 ID:V50whKxg
 もう駄目だ。
 そこは、街中の自動販売機の隣りだった。
「もう、駄目。終わった、絶対終わった」
 わたしは行き交う人波から逸れ、大型の自動販売機の隣りでしゃがみこんで頭を抱えていた。
 前方に動く、ぞろぞろと歩くはわたしと同年代。例外はあるかもしれないけど、十代後半の少年少女たち。
 いま、某有名大学の試験が終了したところだった。学生にとって人生の岐路たる、終生たる……ようする入学試験だ。
「こくごがぜんぜんわからんかったあ……」
 適当に書いたけど、絶対間違ってる。なんなのよ。あんなの、わかるわけないじゃない。芥川龍之介だなんて、死んでしまえ。あんな意味のわからない文章を書くなんて、実は馬鹿なんじゃないの? 大体――
 そんなことを考えて、全ての憤りを芥川へと放り込むような真似をしながら、ふいに我に返る。
「………」
 わたしは、こんな群集の前で、何をやってる?
 こっぴどくしかられた小型犬のように、恐る恐る頭を上げる。
 誰もわたしのことなど気にしていない……と思ったら、一人の男の子と目が合う。すぐにそらされた。
「……わたしは犯罪者じゃないっての」
 ぼそりと呟いたのが聞こえたらしく、男の子はクロールで水面を掻いていくように、群衆へと消えていった。なんだ、これは。そして、
「なにやってんの、わたし……」
 また独り言。と思いながら、わたしはまたうずくまる。こうなると、動くに動けない。いや、動きたくない。
 と、
「――なにをしてるんだい?」
 うわ、声かけられたよ。警官かな? その辺にいっぱいいるし。
 ぼろきれになった洋服のような情けない気持ちで顔を上げると、立っていたのは、燕尾服に蝶ネクタイを付け、頭にシルクハットを被った男だった。絵に描いたような紳士、ジェントルマン。それが、一抱えほどの大きさに膨らむスーパーの袋を提げ、わたしを見下ろしていた。
 明らかに怪しい人だったが、スーパーの袋を持っているあたり、勧誘か何かが目的とも思えない。どうという反応をすることもできず、人波が大津波の壁のようになっいるせいで逃げ出すこともできず、わたしはただ男を見上げるのみだった。
「そんな暗い顔をしちゃ、駄目じゃないか。女性は笑顔だよ、お嬢さん」
 そんなふうに何事か言っているが、お嬢さんと呼ばれるだけでここまで肌が浮き立つとは思わなかった。
 男は、大量のパック牛乳の内ひとつをスーパーの袋から取り出した。その一リットルパックがずいとわたしに突き付けられる。わたしはパックに住むホルスタインとにらめっこする。牛乳男を見た。
 牛乳男は、にっこりと笑った。
「牛乳飲む?」
 殴り飛ばしたくなりました。

131 名前:選考外No.01 六〇〇円 (2/4)[] 投稿日:07/02/18(日) 23:59:29 ID:V50whKxg
 何でついてきてしまったのか。いや、なんとなくなんだけど。
 目の前では牛乳男がメニューを広げ、ウェイトレスにオーダーを告げようとしている。そこは喫茶店だった。
「牛乳ください」
 メニューちゃんと見ろよ。ていうか、どこまで牛乳好きなの。
「はい、かしこまりました。ほかにご注文はございますか?」
 牛乳、あるんだ。
「じゃあ、牛乳もうひとつ」
 じゃあってなによ。そこはわたしに振るところでしょ。
 以上で。と牛乳男が告げると、ウェイトレスが去っていく。
 二人きりになってしまい、わたしはなんとはなしに店内を見渡す。至る所で見かけるチェーン店だったが、あまり人は入っていない。もう夕方だし、そろそろ増え出すかもしれない。
 牛乳男に視線を戻した。
「で、君はどうしてあんなところに? 千町亮子さん?」
 ……え?
「どうして、名前を……?」
「ははは、知ってるものは仕方ないさ」
 いや、そういう問題じゃなく。
 ていうか、どうしよう。これゼッタイ危ない勧誘か何かだ。ついてきちゃったわたしもわたしだけど、東京って怖い。ちょっと北海道から出てきて、こんなにも早くアブナイ人に出会ったりして。
 とにかく、早く逃げないと。新幹線の時間だって間に合わなくなるし。
「試験でうまくできなくて、残念だったね」
 その言葉に、わたしはガッチリ捕まった。
「でも落ちたと決まったわけでもないんだし、くよくよしても仕方ないよ」
 仕方ないって、そんなことを言われても。
「ベストは尽くしたんだから、元気を――」
「……うっさいなあ! 元気出せって言いたいんでしょ!? わかってるわよ!」
 大きな音を立ててドアを閉める形で、わたしは牛乳男の言葉を遮った。

132 名前:選考外No.01 六〇〇円 (3/4)[] 投稿日:07/02/18(日) 23:59:57 ID:V50whKxg
 牛乳男は、すました顔でわたしを見つめている。そのなんでも知ってる風な、私のこの怒声も見抜いていた風な瞳が、腹立たしい。
「そりゃ、ベストは尽くしたわよ。それでも、だからこそ、腹立たしいんじゃないっ!」
 あっ、と喉を吹き飛ばすほどの自分の声に気付き、わたしはうつむく。
「ごめんなさい、怒鳴ったりして」
「いいや気にしないよ、ぜんぜん」
 うう、なんか気にしてそうな言い方だよう。
 とは思ったものの、牛乳男は、またしても満面の笑みだった。
「怒ることは必要なことだ。自分の感情を一番ストレートに伝えるものは、怒りだからね」
 何か高尚な台詞だけどしかし、どこかピントがずれてる気もする。
「自分のことを相手に伝えると、いくらか人は気分が良くなる。それはある種、達成感に近いのかもしれない。何かを伝えていくことは、生きることの本分だからね。何も伝えなかったら、生きることには意味も何もなくなってしまう。しかし伝えること自体に意味はあるのか……」
 辞書をめくるような神妙な顔つきで考え込むが、やがて牛乳男は視線を戻した。
「とにかく、少しはすっきりしたかな?」
「あ、えっと、はい、まあ……」
「それは良かった」
 うーん、悪い人ではないみたい。たぶんだけど。商売の方策かもしれないけど。
 ウェイトレスがやってきて、二つのグラスが置かれる。
「それじゃあ、飲もうか」
 あ、やっぱりわたしも飲むんだ。
「たかだか牛乳を飲むのに、なんでそんな凄みを……」
 わたしのあきれた呟きは、耳聡く牛乳男に聞きつけられたようだった。
「牛乳を馬鹿にしちゃいけないよ。知らないのかい、カルシウムは歩いてこないから毎日飲むんだよ」
「はあ……すみません」
 別に馬鹿にしてるわけじゃないんだけどなあ。ていうか、CMソングですか。
「まず牛乳は、こんなに濃い白色でできている。これは栄養たっぷりな証拠だね。しかも美味しい」
 そうとも言い切れない気もするけど。基本的にカルシウム摂取源でしかないし。と、牛乳男は牛乳を飲み干した。
「僕は牛乳が大好きだよ」
 そりゃ、奥さんの買いだめとかのレベルじゃないぐらい買ってるんだから、そうでしょうけども。

133 名前:選考外No.01 六〇〇円 (4/4)[] 投稿日:07/02/19(月) 00:00:26 ID:1uoCFx4D
 まあ、わたしは仮にも牧場育ちだ。牛乳のことを誉められて、嬉しくないことはない。
「それに、牛乳を飲むと背が伸びるという。これは子牛にすくすく育ってもらいたいという、母親の想いなんじゃないかと思うんだ。牛乳には愛が詰まっている、と」
 牛乳に対して異様な情熱を傾けるこの男は、まだまだ続ける。
「こともあろうに人間である僕たちがそれを飲んでいる。だがそれで、母親の想いは無駄になると思うかい?」
「え、いえあの、」
「いや、僕はそうは思わない」
 わたしのことは無視ですか。
「僕らもその想いを受け継ぎ、美味しいと言うことができるんだ。糧とすることもできる。母親の想いは、きっと無駄にはならない。僕はそう信じてる」
 大波に立ち向かうかのように声高に演説した後、牛乳男はわたしをみつめた。
「君のがんばりだって同じさ」
「は?」
 リミット一分の電車乗り換えのようないきなりの話題転換に、わたしはすっとんきょうな声をあげた。
「君のがんばりだって、決して報われないことはない。万にひとつ今が駄目だったとしても、いつか、あらゆる形で、それは君の糧になる。そのとき想いは報われる。無駄なことはひとつもない」
 わたしは、牛乳を見つめた。白色の、くすみを知らない純粋な想い。
 たしかにそれを無駄だと思うのは、いや、絶対に思いたくない。わたしのがんばりが無駄だったとも(そう思えるのは事実だけれども)、思いたくはない。
「ごちそうさま。そろそろ時間だ。わたしは、失礼させていただくよ」
 ハンケチーフで口許を拭き、牛乳男は立ち上がった。ここは、お礼を言う場面かもしれない。
 しかし目の前に置かれたのが牛乳だと、どうにも謝辞を述べる気がそがれるような……あっ、いや、ううん、そんなことを思ってはいけない!
 しかしわたしが牛乳から目線を変えた時、牛乳男は忽然と姿を消してしまっていた。いつのまにか、目を覚ましたときの怒りのように。
 牛乳男は行ってしまったのだと理解すると、わたしは微笑み、牛乳の入ったグラスを眺める。そして、伝票を手に取った。
「牛乳・二つ・ろっぴゃくえん」
 これは、どうやら、わたしが払うらしい。



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